がちゃ。いちど玄関のほうでそんな音がして、それからまたがちゃがちゃという音がひびいてからやっと扉のあくおとがした。
「……ただいま」
ちいさな声でキジっちゃんがつぶやく。あたしはおかえりを言わない。そんなのわかってたみたいでキジっちゃんはなにも言わないでキッチンのほうまでいって手にもっていたふくろをテーブルのうえにおいた。がさりと音がした。
「未知ごめん」
キジっちゃんはそれからソファのうえでクッションをかかえてふてくされているあたしのそばまできた。ちょっとあせった声色はいい気味だった。でもそれっくらいじゃゆるしてやらない、もちろん。
「未知」
ソファのうしろから、あたしの顔をのぞきこむみたいにキジっちゃんが身をのりだす。でもあたしは顔をそらしてにげる。そう簡単に目はあわせてやらない。
「うそつき」
「だからごめんって」
だからごめんって、って。いらっとした。なんだその言い方。キジっちゃんはあいかわらずあたしのあつかい方がうまくない。そんな言い方したらあたしの機嫌がもっとわるくなるっていうそんな単純なこともどうしてわからなんですかねこのひとは。
「キジっちゃんが自分から言いだしたくせに」
ひくい声で言ったら、ああうんそうだね、とはぎれのわるいことばがかえってくる。キジっちゃんのばか。
「あした。あしたつくるから。ゆるしてよ。材料も買ってきたから」
なるほどさっきのがさりという音は本当はきょうつくられるはずだったミネストローネの材料がはいったふくろがはっした音らしい。どうやらゆるしてもらうためにそれなりの努力はしてるみたいだった。でも。キジっちゃんはきょうつくってくれるって言ったのに。あしたって、それじゃあおそい。
べつに、とあたしはかんがえる。べつに、いちにちおくれるくらいほんとはゆるしてあげたかった。だがしかし、そのおくれる原因が気にくわないのだ。急に大学のサークルのコンパに参加することになったんだって。さっき携帯電話にメールがとどいた。かえりがおそいなあと思っていたところだった。メール受信時間から推測するに宴もたけなわなころにうったメール。事後報告ですかそうですか。
未知、とまたキジっちゃんがなさけない声をだしたところで、あたしはぐいとキジっちゃんをにらみあげた。それに面食らうキジっちゃんの顔が一瞬見えた。
「キジっちゃんのあほたれ」
つぶやくがはやいや、あたしはキジっちゃんの首にうでをまわしてひきよせて、できるかぎり乱暴にキスした。下唇に歯をたてて、びっくりしてるキジっちゃんの唇を舌でわった。なんでか必死になってたから、キジっちゃんを味わう余裕なんてもちろんない。そうこうしてるうちにわれにかえったキジっちゃんが自分もあたしの背中に手をまわしてソファの背もたれをまたいでこっち側に移動してきて、その流れのままあたしをおしたおした。それがしゃくだったあたしは唇をはなして肩をおした。
「香水くさい」
「キミは酒くさい」
キジっちゃんは言ってからソファのよこのガラス製のひくいテーブルのうえにビールの空き缶が何本もころがってるのに気づいたみたいでぎょっとしていた。
「よってるの」
「香水くさいよキジっちゃん」
キジっちゃんのまとってるにおいはあたしもキジっちゃんも好まない種類のもので、あきらかにべつの人間のがうつってきたものだった。あまったるくてのどのおくになにかがつまるような感じがするにおい。
キジっちゃんは顔だけはかっこいいから。ぜったい言わないけどほんとはちょっと心配なのだ。中学高校とちがって大学はべつになっちゃったから、キジっちゃんがあっちでなにをしてるのかとか全然わからない。
わかってる、わかってますとも。欲目以外のなんでもないってことくらい。でも、である。あたし以外の女にほれられたりしてないだろうな、なんて。だれのにおいなのそれは、なんて思わずにはいられないんである。
「くさいー」
「そんなこと言ったって。私のせいじゃないでしょ」
みょうにくっついてくるんだよねあの先輩。めんどくさそうにつぶやくキジっちゃん。いやいやいや。ちょっとまったと言いたい。でもキジっちゃんはまったく失言に気づいてないようす。
「先輩ってだれ」
「だからサークルの」
「うわきだ」
「は、なに、ちがうよ、なに言ってんの」
「香水のにおいが証拠」
「だからこれは」
言いかけてから、キジっちゃんはよっぱらいの相手はしてられないって顔をしてあたしのひたいをなでた。
「ベッドいく?」
「なんで」
「ここじゃせまいでしょ」
そういえばいまはおしたおされているのでした。
「やだ」
「ここでいいの?」
「あたしはいまおこってんの」
