暖房がきいた室内。そとはゆきがつもってるのにここはまるでそれを無視している。あまりすきな状態じゃないけどわたしだってひとなみにさむいのは苦手なので暖房をきる気にはなれない。
「まいにちさむいけど、かぜとかひいとらんか」
まどには水滴がついている。すこし思いだした。桃香さんがよくらくがきしてた。桃香さんはじつはあんまり絵が上手じゃない。だけどその自覚がないみたいだしわたしとしては桃香さんが描いたものだというだけでとても魅力的なものに見えていたからとくにそれを口にしたことはなかった。
「わたしはぜんぜん。桃香さんこそ」
「ウチがかぜなんかひくかい」
桃香さんが笑う。わたしも笑った。そうでしたね、桃香さんは、かぜなんてひいたことないんですよね。
「ああ、そうや」
思いだしたような声がした。わたしは反射的にみみをすませる。部屋のなかはわたしひとり。音は、わたしの声と携帯電話によってつたえられるとおくにいる桃香さんの声だけ。
「こんど、そっちあそびにいくけん。予定あけといて」
それから、もしかしたら、しんしんというゆきがふる音もきこえたかもしれない。
「へえ、桃香ちゃんこんどこっちくんだ」
昼時の大学の食堂はとてもさわがしい。となりにすわる未知さんの声もききとりづらい。わたしもすこしおおきな声をだす。
「はい、ええっと、来週の土日だったと思います」
「わ、もうすぐじゃん。でもたいへんだね、ゆきあるし」
未知さんがまどのそとに視線をむける。わたしもつられると、木のえだにつもる白いゆきが見えた。
「でも、よかったね」
にこ、と未知さんが笑う。よかったね。あらためてそう言われて、急に桃香さんとひさしぶりにあえるんだということを実感した。いつからあってないっけ、夏にいちど、それからあったかしら。ふいにむねがいたんだ。
「……はい」
思わずくちもとがゆるむ。そのおかげで自分がいまとても桃香さんにあいたいんだと自覚してしまった。すこしとおくにいる桃香さんとはほとんどあえない。電話とか、メールとかはするけど、ほんとうにあうことができたのは高校を卒業してから数えるくらいだけ。すこしずつそれが自然なことになってきていたのに、いざあえるとなるとわたしはその日常をわすれて桃香さんのことばかりになる。それがなんだかはずかしくて、未知さんにもそのことは言っていない。
ふふ、とふいに未知さんが笑った。顔をあげると、未知さんはまた笑った。
「桃香ちゃんのためか、やけるねえ」
「え、なんの話ですか?」
「すずちゃんがかわいいって話」
一瞬ぽかんとしたあと、赤面してしまった。未知さんはいつもとつぜんへんなことを言う。それがからかっているわけじゃないのはわかるけど本気で言ってるのかはわからない。わたしがかわいいなんて。そんなこと言われたとき、なんてかえしていいのかなんてしらない。どうしようもなくてうつむいたら、また未知さんが笑う。わたしのことをわんわんとよんでくれていたころからかわらない。未知さんこそほんとうにかわいい。うらやましいと思うことはまれじゃなかった。
「あ、あの。冗談はおいといて、みんなでどこにいくかきめましょう」
「え、みんなって?」
「桃香さんと未知さんと雉宮さんとわたしです。あそびにいくって」
「ばっかだなあ」
あきれた、と言わんばかりの声。それからため息。さえぎられたわたしは思わず姿勢をただした。すると未知さんは、予想外のことを言いだした。
「すずちゃんと桃香ちゃんふたりであそぶの。なんであたしたちまで勘定にいれてんのさ」
「ええ、だって、みんなでひさしぶりにあつまるのもいいかなって」
「あたしとキジっちゃんにはあおうと思えばいつでもあえるでしょ」
「いやでも、桃香さんはそうもいかないし、たぶんあっちはそういうつもりだし」
「そんなのてきとうにいいわけかんがえてあたしとキジっちゃんが参加不可ってことにすればいいの」
「ふ、ふたり……」
ふたりでだなんて。わたしは思わず絶句した。むかしは、ふたりでいることはめずらしくなかった。その時間がわたしはとてもすきだった。でも、それならいまだって、なんて都合よくはいかない。わたしはもうむかしとちがってしまった。わたしは自覚してしまった。
「すきなんでしょ?」
