「わんこ」

 桃香さんはわたしのことをわんこと呼ぶ。

「わんこ」

 桃香さんがわたしをわんこと呼ぶから、わたしはいつか本当にいぬになってしまうんじゃないかという気がする。いっそのことそうなればいいのに。そしたらわたしは、もしかしたら、桃香さんにもっとあまえられるんじゃないかって。へんなふうに自信をもてないんじゃなくて、もっと素直になれるんじゃないかって。

「わんこ。はよう、こっち」

 でもわたしが本当にいぬだったら、きっとこんなふうに手をとってひっぱってはもらえないんだ。それなら。そんなだったら、どんなに自分がきらいでも、いまのまんまで桃香さんといっしょにいたいな、と、思うのだ。
07.07.08 たいよう
「わんこー。まだおわらんのかー?」

 桃香さんがわたしのとなりのとなりのつくえにつっぷしながら言った。それまでは、わたしたちしかいない教室のなかには桃香さんのすわるいすがきしきしきしむ音とわたしが必死に机上にすべらせるシャーペンの音だけがあった。

「す、すみません。もうちょっと……」
「や、べつにあやまらんでええけど。学級日誌なんかぱぱぱーっと適当にかいときゃええじゃろ」
「でも、せっかく先生にみていただくんですし、それに、ほかのひとがあまりちゃんと書いていないのでわたしだけでもたくさん書かないと先生もはりあいないでしょうし」
「ふうん。わんこはまじめじゃのおほんまに」

 つまらなそうに言って、桃香さんはのびをした。ぎくりとした。それからすこし自己嫌悪。わたしは桃香さんの一挙手一投足にいちいち反応しすぎる。わかってるけど、どうしたって桃香さんはわたしのなかでおおきくてどうにもならない。

「あ、あの……まだおわりそうにないので、桃香さんはおさきに帰られては……」

 こんなことを言いだす自分もいや。ほんとは桃香さんといっしょに帰りたいしまってくれているのもうれしいのに。桃香さんがたちあがる。あーあ、と思った。でも、桃香さんは教室のでぐちにいくかわりにわたしのほうにきた。

「いやいや。ここまでまったんじゃけんさごまでつきあうて。うちもわんこと帰りたいし」

 なはは、と桃香さんが笑う。わたしはなにも言えなかった。でもきっとまっかな顔をしてた。マイペースな桃香さんは気づかなかったみたいだけど。

「なな、キジのやつの席どれ?」
「え。ええと、そこ。そこです」

 ろうか側から三列目、まえから二列目の座席をあかい顔のままゆびさす。すると桃香さんはにっと口のはしをあげた。

「ちょおシャーペンいっぽんかして」
「あ、はい」

 筆箱をあさって予備用のシャーペンをわたすと、桃香さんはうれしそうに雉宮さんの席についた。

「日ごろのうらみもこめてらくがきでもしといたるわ。わんこはうちが書きおわるまでにそれしあげえよ」
「ら、らくがき」
「うちがやったてばらしたらいけんよー」

 にししと笑いながら桃香さんはシャーペンをうごかす。わたしはその背中をながめて、でもずっと見ていられなくてすぐに学級日誌に視線をもどした。わたしはほんとに、桃香さんの一挙手一投足に反応しすぎる。さっきのひとことだけで、いやな気持ちがぜんぶふきとぶなんてばかみたい。わたしはもういっかい桃香さんの背中を見ようとして、結局できなかった。




