可能性があったとしてそれがゼロにひとしければきっと意味をなさない。わたしはゆっくりと屋上へつづく階段をのぼって、すこしのめまいをおぼえる。それはときめきとにていた。でもぜんぜんちがった。自分自身でもてあますこれは、おもくてぬるい。でも苦痛じゃなくて、もしきえてしまったとしたらわたしはかなしいんだろうなあと思った。
立ち入り禁止の屋上には、おおげさな施錠がされていて、だけどもいくらかの生徒がこれのぬけ方をしっている。この鍵は、堂々としているばかりでなかなかにふるぼけているのだ。でもわたし自身はそのこつをしらない。ただし、いまにかぎってはこの鍵に、わたしの行く手をはばむちからはない。ゆっくりと、赤くさびたもとはきっと銀色だったドアノブをにぎる。ぱらぱらと表面がくずれて、ゆかにあかいこながまった。すべりのわるいそれがわずかばかり抵抗をして、でもけっきょくいともかんたんにまわった。おせば、足元にひかりのすじがのびる。いまいるここは、思ったよりうすぐらい。
「なにしてるの」
不当な方法で鍵をあけた張本人によびかける。屋上のいりぐち、つまりわたしがいる位置の目のまえのフェンスに手をかけている千絵ちゃんは、いつもどおりに背筋をのばしてたっていた。がちゃとふるいドアをしめて、みぎてのひらについた赤いよごれをはらう。ふりかえって千絵ちゃん。
そらはまっ青で、なんだかこころからきもちいい。とんとんとあゆみよって、となりにたった。
「屋上でたそがれるってのは、じつに青春じみてると思わない?」
フェンスのむこうを見たままで、隣人はたのしげにうそぶいたのだった。
わたしは屋上をこのむわけではない。千絵ちゃんもそう。だったら、わたしたちがこんなところであうなんて、とてもすばらしい偶然。と言いたいところだけど、じっさいはただわたしが屋上へつづく階段をのぼる千絵ちゃんを見つけてあとをつけただけの話だった。おもしろくない話で、どうでもいい話。どうせなら、すてきなであいを演出して見せればよかったのかもしれない。そうすれば、わたしはわたしをだませたのかもしれない。それもまたどうでもいい話。
「タバコでもすってんのかと思った」
「なにそれ」
あは、と笑って千絵ちゃんがわたしのほうを見た。千絵ちゃんのとぎすまされた表情がくずれる瞬間、それはこんな青空なんてくらべられないほどにここちよい。わたしは目のまえの顔の中心を陣取るめがねをとりあげた。あ、とちいさな悲鳴がきこえて、でもそれは無視してわたしは自分に装着してみた。ちいさくてほそいレンズに視界がさえぎられる。
「にあわない」
「うそ」
「ほんとだよ。ねえ、あおいって裸眼だっけ」
「うん」
「ふうん……」
ひょいととりかえされて、めがねがもとの位置にもどる。それじゃあ、目がわるくならないようにしたほうがいいよ。と、千絵ちゃんが言う。
「あおいがめがねかけると、なんだかまぬけ」
めがねをかけたひとっていうのは、往々にしてかしこそうに見える。千絵ちゃんも例外じゃなく頭のよさそうな風貌をしていてじっさい学校の成績はそれなりに優秀。それだけじゃなくて、いろんな意味でかしこい子だと思う。でもいまはそんなことはまったくもってどうでもいい。
「失敬な」
「どうせあおいはコンタクトいれらんないだろうし」
つづけて失敬なことを言う千絵ちゃんを無言でにらんだら笑われた。
「こないだのテストどうだった?」
「よかったと思う? 千絵ちゃんは?」
「まあ、ふつう」
「千絵ちゃんのふつうってさあ……」
フェンスにゆびをかけた。かしゃんとなる。見おろしたむこうの海。青い海。世界はきっとひろい。しらないことだってたくさんあって、そのなかにはしらないほうがいいことがやまのようにあるのだ。ふと、千絵ちゃんのほうを見たら、目があった。
「……」
やだな、いつから見てたんだろ。千絵ちゃんはなにも言わなくて、だからぼうと見かえした。わたしより背がたかいから、ならんでたったらすこし目の位置がたかい。とん、とみぎの小指になにかふれた。なにかを確認するまえに、つぎは手がつつまれる。すこしつめたい。
「……なに、これは」
右手をむねのたかさまでもちあげたら千絵ちゃんのうでもついてきた。すると、つかんでいただけのそれがからまってくる。あおいはつれない。真顔でそんなことを言う。
「ほんとはなにしてたの、屋上で」
「……。まってたのって言ってほしい?」
「タバコすってたほうがまだましだったな」
わたし嫌煙家だよ? 千絵ちゃんがまた笑う。それはとてもかわいいけど、言ってあげない。わたしは千絵ちゃんをほめはしないし、千絵ちゃんだってわたしのいいところをさがしてはくれない。だらりとわたしたちのあいだにたれさがったふたりぶんのうでがとてももどかしかった。
「そらはこんなに青いのにねえ」
もっともらしくつぶやく千絵ちゃん。視線をすこしもちあげるよこがおをながめながら、意味不明だよそれ、とささやいた。じっさいわたしには、のに、のあとにつづくことばが想像できない。無意味にあつくなるむねをあいたてのひらでおさえて、わたしは、海もきれいな青なのよ、と、極力ちいさな声でつぶやいたのだった。
08.01.10 前が見えない