朝はすきか、と問われたことがあった。チアキはその質問にはこたえられなかったが、苦手なことだけはたしかだ、とこころのなかだけで思っていた。

「あんたは私のとなりからぬけだすのが上手ね」

 ダイニングにおかれた時計はそろそろ正午をさそうかというところで、ふたりがけのテーブルの片方についたマミはもの思いにふけるような顔でほおづえをついていた。寝坊だ、とチアキはいまいましく思ったが、それを顔にだすのはスマートではない。すこしつまらなそうに片方の眉をあげて、まだまだ寝たりないほどだとでも言いたげに首をかしげた。

「そうかな、あたしが上手とか、そういうのとはまたちがうと思うんだけど」
「だったらなんだって?」

 マミがさきに目をさまし、ベッドの半分をすっかりつめたくしてしまうことはめずらしいことではなかった。もしくは、チアキがさきに目をさましてマミの寝顔をながめることもそのとおりだった。

「チアキちゃんは、ねむりがふかいもの」
「まさか」

 彼女の適当な物言いはいつものことだ。こちとら宇宙生まれの宇宙育ち、残念ながら警戒心などというものとはきってもきれない腐れ縁だ。ねむっていてもいつでも緊張している、気がやすまることなどありえない。
 チアキはマミのむかいに腰かけながら、まだすこしおもたいまぶたをきゅっとおす。マミはにこにこしならがそのようすをながめて、このしずかな空間を堪能しているようだ。チアキはちょっとだけどきどきした。いまこのときを、しあわせだと感じているのだろうか、そう思わせられている自信なんてない。それなりのつきあいなのに、マミを笑わせる確実な方法を身につけられない。
 ばかだ、くだらない幻想だ。そんなものは、きっとしぬまでつかめない。チアキはそういうやつをすきになったのが運のつきだとわかっていながら、ぼんやりした世界のままじゃ我慢ならないのだ。海賊なんてやっておきながら、頭がかたくて臆病でしかたがない。

「チアキちゃん、コーヒーいれてちょうだいな」
「そういうのはふつう、はやくおきたほうが準備をしておいてくれるものじゃない?」
「だめ、あたし低血圧なの。おきたばっかりじゃ頭もからだもはたらかなくって」

 よく言うと思った。ベッドからマミの体温はぬけおちていた。きょうはよっぽどはやい起床だったにちがいない。ながいあいだひとりでこんなところで腰かけて、ゆっくりゆっくりぼんやりとしていたのだろう。チアキは、すこし気にくわなかった。こんどのこれは、顔にだした。途端マミがころころ笑うので、舌うちで返事をすることにした。

「どうせおきてもなにをする気もないなら、チアキちゃんのとなりでそうしていればよかったね」

 随分たのしそうにそういうことを言うから、チアキの言いたいことは正確につたわったらしい。マミはいつもそうだ。チアキはベッドでおはようと言いあいたいのに、マミは全然そうじゃない。すきなようにおきて、すきなようにどこかへいってしまう。そういうところは、きっとずっとそのままなのだ。いやな女、そういう気ままさがあまりに似合ってしまう。
 チアキのいれるコーヒーはすこしうすい。マミはこの味がすきだった。チアキちゃんらしくて素敵ね、とかるがるしく口にした。

「ねえ、どんな夢を見ていたの?」

 ゆっくりゆれる湯気のむこう、両手でもった白いカップに口をつけながら、マミはまるでいまこそ夢のなかであるかのようにささやく。夢なんて見ていないとチアキが返事をすると、彼女はおかしそうに目をほそめた。

「チアキちゃんは、朝がきらいなのよね」

 話があっちこっちへととんでいく。マミのこういうためすような話し方は案外きらいじゃない。彼女の本意を推理するあそびはふたりにとっての日常だ。しかしながら、その過程はたのしかろうとも、結果はだいたいにおいてチアキをまいらせる。それはそれでたのしく思えてしまうあたり、もうどうしようもないのだろうとチアキは観念していた。

「そんなことを言ったことがあった?」
「チアキちゃんのことなら、あたしなんでもしってるの」

 きっとおかあさんの夢を見たのね。こつんとマグカップをテーブルにおき、驚愕すべきことを言ったマミはほおづえをついた。もったいぶるかのような緩慢なその動作は、瞬時に唖然としていたチアキを冷静にさせることに一役かった。

「……」
「あたしの手をにぎって、あなたちょっとないてた」

 しかし結局返答を思いつくまでにはいたらず、口をぱくぱくさせていたところでマミがおいうちをかける。思わずとんとテーブルをたたいた。

「うそだわ。涙のあとなんてなかった」
「そりゃあ、あたしがそっとぬぐってあげたもの」

 意味ありげに自分の唇を指さし、そのままその手を、チアキににぎられたのだというその手をすっとかかげていとおしげに見つめるマミは、まさに。ねえきっと、あたしのことをおかあさんだと思ったのよね、チアキちゃん。ささやくその声は、まるで。
 チアキには、うんとおさないころにいなくなってしまった母親の記憶がほどんどない。父から話をきかされることがあっても、それは現実味をおびぬおとぎ話だった。いったいどんなものかなんてわからない、それなのに、いま目のまえにいるひとは、その物語の主人公のよう。そんなこと、ありえるはずがないのに!
 チアキの手元のコーヒーは、ひとくちもいただかれないままゆっくりとさめていく。うすれきった朝の気配は窓のそとからとどくかすかな喧騒をうけいれて、とおくとおくへいってしまった見ていないはずの夢の話をあとかたもなくかきけしていく。あたし、チアキちゃんのママになってあげたいのかな。それでも現実のなかの彼女の台詞は、こんなにちかくてあたたかい。

