「うみだ!」

 両手をあげてとびはねて、三歩うしろの奈緒を見たら、奈緒はねむそうな顔でうしろで手をくんでいた。まだそんなにあつくはないからひとはいない。夏の、ひとがあふれかえってる海は、いくやつの気がしれないくらいさいあくの環境だと思うんだけど、と奈緒は言っていた。

「奈緒」
「……なに」
「海にいきたいって言ったのは奈緒だぞ」

 私はさっそく海に足をつけようとした。そしたら奈緒がくつをまずぬぎなさいと言った。ぱしゃぱしゃと水のなかをあるいて、ひんやりしていて気持ちいい。

「奈緒、つめたくて気持ちいい」
「そりゃよかった」

 波がとどかないぎりぎりのところに制服姿でたっていた。学校がえりでも空はまだ青いままで、ついこないだまですぐに日がおちていたのに。ゆうやけの海。あおぞらと海。奈緒はどっちがすきだろう。

「奈緒ははいらないのか」
「めんどいから遠慮しとく」
「海にいきたいって言ったのは奈緒だぞ」
「……」

 きょとんとして言ったら、奈緒は口をへの字にしてだまってしまった。それから腕をくんで、二の腕のうえでとんとんと指をならす。つまり、海だっていう気分っていうか、なんとなく海いきたいなあみたいなそんな感じだったんだけど、いざきてみたらなんかちがうみたいな。それだけ言って、奈緒は再度だまる。口はまたへの字だ。

「わがままだな」
「あきれたいならそうしてくれていいわよ」

 なんだと思った。さっきからとてもつまらなそうな顔をしてるのは、移り気な自分がおもしろくなかったのか。

「私は奈緒のわがまますきだぞ」
「……言っとくけどいつもあんたのわがままにふりまわされてんのあたしだから」

 にこやかに言ったらため息をつかれて、私は奈緒をふりまわした記憶なんてないので首をかしげた。すると、あんたってほんとに、と奈緒はもういちどだけため息をついてくつをぬいだ。くつしたもわすれずに。もっていたかばんはとっくの昔にほうりなげた私のかばんのよこにおく。一歩水に足をいれ、奈緒はつめてとつぶやいた。

「たのしいぞ、奈緒」
「はいはい」

 ぱしゃ、と足で水をけって、そしたらしぶきが私にかかる。やったな、と思って手で水をすくったら、あたしにかけんのは禁止ね、と奈緒に先手をとられる。奈緒はずるい。

「わるかったわよ。いまのわざとじゃないから」
「そうなのか」
「ほんとほんと」

 奈緒はすこしずつふかいほうへあるいていく。たのしいな、海。うしろすがたをおいかけながらなげかけたら、奈緒がうんとうなずいた。水はすぐにひざのすぐしたのほうまできた。

「こういうのってさあ、けっこうきゅうにふかく」

 なってたりするよね、とたぶんつづいたんだと思う。でも私はききとれなかった。なぜならきゅうに視界が反転したから。でも、ばしゃん、というへんにおおきな音はよくきこえた。

「……」
「……え」

 ふりかえる奈緒の顔がさっきよりたかいところにある。まばたきをしていると、く、と奈緒が口元をおさえた。

「……な、なんであたしよりあさいほうにいるはずのあんたがこけてんだよ……」

 くくく、と笑いをおしころす奈緒を見あげて、私はやっと全身がつめたい水につかっていることに気づいた。ち、ちがうぞ、ここだけ、一部分だけふかくなってたんだ。一生懸命弁解しても、奈緒は笑うのをやめない。

「な、なさけない……」

 思わずつぶやいたら、こんどこそ奈緒の笑いが爆発した。
 しばらくして、やっとおさまったらしい奈緒がいつまでつかってんのかぜひくよ、と言った。私は、かっこうわるくてしょうがなかったのでそれを無視してやった。

「すねないでよ」
「すねてなどいない」
「それがすねてんだっつの」

 ほら、と、奈緒が手をさしだす。きょとんとそれを見て、この手にはつかまれということで、ひっぱってくれるということで、つまりたすけてくれるのか。きゅうにうれしくなって、私は思わずだきつくいきおいで手につかみかかった。その次には、あっというどちらのものかわからない声と、さっきのよりおおきな水音。

「……う、うそお」
「おお、おそろいだ」

 気づいたら水のなかで奈緒にのしかかっていた。たすけてくれるはずだった奈緒は、けっきょく私とおなじようにずぶぬれになっている。奈緒の二の腕のそばで波がちゃぷちゃぷと音をたてて、私の耳のちかくでささやいていた。

「み、命、あんた……」
「なんだ、奈緒も海につかりたかったのか」
「……はは」

 あんたってほんとおもしろいこと言うよね、と、奈緒が笑う。なんとなく力がこもってないのはかんちがいじゃない気がした。
 あんたがおしたおしたせいだとかびしょびしょになっちゃってどうやってかえりゃいいんだとか、砂浜にあがったらわれにかえったみたいに奈緒がおこりだした。ぬれた足のうらにこまかい粒がまとわりついてむずがゆい。すまない、とあやまっても奈緒はずっとおこっていた。さっきまで笑っていたはずなのに、へんなやつだ、奈緒は。

「……まだおこってるのか」
「あたりまえ」
「……」

 ふたりで砂の城をつくっていたらいつのまにか体中が砂だらけだった。もうそのころには奈緒もずいぶんあきらめてたみたいだけど、私はまだゆるしてもらえない。けっきょく砂の山にしかなりえなかったかたまりにどすとはだしの足をたてて、奈緒がにがそうな顔をする。舞衣にたすけてもらおう、と私が提案したさっきとおなじ顔。

「奈緒……ごめんなさい」

 なんだかとてももうしわけなくなったのでちいさな声でそう言ったら、奈緒がえっと言う。それからきまりわるそうに視線をおよがせて、あんたほんとやりづらい、とはなをならした。

「べつにもうおこってないし。そんくらい気づいてよ」
「そ、そうなのか」

 うなずく奈緒の顔をやっと見ると、奈緒もじっと私を見た。なんだろうと思っていると、奈緒の指が私のみつあみにふれる。髪も砂まみれじゃん、あんた。そう言ってから、自分の前髪もつまんでいた。

「あんた、髪のばせばいいのにね」
「かみ?」
「そしたら、あたしがいろんな髪型にしてあそんであげるのに」
「そうなのか?」
「うん」

 じゃあ、ん、のばす。髪のばす。うれしくてぬれた奈緒にだきついたら、あんた元気だねって奈緒もうれしそうにした。あはは、って、こんどこそ力のはいってない声じゃなかったんだ。うそじゃない、ほんとなんだぞ。
 いつのまにか空が赤くなって、海のむこうにおおきな太陽がおちていこうとしていた。
08.06.08 はざまのきもち
結局舞衣とあおいに助けをもとめたふたりなのでした