バスケットボールがはねる音シューズのうらがキュッキュとすれる音歓声がこだまする音。体育館のかべにもたれてすわりこみながらわたしは無駄に顕著につたわってくるそれらにすこしうんざりとした。

「よくこわくないよね」
「なにが?」

 となりの吉川からのその反応は当然のものだった。わたしはぼおっとかんがえていたことのつづきをぽろりと口にだしてしまっただけなのだ。ただおどろいたのは、わたしと同様ぼおっとしていた吉川がわたしのつぶやきに気づいたこと。

「体育館ってうるさい」
「音ひびくからねえ」

 ひとつのボールをとりあってはしりまわるクラスメイトを見るともなしに見ながら、わたしはひきつづきかんがえる。いや思いだす。よくこわくないよね。まえにもいちど言ったことのあることばだった。吉川は、よく氷室さんがこわくないよね。そのときの吉川の反応はよくおぼえている。心底ふしぎそうな顔。なんで?と言わんばかりの。あのひとこわいよ、言っちゃなんだけどさ。わたしがそう言ったらこんどこそおこったような否定の声があがった。瞑ちゃんはやさしいよ。

「ねえ、こわいってなにが?」

 吉川がみょうにずれたタイミングでたずねてくる。わたしはまたあのときのような会話をするのはいやだったのでただのひとりごとって言った。ふうん、とさして興味もなさそうにつぶやいて、それから急に吉川がわっと声をあげて身をちぢこませた。とたんわたしたちがもたれているかべにボールがぶつかった。だん、とばかでかい音それからかべをつたう振動。そのあとごめんというクラスメイトの声がきこえた。

「……びっくりしたあ」

 ほっとしたため息がきこえた。わたしはボールがぶつかった場所をながめる。わたしたちから3メートル以上ははなれているところ。そこまでびっくりする必要もないだろうにと思った。吉川はけっこう小心者で臆病者で、それだというのにあきれたいほどに無鉄砲なのだ。

「あ、朋ちゃんのチームつぎ試合みたいよ」
「いいよ。人数おおいからひとりふたり試合でなくていいし」
「態度わる」
「あんたもね」

 ボールとシューズとひとの声の三重奏がうるさくてかなわない。体育館はきらいだ。閉塞的でこもっている。それはすこし吉川みたいだ。小心者で臆病者でそのくせ無鉄砲な、ついでに言うとすこしばかり頭がよろしくないわたしの刃友。

「吉川って、体育座りにあう」
「ええ、ほめてんのそれ」
「……ううん、びみょう」

 なにそれ。吉川の声をききながら、吉川とおなじようにひざをかかえていたわたしは、なんとなくそろえたひざをくずしてあぐらをかいてみた。

「まあ、なかされたらわたしのとこにくればいい」
「へ、なんの話?」
「んー。幼少時からの洗脳のたまものってところなんだろうね、それは」
「……きょうの朋ちゃん意味不明」

 それともうまれもったものなのか。となりをながしみると、吉川はかかえていたひざをさらにむねにだきよせてちいさくなった。身をまもるようなかっこうなのにぜったいにたよりないそのポーズは、まるで吉川のこんごを暗示していて笑えた。

「どうせなら、はやいうちがいいな」

 小心者で臆病者で無鉄砲でばかなこいつは、手をさしのべるのもはばかられるくらい自分をまもるのが苦手なのだ。
07.09.20 底辺の居場所
「わたしは朋ちゃんがあやまるまでゆるさないわ」

 かっこいいかははなはだ疑問ではあるが吉川の満足げな表情から見てとるにこいつ的には上出来なすて台詞だったらしい。吉川はうえのことばをのこしてへやをでていった。それがたしか夕食をたべてからほどなくのことだったから、吉川が寮のわれわれのへやに存在しなかったのはたったの一時間ほどだ。

「おかえり」

 一瞬だけへやのいりぐちのほうを見た。じつになさけない顔をした吉川。それからはいっさい勉強机から顔をあげずにわたしは言った。でも耳くらいははたらかせてあげよう。ドアのしまる音、吉川が二段ベッドのしたの段にダイブする音。

「……しんじられない」

 吉川がつぶやく音。こいつのことだから、へやをとびだせばわたしが吉川をおいかけてつかまえてごめんとあやまってそれからごきげんとりをしてくれるとでも思ってたのだ。それだっていうのに、あやまるどころかへやからでようともしなかったわたしである。しんじられないのは当然だけど、わたしに言わせればわたしにいちいちそういうことをもとめてくる吉川こそしんじられない。まあ、わたしがあやまるべき立場にいることくらいはわかってるけど。

「吉川さあ」

 いすごとふりむいて吉川を見たけど、吉川はシカト。かべ側をむいてふて寝中のふりをしている。

「あんた、あしたの数Tの予習したの?」

 あと尋常じゃない量の宿題でてたの。どうせやってないんでしょ。きめつけてやったらせなかがぴくっとうごいた。吉川はうそがつけない。

「わたしは、いまさっき、ちょうど終了したんだけど」

 吉川がよろこぶなら、なんてしおらしい思考は残念ながらもちあわせてないけど、吉川のごっこあそびにつきあうのはべつに苦痛じゃないからほんとは吉川が想定したとおりの行動をとってさしあげることくらいはした、いつもなら。でもきょうはそういうわけにもいかなかったのだ。

