はらがへったからとかねむいからとか気がむいたからとか。適当なことばを頭のなかでならべながら寮の自室のドアノブに手をのばしたけど、それをにぎるさきにうすっぺらなとびらは勝手にひらいた。
「あ」
「……」
でてきたのはルームメイトじゃなくて、でも見覚えがあった。たしかあおいのクラスメイトで親友とかいうやつ。名前はわすれた。どーも、こんちは。おじゃましました。不躾にねめつけていると、そいつはつくりわらいをうかべてそう言って、あたしのわきをとおってでていく。
「……」
なんとなく舌打ちをして、またとじてしまったドアを今度こそ自力であけた。
あれ、きょうははやいじゃない、どしたの。おくへすすんで、あおいからのお約束のわざとらしいおどろいた声がとんでくると思った。けどそんなことはなくて、あおいはひくいテーブルに突っ伏しっぱなしで顔をあげもしない。まったくもって、やな予感。名残のようなくらいようすにうんざりして、テーブルにはちかづかないで冷蔵庫のほうにいってあけると、未開封のペットボトルを見つけた。きいてもいよ。むこう側から声がする。あたしはキャップに手をかける。
「いやそれ自分がきいてほしいだけじゃん」
「けんかしたあ」
「……まだきいてもないし」
おおきなボトルをかたむけて透明なコップに茶色の液体をついだ。見たことないパッケージのウーロン茶。あおいは真新しいものにすぐ手をだす。わたしにも、とくぐもった声がきこえたけど無視してテレビをつけにへやにもどった。
「奈緒ちゃん、テレビきらいでしょ」
「あおいの話よりはまし」
「……ひどー」
結局となりにおちついて、ローテーブルにガラスのコップをおいた。おなかすいたんだけど。そう言ったら今度はあたしが無視される。テレビはうるさいだけで、ただのあおいのかわりだった。しゃべるのがすきなあおいは、きょうはすっかり機嫌がわるくてだんまりで、あたしはこのへやがだまりこくってるのがすきじゃない。どうしてかは自分でもよくわからなかった。コップのへりにくちをつけて、ひとくちのんでもとにもどした。するとあおいが顔をあげて、それにふれる。同時に目を見てきたんだけど、まゆをひそめたらなにも言わないで手をひっこめた。わたしにもって言ったのにな、とあおいはのびをする。
「あー、ほんとに。けんかなんて、つかれるだけなんだけどね。わかってんだけど、おたがい。……はずなんだけどな」
カーペットのうえにだらりとおかれたあおいの右手が携帯電話をいじくる。ひらいたりとじたりをくりかえして、ひときわおおきな音をたてておりたたんでからうごきをとめた。
あおいはあたしが愚痴をきくのに適さないのをしってていつも話をする。それはたいていくだらない内容でききながしても問題なくて、でもあおいはいつもあたしに話をするのだ。
「なかなおりとかってさ…、ね、奈緒ちゃんはけんかとかしたらどうやってなかなおりする?」
テレビの画面を見るともなしにながめた。内容なんてもとから頭にいれる気はなくて、あおいの話を聞いていないアピールだった。あたしはあおいがなにをかんがえているのかぜんぜんわからない。いつだって、無視したって文句を言ったって、あおいはちょっとおこったそぶりをしてもすぐに笑うのだ。それがあたしになにされたってどうでもいいってことならもうかまわないでほしいと思った。
「しらない。あたしにはあおいみたいにけんかする相手なんかいないし」
「ん……」
つうじないのがわかってて、それでもあたしはいやみをかえした。あおいの返事になんて興味はなくて、あたしはただ真剣を気どってテレビの画面をにらむばっかりだった。あおいの右手の携帯が、またぱくぱくと音をたてる。耳につくからリモコンでテレビの騒音のボリュームをあげた。いらいらするなあと思う。きょうにかぎってかえってきたことを後悔した。
「ねえ、おなかすいたんだけど」
「んー、冷蔵庫にはいってるよ」
「なにが」
「えっと、材料とか」
「……ありえない」
「奈緒ちゃんってさあ」
ぶつ、とテレビの画面が黒くなった。あれ、と思ってとなりを見たらあおいがリモコンをテレビにむけていた。あ、ごめん。見てた?とこの女はわるびれるようすもない。あたしはしっかり画面を注視していた、それでどうしてその質問ができるのか。
「見てた」
