「…こんばんは」
「……ごめん、急に」
いえそんな。言いながらひらいた玄関のドアのむこうにいる未知さんをなかにまねく。連絡をもらってからほとんど時間はたっていない。電話での声もそうだったけど、すこしようすがおかしい気がした。思わず瞬いてから、とりあえずこしかけてもらってのみものをもってくることにする。
「ごめん。さっきの電話さ、すぐそこでしたんだ」
「あ、そうなんですか」
「頭に血のぼっててさ、気づいたらすずちゃんちのちかくまできてて」
ほんとごめん。未知さんが本日何度目になるかわからない謝罪のことばを口にする。それに、頭に血のぼって、って言った。
「けんかですか?」
「……」
たぶんビンゴだろうと思ってそう言ったけど、未知さんはだまってうつむいた。けんか、どうだろう。それからそうつぶやいてため息をつく。
「けんか……じゃないと思う。あたしがかってにおこってんの。そんで、わるいのもあたしなの」
「……はあ」
「すずちゃんたちけんかとかしないでしょ」
急に話をふられて、動揺でなにも言えないでいたら笑われた。ごまかすためにココアいりのカップに口をつけたら未知さんもテーブルのうえにおかれていたカップに手をのばす。
「あったかー」
「あ、つめたいもののほうがよかったですか」
「や、あったかいのがよかった。ありがと」
ひとくちふくんで、ふうと未知さんが息をつく。さっきのため息とはちょっとちがう。
「すずちゃんたちってさ、けんかしたらどうやってなかなおりする?」
「え、えっと、なかなおりですか。えー、っと」
「……もしかしてほんとにけんかしたことないとか言わないでよ」
「……」
「うっそ、まじで? しょっちゅうしてるよあたしらなんか」
「そんなふうには見えませんけど」
「まあ、本格的なのになるまえにキジっちゃんがあやまってくるからね」
あはは、と未知さんが笑って、でもすぐにはっとしたみたいに笑みをけした。どうしたんだろうと思っていると、あーあ、ととなりから聞こえてきた。見てみると未知さんがなきそうな顔をしていた。
「え、未知さん?」
「そうだよね、すずちゃんも桃香ちゃんもやさしいもん。けんかなんてしないよね」
どん、と未知さんが手にもったカップをテーブルにおく。おおきな音がしておどろいた。目を白黒させてもういちど未知さんを見たら、その目はすわっていた。はっとする。もしかして未知さんはよってるんじゃなかろうか。
「ほんとさあ、こんなこと言いたくないんだけど。こころのそこから。本気で」
そうまえおきして、未知さんが茶色い波のたつカップのふちをゆびのはらでなぞる。
「……キジっちゃんて、おひとよしっていうか、…やさしいでしょ」
しぼりだすように言って、それから未知さんは苦虫をかみつぶしたような顔をした。わたしはおどろいた。未知さんが雉宮さんにそんな認識をもってるなんて。たしかに雉宮さんはやさしい。雉宮さんは無意識なんだろうけどこと未知さんにたいしては見てるこっちがはずかしいくらい。当然といえば当然なんだろうけど、未知さんはいつも雉宮さんのそういうところをなさけないだとかかっこわるいだとか言ってるから、いざほんとうにそう言われてなんとなくおどろいてしまったのだ。
「あーもう、だまんないでよおねがいだから。だから言いたくなかったのに」
沈黙にたえられなくなったらしい未知さんが、さっきの顔をさらにゆがめてぱたんとゆかにねそべって両手で顔をおおった。
「ごめんなさい、わざとだまったわけじゃなくて」
「ほんとにもうさあ。なにのろけみたいなこと言ってんだろ。あーだめだ。きょうのあたしだめだ」
あおむけで顔をかくしている未知さんをのぞきこむ。みみが赤くてかわいかった。
「わたし、未知さんののろけ話きくのすきですよ」
「す、すきって、あたしいつもしてる?」
「えーっと。ごくたまに」
「うそ、ほんと? 無意識かよあたし」
しんじらんない。くちびるもてのひらでおおわれているせいで、くぐもった声で未知さんが言う。きょうの未知さんはとってもかわいい。まねしてわたしもねころがってみたら、未知さんがちらっとわたしに視線をよこして、それからからだごとこっちをむいてくれた。
「……キジっちゃんって、すぐごめんって言うのね。あたしがぜったいにわるくても、ぜったいさきにあやまんの。きょうだって」
「それで、頭に血がのぼっちゃったんですか」
「ん……、だいっきらいってぶんなぐってとびだしてきちゃった」
「……」
「なんとかグーはがまんしたんだけど」
「そ、それはよかったですね」
相談っていうわけじゃないんだろうけど、未知さんがこんなふうに話をしてくれることはあんまりない。だからうれしい反面どうこたえればいいかわからないでいたら、未知さんに手をとられた。わたしの右手に未知さんの両てのひらがからまった。
