さあ、とふいた風に気をとられて顔をあげると、思いがけぬものを見つけた。
「……」
沈黙のあいだに、岩沢は己の緊張を自覚する。そこにいたのは、生徒会長、すなわち彼女の所属する戦線の天敵だった。ひろい学園の中庭のかたすみ、校舎と校舎のすきまにあるこの空間は、身をかくすのにちょうどよかった。そこをのぞきこむようにして、天使はたっている。
彼女はだまったままだった。かすかな逆光をあびながら、ものかげを観察している、こちらをながめている。岩沢はごくとつばをのみ、くっと笑ってみせることにした。挑戦的なそれだった。下手なことをすればやられるとはきいていたが、自分は案外と好戦的らしい、と岩沢は思う。
「なんだよ、生徒会長。授業さぼってる生徒にお仕置きでもしにきた?」
目をほそめてにらみつけた。しかしむこうは普段の無表情のまま。岩沢は現状を整理する。こちらは完全に袋小路、しかも壁に背をあずけてすわりこんでいるいまの体勢では、咄嗟の対処ができない。彼女はむこうの出方を見計らいながら、そっと地面に手をついた。
「ちがうわ」
が、天使はあっさりと否定し、臨戦態勢にはいりかけた岩沢の出鼻をくじく。それから、ちらりと腕時計へと視線をおとした。
「いまは、昼休みだもの」
「……」
岩沢はしばし唖然とし、やっと思考がおいついてきたところで脱力した。ああ、そう。思わずまぬけな声で返事をしてから、ということは先程の挑発は午前の授業をエスケープしていたことを勝手に自白してしまっただけではないかと気づいてきまりがわるくなる。岩沢はうんざりして肩をすくめて、ではなんの用なんだとあたらしい疑問を脳裏にうかべる。いぶかしむ視線をおくっていると、天使は十二時三十五分とつぶやいた。どうやら現時刻をしりたがっていると思われたらしい。つかみどころがない、と彼女は思った。
「……じゃあ、なにか用?」
すっかり毒気をぬかれた調子でたずねると、天使はふと視線をおとす。先程まで岩沢の目をとらえていたそれは、こんどは彼女のひざのうえを見つめた。そこにあるのは、ギターだった。
「音が、したから」
天使は注視する、興味をもったかのように。まるで機械のようだと思っていた彼女の印象が、岩沢のなかでかすかにゆらいだ。
そもそもこんな中庭のすみでなにをしていたのかといえば、ギターの練習である。個人練習なのだから、どうせならひとりになれるところはないものか、と学園内を適当にさがしまわって見つけたのがここだった。すると案外いいところで、ここで練習をしていてだれかに声をかけられたことはなかった。とはいえ、だれにも見つかっていないのか本当はしられていてだれも声をかけにこないだけなのか、それは岩沢のあずかりしらぬところだ。
「ギター。すきなの?」
「わからないわ」
「ふうん?」
警戒心がとけていることは自覚していた。しかしいまの天使は、我々をおびやかす天敵というよりは、ギターの音色に気をとられた少女にしか見えないのだ。彼女は、ずっとギターを見つめている。なにか言う気もたちさる気もないようだった。どうしたものか、と一瞬だけまよい、岩沢はすぐに結論をだす。
「すわれば。そんなところにだまってたっていられたら、気が散るよ」
ぽんぽん、と自分のとなりをたたいてみせる。すると天使の視線がうごき、先程のように岩沢の両目をとらえた。さめたように見える眼光からは、なにを考えているのかはよみとれない。敵であるはずの人間からさそわれて警戒しているのか、そもそも天使は、我々を敵と認識しているのか。なにか憶測をたてようにもそれはいちいちつぎの不明な点につながるばかりだ。
そして天使はといえば、意外にもあっさりうなずいた。こくりと首を縦にふり、てくてくと岩沢にちかづく。岩沢のとなりの空間におさまって、体育座りをしてちいさくなった。あんまり従順なふるまいだったから、岩沢は面食らうしかない。
「……案外、素直なんだ」