「さーそれ職員室もってって帰ろかー」
「はい。すみませんほんとにおまたせしちゃって」
「ええって。おもろいこともできたけんね」
「ら、らくがきですか」
「おう。ほんまにキジにはばらしたらいけんよ、あいつしつこいけん」
「あの、なにを書いてたんですか?」
「ん? えっとたしか、へたれとかストーカーとか、あと色ボケとか。あ、雉鍋の絵はうまくいった」
「……えっと。それじゃあ桃香さんが書いたってばればれなんじゃ……」
07.07.14 まぶしくて
 思いだした。黒い感情が自分にぶつかるのを思いだした。
 道ばたにころがっていたちいさなかたまりには、いっしょにあるいていた桃香さんよりもさきにわたしが気づいた。ぼやけたりんかくがざわりとわたしにうったえかける。それはねこだった。いやねこであってねこじゃなかった。
 わたしは思いだすことをよぎなくされた。むかし。くちたことりの死骸を見つけた。わたしはそれをてのひらにのせる。ごく自然な行動だった。すべての命には供養される権利がある。死というのは輪のなかのたったいち部分でありそれがおわりではない。すべての命に、死のつぎのプロセスへすすむ権利はあるのだ。
 それを当時のクラスメイトに見られた。名前はわすれた。顔もわすれた。たぶんこれは意図的だ。そんなあの子が言った。気持ちわるい。
 そのことばはことりになげかけられたのか、それともわたしか。おそらく両者だ。あの子にとって気持ちわるい死骸。ならばそれを平気でさわるわたしも気持ちわるい。
 一瞬わたしがかたまっているあいだに、桃香さんもねこの死骸に気づいたみたいで足をとめる。わたしはどきっとした。桃香さんも言うんだろうか、気持ちわるいって。
 桃香さんは口をへの字にして、それからあるきだした。ねこの死骸にちかづいていった。わたしはそれをぼおっと見つめた。

「……かわいそう」

 桃香さんが言った。
 桃香さんはそれを両手でかかえた。時間がけっこうたっているみたいで異臭がした。でも桃香さんはなにも言わない。わたしもなにも言わない。ちかくにあった公園にうめることにした。
 あなをほる道具なんてもってないから、ふたりで手をつかった。つめのあいだに黒い土がはいる。苦痛じゃなかった。

「……」

 手をあわせて、桃香さんが目をとじた。ゆっくりと時間がうごいた。そのときわたしは見た。ひかりを見た。きれいなひかりを。

「……わんこ」

 よぶ声に、いのりをやめてまぶたをあけた。桃香さんがわたしを見ていた。

「ちゃんと、供養してやったほうが」

 ゆるやかにもりあがる土に視線をおとす。つられてわたしも。それから、さっきのひかりを思いだした。わたしはくびをふる。

「もう充分です。桃香さんが、こころをこめて手をあわせてくださいましたから。……ひかりが見えたから」
「……ひかり」

 桃香さんはさっきみたいに口をへの字にしてだまった。それがどんな感情をあらわしているのか、わたしにはまだわからなかった。
 かえるか、と桃香さんが言った。わたしはそれにうなずいて、また思いだしていた。気持ちわるいと言ったあの子。桃香さんはそう言わなかった。かわいそうって、そう言った。
 でもそれはちがう。ほんとうにかわいそうなのはねこじゃない。ほんとうにかわいそうなのは。

「桃香さん」
「ん」
「さっき、かわいそうって言ったけど、かわいそうなんかじゃありません」
「……」
「桃香さんみたいなひとに見つけてもらったんだから、かわいそうなんかじゃありません」

 桃香さんはまた口をへの字にしてだまる。やっぱりわたしは、桃香さんがなにをかんがえているのかわからなかった。
07.08.11 めいそうのおわり
「秋のにおいがする」

 言ってからしまったと思った。くちをおさえながらとなりを見たら、案の定キジがいぶかしげな顔をしていた。

「ふうん、詩人なこというね、キミにしては」
「うっさい」
「秋のにおいねえ」
「あんたは鈍感やけんわからんじゃろ」
「キミに言われちゃおしまいだよそれ」

 まあにおいっていうか、秋になって気温がさがったら大気中のエレメントがうんぬんかんぬん。キジが意味不明な解説をはじめたので無視することにした。
 すこし思いだす。学校からのかえりみち。秋のにおいがします。そう言ったのはわんこだった。

「秋のにおい?」
「あ、はい。空気がかわったっていうか」

 空気。ウチはそろりと見わたしてみたけど、そんなことしても空気なんて目には見えない。わたし、すきなんです。季節のかわりぎわって。そう言ってわんこはそらを見あげた。つられて見たけど、夏のそらとのちがいはあんまりわからなかった。秋のそらはたかいらしいけど。

「……」

 正直よくわからない。秋のにおいなんていままで感じたことなんてないのだ。ウチはキジとあるきながら、あのときのようにそらを見あげた。やっぱりそらはそらのままだ。
 いつか、と思う。いつか、わんこといっしょにいたらウチもそれを感じられるようになるんだろうか。なんどもいっしょに秋をむかえたら。

