れんさんの髪はきれいにながい。まっすぐにのびたそれはわたしの指のあいだをするするとぬけていく。まさにあのひと自身をそのままあらわしたような手ざわり。わたしはれんさんのことをいまだに理解しきれない。
低血圧だから朝はいない。わたしがひとりで朝食をつくってたべて、れんさんのぶんにラップをかける。いってきます、はやくおきてね。寝顔にあいさつをして、わたしはとんとかかとをならしてから玄関をでるのだ。
バイトを首になった、と言いだすのはいつものこと。いちばん最近にそのことばをきいたのは二日前。だからいまは無職期間中で、わたしが養ってあげている時間。どうしてなの、ときいたら遅刻してしまうんだと言う。本当なんだろうけど、どうして遅刻しちゃうのかといえばその仕事がどうでもいいことでつづけたいと思わないものだからなんだろう。れんさんは自分にうそをつかなくて、わたしにもうそをつかない。そのかわり、ほんとのこともあまり言ってくれないの。
「ただいま」
くつ箱のとなりにはキッチンがある。そこをよこぎって奥の戸をすべらせればちいさな居間兼寝室がおかれていて、れんさんはこの家、といってもアパートの一室だけど、のなかではここにばかりいる。もう二日、つまりはれんさんがバイトを首になってからしきっぱなしのふとんのうえでくてんと身をのばして、ながい髪はまくらになげだされている。きのうかえってきたときもまったくおなじ体勢で、おかえりすみれ、とすんだささやきがわたしをむかえた。それはもちろんきょうもいっしょで、だけどたったひとつ、ちがうこと。
「……CD?」
「うん」
ききなれない音楽が、部屋のなかを占領していた。
れんさんはしずかなところがすき。だから音楽だってしずかなものがすき。朝はね、しずかなんだからちゃんとおきたらきっと気持ちいいよ、と早起きを奨励したそのつぎの日だけはわたしと同じ時間におきてくれたくらいに、しずかなものがすきなのだ。だからやすっぽいオーディオの機械をいじるのは専らわたしの管轄だった。れんさん好みのCDをさがしてきては、れんさんが耳障りに思わない程度の研究されつくしたヴォリュームに調節された音楽を、わたしがかける。
「きょうはちょっとね、リサイクルショップにいって古本をたちよみしてたんだけど、ちょっと、見つけちゃったから」
古本をたちよみしてたのに、どうしてCDを見つけるのかしら。詳細はどうでもいいからうかんだ疑問は口にせず、ながれる音楽に耳をかたむけながら、テーブルのうえにおかれたケースを見る。紫のジャケット、ガールズバンドのアルバム。しらないバンド名だった。どうしちゃったの、ねえ。れんさんは、こういうの全然好みじゃないでしょう。これはどうでもいいことじゃないから、ちゃんと声にした。
「高校時代を思いだしてたの」
「つながらないよ」
「そうね、うん、だからね、カラオケにいったとき、うたってたの」
ねそべりっぱなしのれんさんのとなりに腰をおちつけて、顔のよこに手をついた。おおいかぶさるように見おろすと、れんさんはすこしだけだまってから、うんとうなずいた。
「むかしにね、すきだった子がうたってたの」
ぱらり、と、わたしの肩にかかっていたわたしの髪がながれた。それでもれんさんのようにはながくないから、わたしのしたのれんさんまでとどくことはない。すごくすきだったから、どんな曲かはおぼえてないのにバンドのなまえとタイトルだけはおぼえてたものだから。その子ね、かわいかったわ。背なんかひくくて、目がおおきくて、わたしのことを相田ちゃんってよぶの。ぼそぼそと話すれんさんは、わたしを見ていたけど見ていない。
「……あんたにこんな話をするのは残酷かね」
しずかな質問。わたしはぼんやりとききながら、ただれんさんを見ていた。するとれんさんはふんと笑って、そうよね、あんたはききたがってるものね。と、さもわたしのことをわかりきったようなことを言う。そしてそれは、本当にそのとおりなのだ。わたしはいつだってれんさんのことをもっとしりたくて、こんなふうに自分の話をするれんさんはめずらしくてしかたがなかった。
「れんさん」
「なに?」
「……」
れんさんは現在失業中の自宅警備員。そしてわたしがそとで一所懸命もうけたお金で生活している。ねえ、それってわたしがいないとなにもできないってことよね。こころのどこかでそう思っているけど、ほんとはそれはちがうこともしっている。れんさんは、ちょっと本気をだせばどうにだってできるひとなのだ。わたしにすてられちゃってもすぐにかわりのひとを見つけてしまうだろうし、そんなことをしなくても自分で自分の面倒を見ることをむずかしいとしていないひと。でも、ひとに見てもらえるならそれにこしたことはないって、そう考えているひと。べつにわたしをいいようにつかっているわけじゃない、ずるい力のぬきかたをしっているだけで、わたしはそれが、たまにとても不安だった。
「あっちゃったの、そのひとと」
「あんたはたまにするどいね」
すみれ、となまえがよばれる。いやだわ、れんさんによばれると、わたしのこのつまらないなまえがとびきりかわいい響きにきこえるの。指がのびてきてほほにふれる。つめたいしろい指。きれいな指。
「男連れよ、むかしもそういえばすきな男との仲立ちやったことがあった」
ねえ、やっぱりかわいかったわ、いま見ても。かるいポップが部屋のなかにみちていて、わたしはいつもの、れんさんとわたしのたったふたりだけのしずかな空気を恋しく思った。でも、停止のボタンをおしにたちあがるなんてできない。運命かと思っちゃった、あったその日に、あの子のうたってた曲のはいったCDを見つけちゃうなんてね。だってわたしは、こんなふうにずっと未来に、もしもわたしがれんさんのそばからいなくなってしまった未来に、れんさんにこんなにしずかな声で思いだしてもらえるなんてずうずうしいこと、ぜったいに信じられない。わたしってれんさんにとってどれだけの存在なのか、しらないの、ねえ、れんさん。
「……つぎにこのCDながしてるのきいたら、ディスクまっぷたつにわるからね」
「そしたら、1650円請求するわ、ああ、たかかった」
ふたつのてのひらが、わたしの首筋にはりつく。そのままわたしはひきよせられて、きっとキスしてしまうの。おねがいだから、きょうは全部れんさんがしてね、わたし、ちゃんとおとなしくしてるから。
れんさんの髪はきれいにながくて、それはいつも、するりとわたしの指のあいだをすりぬけていくのだ。
09.02.12 ちかくの陽炎