そういう意味じゃない、って声で言ったけど、たぶんキジっちゃんはわかって言ってるんだろうなあと容易に憶測がたった。なんてったってキジっちゃんはいま、とてつもなくおおきな切り札をもってるのだ。さそったのはそっちでしょ、って。
「んー」
キジっちゃんの唇があたしの顔じゅうをなでる。くすぐったいくすぐったい。言ったってよろこぶだけだから言わないけど。がまんしてたら、するりとTシャツのすそから手が侵入してくる。でもおくへはいかなくて、わきばらのあたりばっかりなでられる。キジっちゃんはしつこい。もっとさわやかにいこうよなにごともさあ。
「くさいよばか」
「ううん、服ぬいだらちょっとはましになるとおもうんだよね」
「じゃあぬいでー」
「だったらキミもぬぎなよ」
「それはやだ」
キジっちゃんめ、キジっちゃんのくせにあたしが香水のにおいにやきもちやいてることに気づいたらしい。キジっちゃんのくせに。はいばんさーい。そう言いながらあたしのうでをうえにもっていってTシャツをずりあげようとする。でもあたしはそれを断固拒否。
「電気」
「……」
「でんきい」
ちらりとキジっちゃんが部屋のいりぐちのほうの壁にあるスイッチを見た。しゅ、羞恥プレイ。とキジっちゃんがつぶやいたのでひたいをおもいっきりはたいてやった。
「ばんざいして」
暗くなった部屋でキジっちゃんがまた言った。しょうがないのでしたがってあげる。
「キジっちゃんも」
「はいはい」
相手はよっぱらいだと思ってきょうのキジっちゃんはつよきだ。いつもそんなだったらいいのに。ふたりして上半身だけはだかになって、唇をよせあってまたキスした。
「きょうは素直だね」
「キジっちゃんこそきょうはかっこいい」
からかったつもりが予想外のきりかえしをされたからか、キジっちゃんはだまった。よっぱらうって便利。なんでも言えてしまうじゃない。
キジっちゃんの唇がくびすじまで移動する。ちゅっとすわれて、そしたらあんって高い声がでた。びっくりした。キジっちゃんもびっくりしていた。
「ど、どうしたの」
「ん……。よってるから感度がよくなってんのかなあ」
「か、感度」
キジっちゃんは露骨な単語がきらい。だからことば責めとかされたことない。したことはあるけど。
「あーなんか、すっごい気持ちい……」
キジっちゃんの体温を感じるだけでもう満足できそう。ほんとよっぱらうって便利。
「きょうの未知、かわいい」
「なに急に」
「キミさ、気づいてないみたいだけど、ろれつまわってないよさっきから」
かわいい。またづぶやいて、キジっちゃんはあたしの鎖骨にキスをおとした。
「んー、んん、んうー」
キジっちゃんはあたしをなめるのがすき。時間をかけてあたしのすみずみにもれなく舌をはわせる。なんでそんなことすんのさ、ってまえにきいたら、未知を私のものにしてるんだよ、って言われた。ううん、意味不明。なんだかへんたいくさいよキジっちゃん。でもそうされてるあいだがすきなあたしもおなじくらいへんたいくさい。
「ね、あたしおいしい?」
「おいしいよもちろん」
「先輩とどっちがおいし?」
「まだ言ってんの」
あきれた声。でもこっちにしてみたらけっこうな重要事項なんです。
「先輩の味はしらないけど、未知よりおいしいひとなんていないよ」
「先輩の味は、ってことはそれ以外のひとのはしってるの?」
「あのね。ことばのあやでしょそれは」
「ね」
「なに?」
「あたしもキジっちゃんなめたい」
ん?って、めずらしいこと言うっていう感じのつぶやきがきこえた。そのとき一瞬キジっちゃんの唇の気配がひふからはなれて、思わずあって言ってしまった。
「だめ」
「なんでえ、つまんない」
「きょうの未知はかわいいから、きょうはぜんぶ私がやってあげるよ」
またキジっちゃんの舌がへそのうえらへんをはった。うう、とくぐもった声をだしたら、キジっちゃんがふって笑った。ちょっとくやしい。
「んー、ねえ、キジっちゃん」
よびかけたら、こんどはなに、ってキジっちゃんが言った。キジっちゃんはあたしを自分のものにしてるのを邪魔されるのがすきじゃない。だからちょっといじめてあげようと思った。
「なんか話して。おもしろい話」
「なに急に」
「ひまなんだもん」
「キミねえ。ひとがていねいにしてあげてるんだからさ。集中しなよ」
「あきた」
「あ、あきたって」
あら、ちょっと言いすぎたかな。ちょっと反省して、でもすぐにまあいいかとひらきなおる。
「ねえ」
「私はいま口がいそがしいから、話なんてしてる余裕ないよ」
「じゃああたしが話してあげる」
なに言いだしてくれるんだこれだからよっぱらいは。口にはださなくてもキジっちゃんの気配がそう言っていた。まあきいてよ。
「こないだね、同じ学部の女子に人気のかっこいい男のひとに彼氏いるのってきかれたの」
