「キスとかしたことある?」

 とうとつに、そりゃもうとうとつにね。いまりんごジュースよりオレンジジュースのがよかったって話してなかったっけ。

「えーっと。ないね」
「うそ。ふうん」

 意外かも。マグカップにそそがれたあわいジュースに見とれながら奈緒が言った。わたしはといえば、ジュースをいれにいってるあいだにあらされたCDのたなを整頓しなおして、それからやっと自分もカップに手をかけたところだった。

「したいの」
「さあね」

 してみるかい、なんつってこの子はわたしにそういう台詞をもとめてるんだろうか。自意識過剰か。奈緒ちゃんって千絵ちゃんのことすきだよたぶん。一週間くらいまえにあおいがそう言ったのだった。

「……」
「だまんないでよむかつくから」
「なんであおいがむかつくの」

 いやわかってんだけどね。放課後に、かえろうとしないでわたしの席にすわりこんでいったいなにがしたいのかと思ったら言うにこと欠いてそれか。教室内はもうすっかりからっぽで、のこっているのはふたりだけ。

「奈緒ちゃんにほれられる要因が思いつかん」
「趣味わるいよね」
「あ、あおい……」
「あーもう」

 ごめんうそだよだってさあ。わたしのつくえに突っ伏するあおいを、窓の桟に身をあずけて見おろした。ぼんやりとした夕日のなかに、かたをゆっくり上下させてもどかしそうなあおいがいるのだ。なんて絵になるんでしょう。じっと見おろしても顔はしばらくあがらなくて、かわりにあおいがせきばらいをする。かわいらしくひかえめにね。

「……うん。ふつつかなむすめですがどうぞすえながくよろしくおねがいします」
「い……まじで」
「……」
「自分で言っといてへこまないでよ……」

 あの子がしあわせならそれでいい、なんてあおいらしからぬ献身的な申し出は、わたしのナイーブなガラスのハートをそれはもうふかくふかく傷つけたのだった。

「奈緒ちゃん、かわいいでしょ」
「うん、かわいいとは思う」

 かわいいとは思うんだけどね。気づいたらそのかわいい顔が真横にあっておどろいた。しまったトリップしていた。なに、と言ったら奈緒が目をすわらせる。

「いまむかつくことかんがえてた」

 そう、こまったことに、意外にもこの子は勘がするどい。ほんとに、こまったことに。

「あんたはそうやってすぐに憶測できめつける」
「ジュースのみほした」
「そんじゃあ、わたしのをのみなさい」

 ほれ、とじつはまだくちもつけていないマイマグカップをさしだすと、これまたこまったことにこの子ときたらすなおにうけとるのだ。ちくしょう、かわいいじゃねえか。

「奈緒、っていうのへんな感じね」

 カップを一気にはんぶんくらいかたげている横顔に言ったら、んぐっとのどがなった。

「このまえまで奈緒ちゃんだったのに」

 わたしの言わんとしていることに気づいたのか、奈緒が顔をしかめた。はずかしそうに目をふせて、それを見ながら、わたしは自分がほんとうにさいていのことをしていると思うと同時に、すこしだけ気持ちよかった。そしたらこんどは気持ちわるくなった。

「奈緒は、わたしのことなまえでよばないね」
「そうだっけ」
「よし、ちょっとよんでみな」
「は? ……」

 千絵、って。ほれ。あたまをなでるとにらまれて、それからなぜか胸ぐらをつかまれる。おやと思っているうちにひきよせられて、顔に、顔が。

「……」

 なにすんのよ、とわたしのてのひらにおおわれたくちが鼻のさきでもごもご言う。てのひらに息がかかってしめった。だってわたしはなまえをよべと言ったんであってキスをしてくれと言ったわけじゃないんだもの。そう言ったらあんたはさいていだとののしられて、まったくおっしゃるとおりなのでわたしはジュースのおかわりとおかしをもってくることにする。
 へやにもどってきたら、奈緒は目を赤くしていた。

「けっこうなくよね、奈緒は」
「ないてない」
「そういう強情なとこ、かわいくてすきよ」

 ひょいと手をとって、そっちに気をとられているうちに奈緒のくちびるをたべた。ぱくりとひとくちでちいさなそれをくちにふくんだらりんごジュースの味がした。レモンじゃなかったっけ、ファーストキスって。奈緒が呆然とわたしを見るので、わたしは真摯な視線をつくってそれを見かえす。

「わたしは、奈緒のことほんとにすきだよ」

 ただ、あおいのことはもっとすきだけどね。それであおいはきみのことがすきなんだけどね。しらないのはきみだけなのだよ、結城奈緒くん。
 ひだりのほほに衝撃。なんだ、と思う間もなくじんといたくなった。

「いっ…ちょ、いきなりビンタってあんた」
「い、いまぜったいむかつくことかんがえてた。すごいむかつくこと」

 なぐられたのはわたしなのに、奈緒のほうがぼおっとショックうけた顔をしているので、ほんとにまったく勘のいいおじょうさんはこれだから。あれ、もしかしてわたしがわかりやすいだけなんだろうか。

「あ、あたしは」

 まっ赤な目がおおきくなる。奈緒は泣き虫なのだ。そして残念なことに、わたしは奈緒の泣き顔がきらいじゃないのだ。こんなやつはさっさと見限るべきだと思った。あおいはわたしを信用してるみたいだけど。あーあ、こんなときまであおいなのかわたしは。
 きょうのすて台詞はしんじまえ。かばんをなげつけられてひるんでいる間ににげられて、わたしはおいかけることもなくあしたあおいにこのかばんをあずけるであろう自分を想像した。すこしだけ自分がなにをしたいのかわからなくなって、でもそんなのはわたしには贅沢すぎるなやみだから気をまぎらわすためにあたらしくついできたりんごジュースにくちをつけた。ふしぎとさっきのあれよりあまくない。

「……かばんあさってやろうか」

 あした。どうしたの、というあおいのさぐる視線をどうせかわすこともできないで、それでもわたしはさいごの自尊心のためにあおいがけんかの原因よなんてことはぜったいに言わないでおくことにきめるのだった。
08.05.08 まえとうしろ