未知さんが言う。デジャヴ。大学にかよいはじめたばかりのころ。やわくあたたかいひざしがあって、木のしたのかげで未知さんとふたりで話した。すずちゃんさ、桃香ちゃんのことすきだったでしょ。見てるこっちがやきもきしっちゃったんだから。桃香ちゃんは桃香ちゃんでにっぶくてさ、ぜんぜん気づいてないし。でも、いちばんにぶいのすずちゃんだよ。ねえ、気づいてないんでしょ。
「あたしさ、ふたりがうまくいったら、うれしい……」
食堂なんかでする話じゃなかった。なきそうになった。未知さんの言うことは、あのときもいまもただしい。ぜんぶただしい。わたしはすき。桃香さんが、むかしからずっとすき。
「……ごめん、なに自分の願望言ってんだろあたし」
あはは、って笑って、未知さんはわたしがなきそうなのをたすけようとしてくれた。わたしはそれにくびをふることしかできなかった。せめて、ありがとうくらい言えたらよかった。
「すずちゃん」
うつむいたままのわたしのそでを未知さんがちょいちょいとひく。わたしはすこしだけ未知さんのほうに目をむけることができた。すると未知さんは、わたしのみみもとにくちびるをよせて、ちいさくささやいた。……おしたおしちゃいなよ。
「……」
絶句。なみだもひっこんだ。目を白黒させてこんどこそしっかり未知さんを見ると、未知さんは満足げに目元をゆるめた。さーたべよたべよ。さめちゃうよ。そしてそう言ってわりばしをわった。わたしは絶句したまま未知さんにつづく。それから、やっぱり未知さんは、とつぜんへんなことを言う、とってもやさしいひとだと思った。
「ふふ」
思ったら急におかしくなって笑いがもれてしまって、なにさ、って未知さんにつめよられてしまったけど、わたしはありがとうごさいますとだけ言った。それ以外のことは、わたしだけのひみつにしたくなってしまったのだった。
時間がたつのは思いのほかはやい。桃香さんとあえる日は、もうあしただった。さっきまで桃香さんと電話していた。いつこちらにつくか、とかの事務的な話はすぐにすんだ。それから、あしたは未知さんと雉宮さんはいないと言ったら、桃香さんはもうそれをしっていた。キジのやつが電話よこしよったんよ、と桃香さんが言った。
「あいつらあいかわらず?」
「はい。ふたりともお元気ですよ」
「ほーか、あいかわらずバカップルか」
「ば、ばかってそんな」
「はは、あーゆうやつらはそれっくらいゆうてやったほうがええんて。自分らしか見えてないけん」
あはは、と桃香さんがもういちど笑う。それをききながらわたしは思いうかべた。あのひとたちは、ほんとうに素敵だ。自分らしか見えてないけん。桃香さんのそのことばは、ちょっとまちがっているけど、ほんとうにそのとおりなのだ。
「……うらやましいです」
「お」
気づいたらつぶやいていた。桃香さんはもちろんそれをききのがしてはくれなかった。
「なんや、わんこ。あんたすきなやつでもおるん?」
興味津々とばかりに桃香さんが言った。わたしはこまった。ごまかせばきっと桃香さんはそれ以上はきいてこない。でもこれはチャンスなのかもしれなかった。言ってしまうべきか。わたしは、もったいぶった口をゆっくりとひらく。
「……ひ、ひみつです」
結局でてきたことばはそれだけ。精一杯の牽制球だった。ふうん、と、やっぱり桃香さんはそれ以上はきいてこなかった。そんじゃ、また。あしたよろしくな。桃香さんとの通話はそれでおわり。もう音はしない携帯電話の液晶をながめる。桃香さんからの着信履歴。
「……」
言わなくてきっとよかった。もし言ってしまって、桃香さんをこまらせてしまって、あしたがおじゃんになったらわたしはきっとたちなおれない。ずるい思考だと思った。それから気づく。あした言うにしても、桃香さんをこまらせることになるにちがいないんだ。わたしはすくなからず動揺した。きめたのに。あしたぜったい言うってきめたのに。おじけづきそうになってあたまをふった。
「……きめたんだから」
携帯電話をにぎりしめる。大丈夫。ふと、くもったまどが目にうつる。なにか描いてって言ったら、桃香さんは描いてくれるのだろうか。
「だいじょうぶ……」
なにが大丈夫かなんてしらない。それでも、わたしはそう思わずにはいられなかった。
「おー。わんこ」
桃香さんがすこしはなれたところから手をふる。あいかわらずの声にあいかわらずの笑顔だった。まちあわせ場所の駅の改札前。それにこたえて会釈すると桃香さんが小走りになる。
「ひさしぶり。何ヶ月ぶり?」
「こないだあったのって……」
「まだ夏やったか、たしか」