「秋のにおいがする……」

 くちにだしてみればちょっとは理解できるかもしれないと思ったのだ。ウチはすこしみみをすましながら、なんかいおなじこと言うの、なんて空気のよめないことを言うキジのふくらはぎをあしのさきでこづいてやった。
07.08.30 フォールインロザリオ
 真夜中に目がさめた。あまりないことだった。わたしは基本的にいちどねてしまえばよっぽどのことがないかぎり朝まで目がさめない。でも熟睡しているわけでもないらしくて、一晩中睡眠をとってもつかれがのこっていることがたまにある。なんだか不便だなと思う。どうせ意識がなくなってるんだからしっかりやすめたらいいのに。
 ふと時刻が気になった。枕元においていた携帯電話に手をのばした。するとそのとたん携帯電話がなった。いそいで音をとめる。二段ベッドのうえの気配をうかがって、ほっとした。ルームメイトの安眠は邪魔せずにすんだみたいだった。ところで、さっきのはメールを受信したときの音だ。だれだろうと思ってメールの画面をひらいておどろいた。

「えっ」

 思わず声があがってしまってあわててくちをおさえた。そもそもわたしにメールをくれるひとなんてかぎられてるんだからそこまでおどろくことなかったはずだ。でもおどろいた。おどろかずにはいられない。いそいで本文をよんで、それから窓にちかづいた。カーテンをあけてかぎをあける。そして音をたてないように窓をよこにすべらせた。

「こんばんはー」

 そこにいたのは「ちょっとまどあけて」という簡素な内容のメールのおくり主だった。

「も、桃香さん、なんで」
「わっ、わんこ声おっきい」

 あわててくちをおさえた。さっきとおなじことしてる。ひとりではずかしくなった。こんどこそちいさな声で、どうしたんですか、と桃香さんにたずねた。

「ちょおそことおりかかったけん。わんこの部屋一階でよかったー」
「と、とおりかかったって」

 こんな夜中に? さっき見そびれた時間を確認してみると、もう一時はまわっていた。もしわたしがおきていなかったらどうしたんだろう。たぶん桃香さんのことだからそんなことかんがえてもなかったんだろうなと思った。結果的にわたしはおきていたんだからそんなことはきっとどうでもいいのだ。

「ウチたまに夜に部屋ぬけだして散歩しとるんよ」
「え、それって校則違反じゃないんですか」
「えー、そうじゃったけ?」

 桃香さんがきょとんとくびをかしげる。そんな顔されたら自信がなくなるけど、校則違反です、たしかに。うなずいてみせたら、ま、かたいこと言わんと。って笑われてしまった。それから桃香さんは一瞬思案して、すぐににこっと笑った。

「わんこもくる?」




「夜の風って気持ちええじゃろ」
「は、はい」

 桃香さんのさそいに、桃香さんがびっくりするくらいはやくうなずいて、すぐに寮をぬけだした。どきどきした。ほんとは風を感じてるよゆうなんてなかった。あるくだけだったり、剣の特訓したりしてるんだって桃香さんが話してくれた。夜もけっこうたのしいんよって、おしえてくれた。たしかにたのしかった。ただあるくだけでも、桃香さんといっしょだったらこんなに。

「あ、あの」
「ん?」
「こんどまた、…夜のお散歩ごいっしょさせてもらってもいいですか」

 桃香さんはわたしを見て、すぐにもちろんってうなずいてくれた。それから、校則違反じゃけどなって。わたしがなにも言えないでいたら、また桃香さんは笑った。

「あれでも、わんこって夜はちゃんとねんとあかんひとやなかったっけ」
「大丈夫です」
「ほーかー?」

 まえにちょっと話したことをおぼえていてもらえてうれしかった。ちらっと桃香さんの横顔をのぞく。あとどれくらいあるくんだろう。いつまでもがいいなと思った。

「……夜も、たのしいですね」
「ん、そーじゃろそーじゃろ」

 桃香さんがたのしそうに笑った。わたしも笑った。きょうはきっと熟睡できる。
07.09.05 ララバイバイ