「あたしさあ、だめなんだ。あたしばっかりだめで、すずちゃんだって桃香ちゃんだって、あのキジっちゃんだって。みんなやさしいのに、あたしばっかり身勝手なんだもん」
やんなっちゃうよ。ぎゅ、とわたしの手をにぎるてのひらにちからがこめられた。わたしもそれをにぎりかえして、そんなことないのに、と思った。
「ほんとは、わかってるんだよ。キジっちゃんがあやまってくれるのはあたしができないってしってるからで、そんで、あたしはそれにあまえてるだけで、ほんとはあたしがわるいってわかってるのに」
ちがうのに、とわたしは思った。未知さんがやさしくないはずない。いつだってわたしのせなかをおしてくれる未知さんがやさしくないはずないのだ。ただすこし、雉宮さんのまえではすなおになれないだけなんだろうなあと思う。かわいいひとだなあと、あらためて実感した。わたしと未知さんのむねのまえあたりでからまっていた手に、もうひとつの自分のてのひらをよせて目のたかさくらいまでひっぱった。
「未知さんのゆび、きれい」
「すずちゃんこそ」
でもきっと、未知さんがやさしいひとだなんてことを雉宮さんがしらないはずもないから、わたしなんかがわざわざおしえてあげる必要なんてない。これはきっとわたしの役割じゃない。
「未知さんは、いま言ったことを雉宮さんに話せばいいと思います」
「ん、うん……」
そうすれば万事まるくおさまるんだから。こういうのを痴話げんかっていうのかしら。そう思いついてつい笑ったら、未知さんがほほをふくらませた。いつもの未知さんだ。
「なに笑ってんの」
「未知さん、かわいいです」
「えーなにそれ。すずちゃんに言われてもなあ」
「え、どどうしてですか」
「だって、すずちゃんの場合はさ、なんかもうすべてがねえ。桃香ちゃんがうらやましい」
「な、なんで急に桃香さんがでてくるんですか」
「あーあたしもうすずちゃんとつきあいたい」
「え、ええっ?」
そんなことを言いあいながらねころがったままじゃれていると、インタフォンがなった。わたしははっとする。
「あれ、こんな時間に」
未知さんはそこまで言ってすぐに気づいたみたいで、玄関のほうへむかっていた視線をわたしのほうにがばりともどした。しまった、というわたしの顔を見てぜんぶわかったらしい未知さんがいきおいよくからだをおこす。
「……わかった、ココアいれてくれてたときだ」
「あ、いやその。未知さん」
未知さんはすばやくたちあがって玄関にかけだす。わたしもおくれておいかけた。ご明察だった。キッチンでココアをいれていたところで雉宮さんから電話があった。きていると言ったらいますぐいくと言われて返事をする間もなくきられてしまった。
玄関先ではすでに両者対面をはたしていた。思わず混乱しそうになる。
「な、なんでくんのお? しんじらんない」
「ごめん」
「あー、やだあやまんないでよ。キジっちゃんがそんなだから」
やばい、とわたしが思ったところで未知さんが口をつぐんだ。それにほっとしながら、どうしてわたしがあたふたしてるんだろうと思った。そう思いつつもやっぱりはらはらしながらなりゆきを見まもっていると、うつむいている未知さんのむこうの雉宮さんと目があった。その目がごめんと言っていたからくびをふる。
「あーもうなんで……こんなこと言いたいんじゃないのに」
「未知、かえろう」
「……」
「ねえ、ちょっとお酒のんでるでしょ」
「……のんでない」
あ、やっぱりそうなんだ。と思っているとまた雉宮さんと目があった。ちがいます、わたしがのませたんじゃないです、という意味でまた首をふったら苦笑された。それにしても一瞬で見ぬくなんてすごい。ぼおっと感心していると未知さんがぐるっとわたしのほうへむきなおったのでおどろいた。ちょっとこわい顔。
「……すずちゃん。ココア、ありがとね」
ごめん、おやすみ、とちょっともうしわけなさそうに笑いながら、未知さんは雉宮さんをのこしてさっさと玄関のドアをくぐっていった。ココアを強調した口調。思わず笑った。雉宮さんのまえだとほんとうにすなおじゃないんだなあと思った。ふと雉宮さんに視線をむけると、雉宮さんが顔のまえでかるく手をあわせた。
「犬神サンごめん」
「や。気にしないでください。それより、ちゃんとなかなおりしてくださいね」
「……ありがと。このかりはいつかかならず」
おやすみ、と言いのこしてあわててはしりだした雉宮さんをちょっと見おくったあと、玄関のドアをゆっくりとしめた。きっとふたりは家につくころにはすっかりなかなおりしてるんだろうなあと思いながら。
「……」
わたしは部屋にもどってふたつのカップをさっさとかたづける。それから、そのへんにころがっていた携帯電話を手にとった。そしてなれた手つきでボタンをおす。
「……あ、桃香さん。すみません夜おそくに。ちょっとその、声が聞きたくなって。いやそんなんじゃなくて、ちょっと、なかのいいふたりにあてられちゃって……」
07.09.23 やわらかいよるに