ほんま、ひさしぶりじゃのお。かっと桃香さんが笑う。わたしは一所懸命それに笑いかえしたけど、緊張しすぎてまともに笑えていたかはわからなかった。
「えっと、きょうは」
「とりあえずわんこのうちいってええ? つかすまんな、泊めさしてもろて」
「や、ぜんぜん、どうせひとりぐらしですし」
桃香さんの手荷物をひとつもとうとしたのに、ええって、と言って桃香さんはさきにあるきだしてしまった。わたしの家はそっちじゃなくてこっちです桃香さん。あわてて言ったら、桃香さんもあわててもどってきた。せっかちなところもあいかわらずだった。ほっとした。
「なべしよなべ。さむい日はなべにかぎる」
桃香さんのそのことばで、わたしの家に荷物をおいたあとかいものにいくことになった。おお、わんこんちはじめて。桃香さんが声をあげる。そういえばはじめて。
「けっこうええとこすんどるやん」
「そ、そうですか?」
「おー、ウチがすんどる部屋はしゃれんならん。すきま風がやばい。部屋んなかでもこごえれるで」
きょろきょろと桃香さんがわたしの部屋のなかを見わたす。はずかしかったから、桃香さんはつかれているかもしれなかったけどさっそくかいものにいくことにした。
「何なべにしますか?」
「んー、なべっちゅーたらやっぱ雉なべじゃろ」
「き、雉……」
「あは。じょーだん。水炊きにしとこ、簡単やし」
ふたりして近所のスーパーへいった。デートみたい、と思いついてしまって赤面した。ひととおりまわってかいものはすませて、それからかったものをふくろにつめた。そしたら、桃香さんはあんまりしぜんにそれをつかむ。
「え、あの」
「きょうはウチが荷物もち。泊まらしてもらうんじゃけんこんくらいさして」
「でも」
「えーからえーから」
さむいけん、はよかえってなべしよー。桃香さんはさっさとあるきだしてしまった。わたしはそれをおいかける。それから、桃香さんがもつふたつのふくろのうちのひとつに手をかけた。
「ん」
「いっこずつ、にしましょう」
そう言ったら、桃香さんは一瞬思案して、それから笑って、んじゃ、わんこはかるいほう。ってふくろをひとつよこしてくれた。ふと思いだす。以前、雉宮さんとお酒をのむ機会があった。すこしよった雉宮さんは、めずらしく未知さんとの話をしてくれた。あのふたりは、あんまり自分たちの話をしない。だからわたしはそのときのことをよくおぼえている。未知はね、そうだな、スーパーとかにかいものにいくでしょ、そしたら私が荷物ぜんぶもたないとおこるんだよ。気がきかない!ってさあ。理不尽だと思わない? で、そのくせね。そのくせ、私がわすれずに荷物もつよって言ったら、あたしも半分もつよって。はあ、素直じゃないんだ、未知は。
そんなことを言いながら、雉宮さんはしあわせそうだった。わたしは、だからふたりの話をきくのがすきだった。桃香さんは、のろけか!っておこりそうな話だけど、わたしはしあわせな話をきくのがすきだった。そしていま、わたしはそんなしあわせなあのひとたちとおなじようなことを桃香さんとしている。そう思うと、まるでわたしたちまで恋人同士になったみたい。そんなことをかんがえてしまってはずかしくなった。なんてばかなこと。
「んー、わんこ。顔赤いで」
「えっ」
急にのぞきこまれた。思わずのけぞったらそこをあるいていたひとにぶつかってしまった。す、すみません、と頭をさげたら、もうそこにはだれもいなかった。
「おー。だいじょぶかー?」
「え、はいっ、わたしはぜんぜん」
「さむいけんね、はよかえってあったまろ」
そう言って、桃香さんはきっとまっ赤になってるだろうわたしのほほに自分のてのこうをかるくあてた。ん、ひえとる。さっさとかえろ。桃香さんはさくさくと歩調をはやめた。
「……」
正直な話、いまのでさむさなんてふっとびました。
荷物をおきにきたときにヒーターをつけておいたから、部屋のなかは充分あたたかかった。
「お、まどくもっとる」
むかしもらくがきしたなあ。言いながら、桃香さんはさっそくとばかりにまどに手をのばした。あまりに予想どおりすぎで笑ってしまった。
できた、と桃香さんが言うからちかづいてのぞきこんだ。
「なんですか、これ」
「見てわからん? いぬー」
「いぬ……」
かたがくずれたそのいぬ(桃香さんいわく)はあいきょうたっぷりの表情でわたしを見ていた。かわいい、と言ったら、桃香さんはひひと笑っていぬをゆびさした。それからなぜかわたしをゆびさす。