「……ねえ、うそだっていま白状すれば、ゆるしてあげるわよ」
「あたしがうそをついたことなんてあった?」
「どの口が……」

 うそつきのマミはなにを言っても真実味にあふれていて、それでいてうさんくさかった。チアキちゃん、さあこっちにおいで、頭をなでてあげる。母親の声が手まねきし、テーブルでむかいあっているこのわずかな距離を邪魔者あつかいする。チアキはすっかり困惑して、ああこれは本当の話なのかもしれないと思った。マミの見せる幻に惑わされたチアキは、しかし彼女のとなりにいく気にはならない。だってマミは、チアキにとってのマミは。

「わるいけど、かりにいまのが全部本当だったとして、あんたは私のママじゃないわ」
「どうして? あたしのとなりだとチアキちゃんはこどもみたいにぐっすりねむれるのに、どうしてあたしはチアキちゃんのママじゃないの?」
「……、……!」

 このタイミングで種明かしときたものだ。チアキはとりあえずことばをうしなってみることにした。つまりはこういうことだ、彼女は、さきほど朝のあいさつもすっとばしてなげかけてやったかわいらしい嫌味への反論を、チアキがいちどは一笑にふした現実を懇切丁寧に証明してみせたというわけだ。

(あんたは私のとなりからぬけだすのが上手ね)

 たしかにこれはまちがいだった。べつにマミが上手なわけではない。たんにチアキの間がぬけていただけの話だった。ねむりはあさい性分のはずだった、しかしそれはマミのとなりにおいてはくつがえってしまうのだ。だってこのひとのとなりはあたたかくて居心地がよくて、まるでゆりかごのなかのようにチアキを安心させる。母の腕のなかのように、チアキを素敵な夢の世界へいざなっていく。

(チアキちゃんは、ねむりがふかいもの)

 まったくそのとおりではないか。いろんなところからわきあがる羞恥心のあまり、赤面することを自覚した。

「……、ええと。つまりは、ないていたとか母親がどうとかいうのは言いたいことを言うためのただの方便だったってことでいい?」

 くるしまぎれに、せめて否定できるところだけはしておくことにした。体裁をととのえるためにおおげさなしぐさで脚をくんでほおづえをついた。なんとか笑ってみせようかと思ったが、唇のはしがまぬけにつりあがるばかりだった。それを見たマミは、心底意地わるげに笑う。ほらそうだ、これが母親なものか、父からきいた物語は、チアキの記憶のずっとおくにねむる母親の気配は、これとはきっと対極にあるにちがいない。そうねがいたい。

「んー。しかたない、そういうことにしといたげる」
「……。そもそも、私の母親は絶対にあんたみたいじゃなかった」
「言いきるねえ。おかあさんのことってあんまりおぼえてないんじゃないの?」
「勘よ」
「海賊の?」
「これがびっくりするほどあたるのよね」

 そもそも、母親だというのならよくもまあないているこどもをおいてさっさとベッドからぬけだせるものだ。そう言ってやりたかったが、これをいうとマミの話をすべて真実と認めてしまうことになるのでやめにした。しかし結局、うだうだとかんがえたことは全部無駄になり、やっぱり彼女の言い分はすべて本当なのだろうという結論にたっするのは当然のことだった。だって、マミの本意を推理するこのあそびは、いつもチアキをまいらせる結果におわるのだ。
 朝は苦手だと思っていた、それは夢から覚めてしまうから。おぼろげな記憶のなかの母親とはなればなれになってしまうから。そしてそんな夢を見てしまうのは、見ないはずの夢を見てしまうのは、母とは似ても似つかぬマミのぬくもりがこんなにちかくにあるから。ほうら、話がすべてつながった。

「でも、おしいよね。あたし、チアキちゃんみたいなこどもがいたら、うんとやさしくしてあげるのにさ」

 ひょいと手がとられる。握手するようになんどかぷらぷらゆらしたあと、マミはつながったてのひらをそっとひきよせた。そうだ、母親ならばもっとやさしくすべきだ、ベッドからぬけだすような真似はせず、コーヒーの準備もかかさない。そうしてもらえたらとてもうれしい、きっとチアキを幸福な気持ちにさせる。けれど、そんなものはきっと、チアキののぞむものでなく、マミが用意したいものでもない。だって彼女たちは、彼女たちのあいだにあるものは。チアキは、だれにも気づかれぬようつばをのむ。ごまかすように舌うちする。

「……またそういう、思ってもいないことを」

 意味もなくチアキの指先をなめあげた全然やさしくないマミは、愛する恋人を惑わすための笑顔をうかべていた。
12.10.12