アパートの鍵があいていた。
「こら」
おくをのぞけばすぐにぷらぷらゆれる両足が目にはいる。声がきこえていないようなのですこしおおきめの音がなるよう扉をしめた。すると足のゆれがとまってうつぶせていた顔が肩ごしにこちらをむいた。おっせえとくちびるがうごく。それにむかってため息をつくと、奈緒ちゃんは右耳からのびた白い線をちょいとひいてイヤホンをとった。
「不法侵入しといてえらそうねあんたは」
「ちゃんと鍵つかった」
「そりゃあんたがうちのスペアキーぬすんだからでしょうが」
「あんたがくれたんじゃん」
左の耳には装着したまま、指のさきでイヤホンをくるくるまわす。ねそべるその横をとすとすあるいて、あたしは奈緒ちゃんのとなりのたたみに荷物をおいた。
「あたしはあげたおぼえない」
それはちょっとうそだった。うすぼんやりとした記憶はある。原因は盛大によっぱらっていたこと。ほんとにまったく、酔いってのはひとを意味のわからない方向に調子づかせるのだ。どうがんばっても思いだせないこのへやの合鍵をわたしたときの台詞は、こわくて奈緒ちゃんに確認できないでいる。なさけなくて涙がでるね。
奈緒ちゃんはいつのまにかまた手元に視線をおとしなおしている。よんでいるのは漫画だ。そうそう、奈緒ちゃんがうちにきてすることったら漫画よむかおかしかってにたべるかくらい。見おろして、あたしは奈緒ちゃんの腰をまたぐ。が、すぐに気配に気づかれて身をおこしてにげられた。
「漫画、よんでないのもうなくなるからあたらしいのかっといて」
「うちね、漫画喫茶じゃないの」
「こんなきったねー漫画喫茶あってたまるかっつの」
こんどはあぐらをかいてかべにもたれて、ひざのうえにかるい本をおいて目をふせて、この子はなにしにここにいるんだろう。
「なにきいてんの」
「おばさんにはわかんないわよ」
「…て、てめえ〜…」
あたしは17歳だっつってんでしょお。両耳から白いのをとりはずして自分の耳につけた。あっちょっと。とたんながれてきた英語の羅列のむこうから奈緒ちゃんの声がした。
「英語は、よめるけどリスニングのほうはちょっと」
「きいてないし」
「洋楽すきなの」
「べつに」
そうね、奈緒ちゃんってそういう子よね、すきとかきらいとか、そんなすなおにおしえてくれやしないのだ。つけなおしてあげようかと思ったらそのさきにうばわれて、奈緒ちゃんの手はそのままポケットにはいっている再生機の電源をきった。
「きょうはなにしに」
「寝床と食料」
「うちにはろくなもんありゃしないわよ」
おとなしく寮の自分のおへやにかえんなさい。頭をなでたらわずらわしそうにはらわれた。みんなひとの頭かってになでまわしてなにがたのしいんだっつうの。はきすてるように言う少女をながめながら、そうかあたし以外にもこの子の頭をなでるものがいるんだなと思った。そんなのはよくかんがえなくてもそうにきまっていた。だってなんだかみょうに、なでたくなるんだよ、この手ざわりも形もよさそうな頭のてっぺん。
「あー。のどかわいたな」
「じゃあビール。あたしにも」
「未成年がなに言っとるか」
かべによっかかる奈緒ちゃんのまえでしゃがんでいた腰をもちあげて、冷蔵庫のほうにむかおうとしたとこでちらかったテーブルのうえにいやなものを見つけた。四角い空き箱。
「げっ、ポッキーたべやがった」
「メンズポッキーじゃないほうがいい、こんどから」
「ほ、ほんとにそのいいぐさは、かってにたべといて」
奈緒ちゃん、あたしね、言ってなかったけどチョコレート中毒なのいちにちでもたべなかったら発作おこすの。ぎゃあぎゃあとさわいでみたけど無視される結果におわった。わかっていたことだ。
「ほんとにかえんないの、きょう」
「さあね」
「けんかでもしたかい、同室のおねいさんと」
「すきに想像すれば?」
「心配すると思うよ、あおいちゃん」
「あおいあたしのことだいすきだからねえ」
「あれ」
奈緒ちゃんがあおいちゃんのこと、じゃ、ないの。ひざのうえにのるうすい漫画をとりあげた。こないだなんとなくかった将棋の漫画の一巻。主人公の女の子がかわいかったけどあんまりおもしろくなかったからつづきはかってない。
「……はあ?」
きげんのわるそうなうわめづかいを笑顔でうけとって、手にもった漫画をとじる。ちゃんと自分のおうちかえって、自分ちでごはんたべて自分ちのベッドでねなさい。やさしくかつできる教師のようにさとした。せんせい、と奈緒ちゃんのくちびるがうごく。声もきこえる。なんつうか。
「……奈緒ちゃんにせんせいって言われるとへんな気分になるわ」
「きもっ」
わかってやっててそういうこと言うだもんなあ。
あたしは奈緒ちゃんがいますぐにここをでていく呪文をしっているしひょっとしたらそれはここに二度とこなくなるくらい強力かもしれない。どうしようか、と思うのだ。さきほどの牽制はすぎるほどきいていた。そう、きっとあおいちゃんはやさしく奈緒ちゃんの頭をなでて、奈緒ちゃんはそれを複雑そうな顔をよそおってけっしてこばんだりはしないのだ。あきらめたふりをして、ほんとは期待どおりのあつかいを、奈緒ちゃんはきっといつもしてもらっているのだ、いやそうなのは建前。きみのやさしいおねえさんは、ぜんぶしってると思うんだよ。言わないところがほんとにやさしい。だからあたしもほんとにやさしい。
「奈緒ちゃんって、見てるとほんとさわりたくなる、やばいわちょっと」
「きもいからやっぱかえるあたし」
「はいはいあかるいうちにね」
こうやってわざわざかえるタイミングをつくってあげるところも、ほんとにね。やさしいやつにかこまれて、きみはほんとにしあわせものね、奈緒ちゃん。
気づけばこの子は制服のままで、だけどまとめる必要がないほど荷物はなかった。というか手ぶら。いっかい寮にかえってからきたんだ、わざわざ。急にほんとに、奈緒ちゃんがなにしにここにきたのかわからなくなった。こうなったらもう、さいごにひとつだけ。奈緒ちゃん、ともうすでに出口にむかうせなかになげかける。
実際どうなんだろう。あおいちゃんはほんとに奈緒ちゃんにやさしいんだろうか。のんきそうに笑うあの子は、すこしはかりしれないところがあるのだ。はかりしれないあの子は、いま目のまえにいるちいさな子のこと、どれくらいしってるんだろうか。やっぱり、はかりしれないくらい?
「用もないのにこんなとこくるって、あんたそんなにあたしのことすきなの」
ざわりと怒りがふるえる気配。その次にばかんとどでかい音をたてておんぼろの扉はとじてしまった。ばたばたばた、とそれにつづいたみだれた足音はきかなかったことにしてあげる。問題はそういうところじゃない。やさしくされたいくせに、実際そうされても本気で腹がたつんだろうなあと思った。まったく。
「あれのてなずけ方をぜひご教授ねがいたいもんだわね」
いやもうほんとにね。ここにきたってあたしにおとなげなくいじのわるいことをされるだけだってしっているくせに。いま気づいたあらされた本棚にむかいあいながら、あたしはあさくため息をつくのだ。
もとからちらかってたなんてことは秘密よ、もちろん。
08.06.01 ゆりかご