Chapter.I Epilogue part one
 慎重に慎重に、細心の注意をはらいながら扉はあけられた。けれど肝心のしのび笑いがかくしきれていなくて、寝台に横たう部屋の主はつられた笑みをなかったことにするのに苦労した。ゆっくりと、けれどそわそわをおさえきれずに近づく気配。枕にあずけていた頭をすこしうかせて片目をほそくあけると、天蓋からたれる夏用のうすい帳の足元の側をちいさな影が横ぎっていく。毛足のながい絨毯がせっかくその足音をごまかしてくれるのにハミングみたいなしのび笑いはこぼれるままで、顔のすぐそばの帳がそっとひらくその瞬間すらまるっきりつつぬけだった。だから寝たふりをするために目をとじなおすのも、なんのその。
 ひやりとした空気とともに天蓋のなかにしのびこんできた女の子は、なにやらごそごそしてから、おずおずと寝顔をのぞきこむ。満足げに息をつく気配が、こちらの寝たふりが成功したことをおしえてくれる。瞬間、寝台にとびのるくらいのいきおいが枕元にちかづいた。ああもう、それじゃあ本当に台なしじゃない。

「おばあさま、あさよ」

 ほら、そうやって耳元でささやいてやっと、目をさましてもらわなくちゃいけないのに。ちいさな侵入者の祖母は、この部屋の扉があいたときから孫娘のあいらしい声をきくまでのあいだに、いくつ目ざめるきっかけがあったかをこころのなかで指おりかぞえた。けれどそんなことはおくびにもださずに、ふうんと鼻をならしながら片目をあけて覚醒の瞬間を演出した。するとすっかりいたずらを成功させた気でいる少女が、頬を上気させながらこちらをのぞきこんでいる。

「あのね、おこしちゃだめかなとも思ったの。でもぜったいよろこんでもらえると思ったから」
「あらあらおちびさん、まずはお寝ぼうなおばあさまに朝のあいさつをして?」

 興奮気味にとびはねる少女は、そっとのびてきた指先に顎をくすぐられたれたところではっとして、きゅっと身をよせてちいさな唇を祖母の頬におしあてる。おはよう、おばあさま。歌うようなすなおな声は、老人のこころをふわりとあたたかくさせる。そっとやわらかな髪をなで、おはようとかえしながらだきよせて頭のてっぺんあたりにキスをする。
 そのやわらかな赤髪には、全体にこまかい雫がちっていた。ちょっとした雨にふられたあとのようなそれを、指をすべらせてはらう。すると自分のありさまに気づいたのか、女の子はぴょこんとはねおきて寝台から二歩ほどさがる。ミトンの手袋をした両手で祖母のしぐさをひきついで、つづいて厚手のコートの肩にくっついているものもはらいおとす。その一連のうごきをほほえましくながめている視線に気づいたその子は、あっと声をあげてからあわててふりかえる。どうやら先程ごそごそしていたのは、寝台のそばの小卓になにかを一旦おいていたらしい。

「ほんとうは、まずはこれを見せておどろかせたかったのに」

 自身の段どりのわるさにむくれた声をそえて、少女は大事そうに両てのひらにのせたそれをさしだす。少女の懸念のとおり、季節はずれの格好は祖母に孫からのおくりものをすでに想起させてしまっていた。実のところを言ってしまえば、少女とともに帳の内側にしのびこんできたひんやりとした空気を肌に感じた瞬間には、すでに察してしまっていた。それでも彼女はこころの底からうれしそうな笑みをうかべた。目尻や口元にきざまれた皺が、おだやかにますますふかくなる。

「……まあ、なんてかわいらしい」

 ちいさな手のうえで堂々と胸をはっている、すこしだけかたちのわるいちいさな雪だるま。
 夏の雪、季節はずれの雪。この国においては、それは吉兆あるいは凶兆だった。なにかがおこると、きっとみなが予感している。この老人も予感している。おばあさま、この子を枕元にかざっておいてもいい? 無邪気な少女だけは、それをしらない。素敵な提案にうなずきながら、にわかにの胸のおくがはげしく痛んだ。もはやこれがこころの慟哭の証なのか病による発作なのかもわからない。少女が手づくりのともだちを先程までひかえさせていたところにあらためて座らせる。その小卓のうえには、水のみといくつかの小包ものっている。病人は薬のつつまれたそれをひとつもとめようとして、なぜだか考えをあらためた。ゆっくりと息をすってはくことを二回ほどくりかえして痛みをごまかし、かわりに孫娘の名をよんだ。一瞬の間もおかず、ひとなつこい笑みがふりかえる。

「なあに、おばあさま」
「おいで、こちらへ……」

 手まねけば、すなおに身をよせてくれる。寝台に両手をついてすこしだけ身をのりだす。やわらかな赤髪をてのひら全体をつかってなでると、くすぐったそうなはにかみ顔。

「あなたは、この髪の色を気にいっている?」

 唐突な祖母のといかけは、少女になんどかまばたきをさせた。ふたつのちいさな三つ編みの毛先を指でくすぐると、ややあってからうつむいた上目づかいがちらりとこちらを見る。手をうしろのほうでもじもじとさせながら唇をとがらせるそのようすは、質問にこたえているようなものだった。だってね、とてれくさそうに理由をおしえてくれる。

「おじいさまが言ってたの。この髪の色、むかしのおばあさまの髪の色にそっくりって」

 毛先にふれていた指が、一瞬だけうごきをとめる。それからまたてのひらが髪をなでうっすらとした笑みがうかぶ。

「……そう、あのひとが、そんなことを」

 つぶやきには、ひとあし先にいってしまった亡き夫へのいつくしみと謝意と、ひょっとしたら罪悪感がにじんでいた。あなたの人生は、あなたにとって満足いくものだったのかしら。この城でともに生きるときめたこと、後悔しなかったなんてことあるのかしら。あなたには、迷惑ばかりかけたから……。
 いつのまにかまぶたがおちていた。どこかでまちがったのかもしれないし、そもそもただしい選択などできたためしすらないのかもしれない。選択には正解も誤りもないと、だれかに言われたことがある。選択の先にあるのは結果だけ、ただそれがつみかさなっていくだけ。つみかさなってつみかさなりつづけた結果がいまのこのときで、年老いた王は、……かつての王は、結局おのれの過ちの瞬間をもとめずにはいられない。
 おばあさま? 少女のよぶ声がする。それに口元に笑みをうかべてこたえたつもりだった。雪が見たいと思う、真夏の雪が。それにふれたら、やわらかさとつめたさに、きっと胸がひきさかれる。
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