「わんこわんこ」
「……え、ええ、これ、わたしですか?」
「わんこはいぬににとるけん」
「そ、そうですか?」
「おー。むかしっから。なまえだけじゃなくてぜんぶが」
よっしゃ。なべなべ。もう気がすんだらしい桃香さんは床におろしたスーパーのふくろをつかみなおして台所のほうへいった。わたしはしばらくそのいぬかつわたし(桃香さんいわく)を見つめた。どうしてか急にはずかしくなった。
「しかし、よおどなべとかあったな。ひとりぐらしやったらつかわんじゃろ」
あれ、どなべなかったらなべできんのとちがうか、って、いまさら気づいたように言ったのは桃香さんだった。すぐにどなべをひっぱりだしてきたらおどろかれた。なべしたいって言ったのは桃香さんなのに。
「母が、なんでももたせたがって。いつなにがひつようになるかわからないからって」
ほんとうにそのとおりですおかあさん。おかあさんのおかげでなべができます。ありがとう、おかあさん。こころのなかでおがんでいたら、桃香さんにへんな顔をされてしまった。
いっしょにざいりょうをきっていっしょにこたつにはいってどなべでざいりょうをにこんだ。うまそうじゃなあ。桃香さんが言うからわたしはうなずいた。ふたりでなべをつつきながら、いろんな話をした。むかしばなしおたがいの近況。それから、あしたの予定。海いきたいなあ海。と桃香さんが言ったけど、きっとさむいですよって言ったら、じゃあ夏にいこうって。来年の夏は海。決定。桃香さんがうれしそうに宣言する。それまでにウチ車の免許とるけん。キジたちもさそってな。たのしげな桃香さんの声。わたしもとてもわくわくした。
「あー。うまかった。ごちそうさま」
あらかたたべおわって、ふたりで息をついた。すこしのこったのは、あしたにでもまたたべればいい。わたしがたちあがりかけたら、桃香さんが、ん?って顔をした。
「食後のお茶いれますね」
「あ、ウチもてつだう」
「いやそんな」
ふたりでやるほどのものでもないからって、たちあがろうとする桃香さんをとどめようとして、しかもさらに自分はたちあがろうとした。そしたら、不注意にもこたつのあしにあしをひっかけてしまった。あっと思うまもなく桃香さんのほうにからだがたおれた。
「わっ」
桃香さんが声をあげる。それから間をおかずにいたっというちいさな悲鳴。
「す、すみません」
「あーいや。大丈夫」
後頭部をさすりながら桃香さんが言う。なんてまぬけなことしちゃったんだろうって、よけようと思って、それから気づいた。いまの体勢。これじゃまるで。
……おしたおしちゃいなよ。ふいに未知さんのことばが頭をよぎった。かあ、と体温があがる。じわりとせなかに汗がにじんだ。それから思いだす。言わなくちゃ。いつまでもどけようとしないわたしを、桃香さんはふしぎそうに見あげた。
「も、……ももか、さん」
「ん?」
桃香さんがくびをかしげる。わたしの体温はどんどんと上昇している。すくなくともそう思えた。のどがからからになって、すこしいたい。それでも声をだそうとして、でもなかなか声帯がうまくうごいてくれなかった。
「……わんこ?」
わたしがだまりこんだからか、桃香さんがわたしをよぶ。それすらもいまのわたしには多大な刺激だった。体温の上昇がとまらない。しぬかもしれない、と本気で思った。
「わんこ、どした。体調わるなったとか?」
桃香さんのてのひらがわたしの顔にのびてきた。わたしは思わずその手をつかんだ。桃香さんがきょとんとする。わたしはわけがわからなくなる。それからは、かってに口がうごいた。どうにもならなかった。
「わ、わたし、桃香さんに、わんこってよばれるの、すきなんです」
「え、わんこ?」
「わたし、わたし……」
視界がゆがんだ。だめだ、と思った。こんなはずじゃなかったのに。こんな。
「わたし、ずっとすきだったんです。すきなの、桃香さん」
ぱたぱたと水滴がおちる。桃香さんのほほをぬらした。それがわたしの目からながれているということをうけいれたくなかった。ぜったいなくのだけはだめだって思ってたのに。桃香さんがこまるようなやりかたは、だめだって。
「う、う……」
とまらなかった。いっそゆめならよかった。ぜんぶがゆめならよかった。この気持ちも、ぜんぶ。わたしはいまどんな顔をしてるんだろう。桃香さんを、いったいどんな顔にさせてるんだろう。もうなにも見えなかった。見たくもないのかもしれなかった。
