たまにあってすこし話してのんでそのあとは、なんてかんがえてるのはいつだって私ばっかりだった。
「たとえばね」
しずかで暗い店のカウンターのずっとすみで、うしろめたいのをかくすつもりでならんですわっていた。手元のグラスにはまるいこおりとうすい色の液体がしずんでいて感覚をぼやかすようにゆれている。くるくるまわるまるいこおりが一瞬だけたのもしくなる。ちらりと見やった友人は無心に自分の手のなかの透明ないれものを見おろしていた。
「おさけのませてどうこうしようとかね、かんがえてるのかもしれないよ」
「あはは」
かわいい声でアオイが笑う。いつもどおりだった。私のきわどい冗談はアオイにとっては本当にただの笑い話で、私がそんなことをするなんてありえないとこころのそこからしんじてうたがわないのだ。いつかどうにかしてそれをぶっこわしてやりたいと思いはじめてもう何年もたってしまった。けっきょくは、アオイのなかの真実が私の世界のルールで、それをやぶったときはたぶんおわる。なにが、という次元じゃない、ぜんぶがぜんぶ。
「チエちゃん」
アオイのてのひらがかたにふれた。やわらかい体温がつたわって緊張した。アオイのふれ方はさそうようにあたたかい。かんちがいだということくらいはわかっている。
「さいきん、つかれてるね」
「アオイがね。ね、もうよってる」
「うん……」
うつむいたまぶたがねむそうにおもい。チエちゃん、と何度か私の名をよぶ。よいがまわりはじめたときのこの子のくせだ。ちいさいあまい声にうしろめたい幸福感をおぼえた。アオイにとっては意味のないたわむれ。
「ねむい?」
「すこしだけ……」
「そう。ねえ、ちかくにホテルとってあるって言ったらどうする?」
てのひらだけじゃあきたらなかったアオイが私のかたにもたれた。眠気でゆるんだ目元がちかづく。思わず、すこしふるえた。そこからくちびるにかけてのなだらかなラインを指先でなでるふりをしてただ空気のうえをすべらせた。これが限界だなんて、それこそ笑い話なのにぜんぜん笑えない。アオイとよびかけてのぞきこむと、かすかにくちびるがうごく。愕然としてしまった。いく、つれてって、と、うわ言がつづいて、思わず私はもたれるアオイをおしかえした。
「冗談だよ」
早口になるのをとめられないまま言ってからアオイのひたいをかるくはたいた。それからわすれさっていたグラスをつかんでのこりをあおった。あきらかに動揺していた。でもふしぎなことに、それはアオイもいっしょだった。
「ごめん、チエちゃんおこった?」
「なんで私がおこんの」
目をふせて私のふれたひたいに手をあてて、アオイがだってと言う。いまのは私の品のない冗談にアオイがのってくれただけだ。アオイにはかけらだって非はない。わるいのは私にきまっていた。たもてないならためすような台詞をはくべきではないのだ。
沈黙にたえられなかったわけじゃない。でも私はこしをうかせた。かえろっか、と声をおとすと不安げな表情に見あげられて頭がすこしいたくなる。
「チエちゃんは、たまにすっごくこわい顔をするわ」
店をでたとたんアオイがつぶやく。歌うようにかるいささやきが、私の一歩先、夜のなかにたたずむせなかからとどいた。表情は見えない。みょうなくもゆきだ。私はそのせなかにかかるながい髪をながめることしかできない。
「そうかな」
「そうだよ。ずるいわ、すごく」
よいはすっかりさめたみたいで、はっきりとした発音がつめたい空気といっしょにふるえた。ずるいかな。たずねると、アオイはううんとうなる。ちがう、ずるいんじゃなくて、と、しばらく巡回したあとやっぱりずるいとささやいた。アオイと名をよぼうとしたところで、ねらったかのようにアオイがため息をつく。
「きょうはもういくね。またね、チエちゃん」
「おくる」
「いらない」
じゃあね。一瞬よこがおがこちらをむいて、笑うようにほそめられた目もとが見えた。それだけで、アオイがおこっているとわかった。よぼうとしたのと同時にのばしかけた右手が宙にういている。あれれ、と思っているうちにアオイがさっさとあるいていく。ちょっとまってほしかった。
「あお、アオイ」
地面にはりついていたあしをむりやりはがしておいかけた。まだそんなにとおくへはいっていないのに本気に必死ではしっている自分が滑稽で滑稽でなけた。かたをつかもうと思ったけどやっぱりやめてとなりにおいつく。
「おくるよ」
よこからおこった顔をのぞくと、アオイのひとみだけがじとりと私を見る。
「チエちゃんてほんと……」
「うん?」
「……ぜんぜんなんでもないです」
やんなっちゃうなほんとに。アオイがつんとむこうをむくからこまった。なにも言えないでなんとなく見あげると、うるさいくらいの星がある。あまりに素敵でロマンチックでどうしようもない様相。どうせならもっと黒くていやらしい空もようならよかったなあと思っていたら、とうとつにひじのあたりに温度を感じてぎくりとした。
「チエちゃんがこわい顔するときはね」
そえられたてのひらは、店のなかにいたときとかわらずあたたかくてめまいがした。となりをぬすみみると、アオイはあいかわらずあさってのほうに視線をむけている。目があったらしぬかもしれないというまぬけすぎる不安は杞憂におわった。アオイはどうせこっちを見ない。けっきょく、私は目があったらいいななんてあまずっぱいことを空想していたのだ。じぶんのあまりの頭のわるさにほとほとげんなりしているあいだも、中途半端なところでことばをくぎったアオイはだまったままだ。
「こわい顔するかな、私」
「するよー。……どういうときするか、さいきんちょっとわかってきた」
「うそ。なんかこわいなあそれ」
「ふふ」
ぜったいおしえないけどね。きげんはすこしなおったみたいで、ちいさな笑い声にほっとしているとみぎのひじにふれていた温度にちからがこもる。ばかみたいに緊張したら、アオイがやっと私を見た。空の星なんてどれもかなわないほどきれいにかがやくひとみに私のかたい表情がうつっている、気がした。
「けど、……そんなチエちゃんもすきよ、わたし」
だからずるいの、チエちゃんは。とん、と私をおして、アオイは私をおいて一歩先をいく。
「もう大丈夫。ひとりでかえれるから。ね、そこからもういっぽもこっちきちゃだめだからね」
ばいばい。笑顔でこどもみたいに手をふって、アオイがくるりとむきをかえる。接近を禁止された私は、たしかに微動だにできず、しかしそれはその命令の効力ではなかった。いつのまにかアオイはもういない。手をふりかえすこともばいばいをかえすこともそびれたことすらわすれて、すっかりきえてしまったうしろすがたをずっと見つめて、私はがばりと口元をおさえた。はあー、とそれからおおげさなほどながいため息をついてみるものの、期待したほどの効果はえられない。胃がいたい。いやちがうこれは心臓だ、もっと言えば恋するハートだ。ってばかか私は。
「……か、かんべんしてよまじで……」
ちくしょう、と思って見あげた空は、あいもかわらず素敵でロマンチックでたまらないくらいにすばらしかった。ばかだ私は、どうしようもないのは私だった。だってきらめくこの夜空は、思いのほか今夜にぴったりあっていたみたいなんだから。
08.02.06 タンブリングダウン