「見せてあげるから、ゆるしてください」

 平坦な口調なのはもしかしたらてれかくしというやつかもしれない。吉川あいてにてれている自分がちょっと気持ちわるい。うんざりしていると、吉川がゆっくりからだをおこしてこっちを見た。めがねがかたむいていてまぬけな顔だった。

「……はじめから、そう言えばいいのよ」

 なきそうに目が赤いけど、べつにそういうわけでもないんだろう。吉川はいつだってすぐになきそうな顔になるのにほんとになくのはまれだ。なのにいつもこんな顔をするからわたしのなかでの吉川は泣き虫とカテゴライズされている。かわいげのない泣き虫もいたもんだ。

「わたしたのしみにしてたのよ、ねえ」
「わるかったってば」
「それをかってにたべるなんて」
「あー、うんうん」

 ふたつの勉強机のあいだにおかれたくずいれをゆびさしながら吉川が朋ちゃん!とわたしをよぶ。口より手をうごかしなさい手を。どうせ吉川がわたしのノートをうつしおわるまでわたしもつきあわなくてはならないのだ。あーあとため息をついて、わたしはひょいとのぞいてちいさなバケツ型のいれもののなかにはいったスナック菓子の包装紙を確認した。これでここまですねられるなんて思ってもみなかった。

「ちょっと、ほんとに反省してるの」
「してるしてる」

 とにかくその証明に、あしたにでもおなじものをかってこなくちゃいけないんだろうなあと思った。
07.10.10 おどるふりして
「きょうはいっしょじゃないのね」
「……はあ」

 きゅうだったものだから、まぬけな声がでてしまった。氷室さんはくちびるのはしに微笑をたたえてわたしのとなりのあいた空間をながし見た。いっしょじゃないというのはたぶん吉川のこと。べつにそんなにいっしょにいるつもりもないんだけど、と思う。

「わるいけど、伝言たのめる? あの子に」
「かまいませんけど」

 不自然すぎて心臓がなった。氷室さんのとなりの猫目のひとは興味なさそうにぼんやりしている。用件は一瞬ですんでしまって、やはり不自然なまま、ふたりはさっさとあるいていった。話しかけられるなんて思いもしなかった。

「ちょっと」

 不機嫌そうな声にはっとした。気づいたら教室のなかで、まえの席の生徒がふりかえっていた。その手にはプリントの束。

「はやく」
「あ…ごめん」

 うけとって、自分もうしろの席にプリントをまわした。むきなおれば、例の生徒はまだこちらを見てる。

「その猫背、みぐるしいからやめたら?」
「……」

 けっこうなあいさつがあったものだ。ふといフレームの眼鏡のずれをなおしながらまばたきをしているうちに、星河紅愛はからだのむきをもとにもどしたのだった。特にしたしいわけでもないし話もしない。きょうはみょうにいろんなのにからまれるな、と思った。
 話しかけるのはもっぱら吉川だった。たとえば廊下ですれちがうことがあったとして、むこうがこちらに気づいていても話しかけてくるなんてことは天地がひっくりかえってもありえないことのはずだった。それはもしかしたら、むこうからくるまえに吉川がうれしそうに近づいていくからかもしれないけど、わたしは吉川がいつもそうするときとても緊張しているのをしっている。本気のまぬけならどれだけよかったんだろうと、わたしは見るたび思っていた。それでも、氷室さんに話しかけているあいだわたしが気まずい思いをしているのに気づけないほどにはやつは間がぬけている。わたしがあのひとを苦手だなんて、吉川はたぶんまったくしらない。
 不自然さの理由。氷室さんは、わたしには、わたしたちにはすこしも興味がないと思っていた。それなのにきょう。あれはどういう意味だったんだろう。伝言なんて、あんなのメールかなにかですむような内容だったのに。なんとなく、あんたはばかのふりをしてるの、というむかしに星河紅愛に言われた台詞を思いだした。ひとを見くだした目が特徴的な同級生は、なかなかユニークな冗談を言う。

「……ばかのふり」

 楽なんだよねそういうの。わたしの話じゃないし、吉川の話でもない。ただの一般論で、わたしたちにはたぶん実行不可能なにげみち。けっきょく、氷室さんはああすることでわたしたちがすこしはおもしろいふうになると思ったんだろうとかんぐるほかなかった。絶対に、あのひとはわたしたちには欠片だって興味がないと思っていたのに。やな感じ。

「こんどの土曜日、いかないって。そう言えばつたわるって言ってたけど」
「……」

 吉川に話すのは電気をけしてからにした。二段ベッドのしたからは返事はない。いまさっきベッドにはいったばかりだからもうねてるってことはありえないはず。わたしはまたいやな気分になる。

「なんかあったの、土曜日」
「ちょっと……親戚であつまるはずだったんだけど」
「ふうん。用事ができたって言ってたけど」
「……そう」

 そう、瞑ちゃんはこないの。ちいさなつぶやきがかろうじてきこえた。わたしはぼんやりとしながら、氷室さんの昼間の微笑を思いだしていた。

08.06.22 みえるもの