「は?」
キジっちゃんがいそがしいらしい口をとめてあたしの顔を見た。暗いからうっすらとしかわからないけど。
「彼女はいるけど彼氏はいないから、いませんって言ったら、じゃあこんどごはんいこうよって」
「ちょっと、キミ急になんの話」
「これっていかないほうがいいのかな」
「いかないほうがいいにきまってるでしょ」
おこった声が即答。あたしはうれしくなった。その反面、ちょっとはらがたってちょっともうしわけなくなった。
「あー、うんやっぱそうだよね」
「急になに言いだすのほんと」
「だって」
キジっちゃんが先輩っていうから。
「……うそだようそ。そんなもてもてなひとにあたしがくどかれるわけないじゃん」
「あ、うそ。ふうん、うそね」
ほっとした声でキジっちゃんが言う。それにあたしは、もしそんなひとがいてもキジっちゃんには話さないよって言った。そっか、とキジっちゃんの返事。キジっちゃんはどうやらいまのことばに先輩のことをうかつに口にしたキジっちゃんへの非難がこめられてたっていうことに、全然気づかなかったみたいだった。
「口とまってるよ、いそがしいんでしょ」
「あーはいはい」
「キジっちゃんあいしてる」
キジっちゃんは、さっきよりもっとていねいにあたしに舌をはわせた。この行為には、いつもじゅんばんがある。まずは首筋。それからひだりうで。つぎにみぎうで。そのつぎは、というぐあいに。キジっちゃんが意識してるかはしらないけど。
「あ」
その過程であたしが声をあげたらそこをことさらゆっくりと。というよりねっとりと。キジっちゃんはほんとにしつこい。前世はへびだ、ぜったい。
「ねえ、ん、思いだした」
「なに?」
「あたしいまおこってるんだった……」
そうだっけ? キジっちゃんは言って、あたしのジーンズをおろしにかかる。まってそれずるい。そう言おうとしたのに、キジっちゃんの唇があたしの口をふさいで邪魔した。
「ん、は、はあ……」
ぜんぶをはぎとられて、それで指と舌ですきにされた。気持ちいい、すっごく。でも、キジっちゃんばっかりしたはいてんのはずるいよ。
「あ、あは、キジ、キジっちゃ」
「ん」
ほんとはね、くどかれたって話ほんとなの。
「そういえば、あん、あたし、お風呂はいってない……」
「ふ、だいぶいまさらだよね、それ」
でもあたしはえらいから。キジっちゃんとちがってちゃんとかんがえてるから。ぜったいそんなこと言わない。キジっちゃんは、そういうところに気づかないとだめなんだよ。このあほたれ。わかってんの。
「未知、かわいい。すき」
でもさあ、そんなかわいい声でそんなうれしいこと言われたら、あほでもいっか、って思っちゃうんだよ。あたしってそんなにキジっちゃんのことすきなんだよ。やっぱり、キジっちゃんはそこんところちゃんとわかってなきゃだめなんだよ。わかってんのかこのへんたい。
「あーしまった」
お風呂からあがったらキジっちゃんがキッチンのほうにたって頭をかいていた。
「なに、どしたの」
「あ、いや」
あたしがあがってきたのに気づいてなかったキジっちゃんはぎくっと肩をゆらした。ちなみにキジっちゃんはさっきのまんま上半身だけはだかだった。手もとをのぞいてみたら、なぜかべたべたになってる例のふくろの中身。なんじゃこりゃ。
「いやさ、……アイスがとけちゃって」
キジっちゃんの指さすさき、つまりふくろの中身のうえのほうには、ふやけたアイスのパッケージ。完璧に液状になった元アイスクリームが、厚紙のいれものからこぼれてふくろの中身全土にいきわたってしまったらしい。
「冷凍庫にいれわすれた」
「もう、どじ」
言ってから気づいた。これ、あたしの最近お気に入りのアイスメーカーのさらにお気に入りのバニラ味じゃないですか。
「せっかく買ったのにだいなし」
力なくつぶやいたキジっちゃん。そのせっかくっていうのは、どろどろべたべたになっちゃったミネストローネの材料たちにかかるのか、それともあたしのために買ってきてくれたんであろうアイスクリームにかかるのか。
「ねねね、いいこと思いついた」
「ん?」
あたしはアイスクリームの丸いいれものを手にとる。そのなかにはまだすこし液体アイスがのこっている。
「これでさ、クリームプレイしよ。ちょっとしかないけど」
「はっ?」
キジっちゃんが上半身はだかなのをいいことに、ふいうちでキッチンのテーブルにおしたおしてむねのうえに白いアイスをたらした。
「げっ、ちょ、未知」
「さっきはあたしばっかりだったから」
「ちょっと、キミねえ……」
まあいいじゃん。あたしのために買ってきてくれたアイスが、ちゃんとあたしの胃のなかにおさまるんだから。
07.07.01 日常的日常