はきすてて、でもほんとはどうでもよかったのだ。あたしはあおいがなにをかんがえているのかわからないのに、あおいはたまにあたしをしったような言動をする。おしつけがましくなくてまるで自然で、それがとてもいやだった。いやなはずだった。ひとくちしかのんでいないコップにひさびさにくちをつけると、さっきよりおいしくない。それをあおいのほうにすこしおしやっても気づかれない。
「ねね、なんとなく思いだしたんだけど、奈緒ちゃんって男女関係なく初対面はとりあえず猫かぶってみせるのに、千絵ちゃんにははじめっからあたりきつくなかった?」
ごめんきゅうに話とぶんだけど。おまけのようにそうくっつけるあおいを横目でながめて、でてきたなまえを反芻した。だれだっけと思った一瞬後にはさっきのつくりわらいの眼鏡がうかんだ。たぶんこいつにちがいなかった。だって、なんとなくなんかじゃないのだ。あおいはぜったいにさっきからあの女のことばっかりかんがえているのだ。ぱちんぱちんと、携帯が開閉をくりかえす。
「さあ、もうおぼえてない。ってかそいつがだれかもわかんない」
「けっこうねえ、奈緒ちゃんと気あうと思うんだけど」
「勘弁してよ」
わざとらしいくらい表情をゆがめてみせてから、あたしはたちあがろうとした。けどあおいの右手があたしの腕をつかんで阻止される。それと同時に、背後にあったソファのうえに携帯がはねてしずかにころがった。
「奈緒ちゃん、けんかとかしたいの?」
「は……」
また話が飛躍した。そろそろ本気で理解不能でついてけない。じとりとした目でながめていると、じゃあわたしとする?と自分を指さしながら笑顔であおいが言う。思わずあきれた。
「いやけんかってそういうもんじゃないし」
「でもね、けんかなんてするもんじゃないよ、つかれるだけだしね」
「……話きけよ」
腕をはらってそっぽをむいて、でもこころなしかあおいが密着してくるのがあつくるしい。なにがしたいんだろう。
「でもさ、わたしは奈緒ちゃんとしょっちゅうけんかしてるつもりだったんだけど」
「……」
「げー、わたしの自意識過剰かあ」
だまったあたしを見てきまりわるそうにまばたきして、あおいが笑った。あたしはそれをながめながら、やっぱり意味不明で理解不能だと思った。だけどなんともたまらなくなって、そのお茶まずいからもうかってこないでよとにくまれ口をたたくのに専念する。あれほんと。とあおいがあたしのコップに口をつける。それから、そうねえ、と吟味する表情をながめながら、手持ちぶさたなあたしは、テレビの電源をもういちどつけた。
08.03.24 まえとうしろ
したにちょっとおまけつき
「だから、はらへったんだってば」
「うーん」
画面をながめながらあおいがうなる。テーブルにのっかるコップの中身はもうとっくに空だった。それから、動く気がない持ち主といっしょで、ふたりでよりかかるソファのうえのあおいの携帯電話も鎮座するばかりである。
「きょうは奈緒ちゃんが、ね」
ね、じゃないし。やる気なさげにあたしに手をあわせるあおいを見てこらえる気もないため息がもれる。さいあくだった。けっきょくあおいの機嫌はなおってない。
「あたし風呂はいる」
「んー」
あがるまでになんかつくっといてよ。だめもとでそう言おうとしたら、はかったようにソファのうえの四角がふるえた。ディスプレイがひかってだれかのなまえがうかんだ。はっとしたようにあおいがそれをつかむ。らしくないほどこわい顔。
「…き、奇跡だ、メールきた」
それでも台詞はばかみたいにあおいらしくて、あたしはげんなりしてしまう。今度こそたちあがってあおいを見おろす。なんてきたか見たい?なんておしえる気もないくせに笑うあおい。
「……あたしがあがるまでになんかつくっといてよ」
「はいはい」
うなずくのを見て、なんだよそれ、と思う。あたしはさっさとシャワールームにきえることにする。乱暴に服をぬいでシャワーの蛇口をひねった。ぬるい液体が髪をぬらす。ばたばたと水のおちる音。ぜんぶがぜんぶ癪にさわる。メールきたとたん機嫌よくなるなんて、わかりやすすぎてぶんなぐってやりたいくらい。
「……むかつく」
あたしは自分の表情がまるでがきみたいにすねているのを自覚しながら、もしきょうの夕食があたしの好物じゃなかったらあしたの朝まで口をきいてやらないことにしようときめた。