とつぜん、上半身がういた。なにがおこってるのかわからないまま、わたしは息をのんだ。
「な、なんでなく」
ぎゅっと、わたしのからだがなにかにつつまれた。あったかい。それから、自分がいま桃香さんのうでのなかにいるんだって気づいた。しんじられなかった。
「あんたがないたら、ウチ、どうしたらいいか……」
なかんで、わんこ。すきなら、いっぱいわんこってよぶけん。おねがいじゃけん、なかんで。桃香さんのあったかい声。ここちよくて、なんどもよばれたくて、そしたら桃香さんはいっぱいわたしをよんでくれた。なきやまなくちゃって、よばれるたびそう思ったのに、どうしてか桃香さんの声がきこえるたびなみだがでてきて、けっきょくわたしは、大声をあげてないてしまった。
「……」
目がさめても、いぜんわたしは桃香さんのうでのなかだった。いまさらながら緊張して、顔どころか全身があつくなった。そとはもうあかるい。朝だ。
「ももか……さん」
目前によびかけても、まったく反応はなかった。わたしはすこしほっとする。それからそっとうでのなかからぬけだして寝顔を見おろした。あのころのままのやさしい顔。
ここがわたしのベッドだと気づいた。わたしのきのうの記憶はとちゅうでとぎれている。ということは、わたしをはこんでくれたのは桃香さんだ。さいあくだと思った。こまらせちゃいけないって、めいわくかけちゃいけないって、それだけはせめってって思っていたのに。こまらせたしめいわくかけた。きのうは、さいあくだった。
きのうは。そうかんがえて急に思いだした。きのうのこと。かあ、とさっき以上に体温があがった。顔が赤くなるのがわかった。言ってしまった。すきだって。心臓がなった。思わずつばをのみこんだ。それから、桃香さんは言ってくれた。すきなら、いっぱいわんこってよぶけん。
「……」
あれ、と思った。急に思考が冷静になる。……もしかして桃香さん、わたしがすきって言ったの、わんこってよばれることだと思った?…………。
思わず笑いがこみあげた。桃香さんがおきないようになんとかこらえた。一世一代の告白をかんちがいされたっていうのに、わたしはぜんぜんショックじゃなかった。むしろとてもうれしかった。それでこそ、桃香さんなのだ。わたしのすきな、だいすきな桃香さんなのだ。
もういちど見た寝顔は、見たことないほどかわいかった。
ひんやりとした室内。なべはきのうのまんまだった。かたづけよう。それからあさごはんもつくろう。桃香さんは、たしかたまごやきがすきだった。
ふと、きのうのまどが目にうつった。桃香さんが描いたあいきょうたっぷりのいぬの絵。うっすらとまだそこにあった。そうかと思った。きっとそれでいいのだ。こうやってひそかに自分のなかに存在するだけで、わたしはしあわせなのだ。わたしたちがうまくいくことをねがってくれた未知さんにはもうしわけないけど、きっとこれでいいんだ。
気配がしてふりかえると、桃香さんがいた。
「あ……、お、おはようございます」
「……おはよ」
これでいいんだって、さっき納得したばっかりなのに、わたしの心臓はおおきな音をたてた。わたしはこんなに現金だっただろうか。ちいさく深呼吸した。それから笑った。こころから笑えた気がした。
「あの、きのうは、すみませんでした。めいわくかけちゃったみたいで」
「え、や、ぜんぜんそんなこと。あ、かたづけ、てつだうわ」
わたしがどなべをはこんで、桃香さんは小皿とかをはこんでくれた。ふたりで、台所であらいものをした。つめたいみずがながれる音と、かちゃかちゃと食器がならす音だけしかなかった。桃香さんがしずかだなんて、すこしめずらしかった。朝がよわいということはべつだんなかったと思うけど。
「わんこ」
「は、はいっ」
とうとつに桃香さんが言った。それはほんとうにまえぶれがなかった。もっていた小皿をおとしそうになりながら桃香さんを見た。あ、ほっぺにあわがついてる。
「あー、まあ、なんや」
いつになくはぎれのわるい桃香さん。わたしがくびをかしげたら、桃香さんは視線をおよがせてほほをかいた。それからひとつせきばらい。
「きょうは、初デート……いく?」
「……」
ちがった。かんちがいなんてされてなかった。
「え、あ、わんこっ」
それだというのに、あまりのことでわたしが気絶してしまったせいで、初デートはつぎの機会にもちこしとなってしまったのだった。
07.08.20 いちじくきったらあおかった