嫌味でもなんでもない率直な感想が思わず口をつく。天使はそのことばの意味を理解しかねたのか、わずかに首をかしげる。まったく、本当につかみどころがないうえに考えがよめない。岩沢は常からひさ子あたりにおなじような指摘をされていたが、この天使よりはましだろうと思った。そもそも彼女は自身をかなり単純な人間だととらえているので、そう言われるたびふしぎな気分になっていた。これほどわかりやすいやつもいないだろうに。
「どうして、こんなところでギターをひいているの」
ふとした質問。はじめてのむこうからのアプローチだ。岩沢は視線を流してとなりを見た。彼女が興味をもっているのはギターなのか、はたまた自分なのか。岩沢は見極めようと思ってすぐにやめる。もともと音楽以外のことをふかく考えるのにはむかない性分なのだ。
「べつに、なんとなくここを練習場所にしてるだけ。ここだと、ちょうどひとりになれる」
「そう。ここはあなたの場所なのね」
「そんなおおげさなもんじゃない。気にいってるってのは、たしかにそうだけど」
ピックで、弦を一本はじく。途端、しずかな音がひびいた。すこしだけ薄暗くて閉塞的なその空間に、透明なひびきがひろがった。空気がはりつめるようだった。天使が耳をすましている。きらいではない緊張感、この指の奏でる音が、だれかにとどいている。こんなに気持ちのいいことはない、こんなに満たされることはない。
「あなたは、すきなの?」
案外、よくしゃべるんだなと思う。丁寧にコードをおさえ、そっと弦をはじいた。ピックからつたわる弦のテンションが心地よくて、すぎるほどゆっくりにストロークをくりかえす。勝手に鼻歌もまじりはじめた。
完成しかけのバラード、きっと、とても大事なものになる予感のする曲。あとすこしなのに、もっと時間をかけてつくらなくてはいけない気がしていた。
だから、ふと手をとめる。
「すきだよ。だいすきだ」
ことばをかざる気になんてならないほど、素直でたったそれだけの気持ちだった。口元をほころばせ、岩沢は無邪気な少女の顔で笑った。ギターのネックをいとおしそうになで、そっと胸によせる。宝物をだくように、彼女はギターをあつかった。
「……わたしは」
ふとしたつぶやきに顔をあげれば、天使が岩沢をじっと見ていた。ギターではなく、岩沢自身を見ていた。
「ギターがすきかはわからないけど、きれいだと思ったわ。あなたの音」
淡々とした口調、瞳はあいかわらずさめて見えるのに、そのことばもその声も、そちらこそきれいだった。すこしだけ、てれてしまうほどだ。天使、という存在が、岩沢のなかで明確に変化する。もし可能ならば、いつか彼女にもとどけたいと思う。彼女がきれいだと言った音を、ちゃんととどけてみたいと思った。
「……そう。ありがと」
予鈴がなる。それは昼休みの、すなわちこのまぼろしみたいな時のおわりをつげていた。天使はそっとたちあがり、スカートについたほこりをはらう。ここからは、きっともう生徒会長と風紀を乱す生徒だ。
午後の授業がはじまるわ、と天使は言う。岩沢はそれに肩をすくめるだけでこたえた。もしさらに注意されるようなことがあれば、にげだそうか。彼女はすこしだけいたずらめいた気分になるが、その案が実行されることはない。
「……」
だって天使は、沈黙のなかでかすかに目をほそめ、ただそれだけでたちさってしまうのだ。てくてくと、岩沢にあゆみよったときとおなじ足どりて、教室へとむかう。たよりないほどにちいさな背中は、あっという間にいなくなった。しずかな空気、思いがけぬ来訪者がやってくる以前のそれにもどっていく感覚。そう実感してやっと、岩沢はふっと笑いをこぼした。
(素直なのか、素直じゃないのか)
規律を乱す行為を見のがすのは、きれいな音をきかせてくれたお礼といったところか。天使ののこした最後の表情、それが微笑に見えたのは、岩沢の都合のよい解釈かもしれない、しかし、そううけとってわるいとも思わない。
(いつか、必ずね)
彼女のこころにとどく音を、いつか必ず。岩沢はひとり決心し、ひざのうえのギターをかかえなおした。
10.07.03 タッチバイプレイング