しずかな空間にあるのは、かすかな寝息だけだった。マミは机に突っ伏す茉莉香を見おろしながら、なんとなくすんと鼻をならしてみた。ちょっとした自己主張は、意中の相手にはとどかない。
 放課後になってしばらくたって、それでもこのしんとした寝顔を観察することにはあきなかった。茉莉香の席のまえの椅子をうしろにむけて、ほおづえをついてながめていた。前髪のかかったしずかな表情、最近ではすっかり見なれてしまった。

「……そろそろ、シフトの時間なんだけどなあ」

 肩をたたいておはようのあいさつをする気には、残念ながらならない。その理由は、マミ自身もどうにもうまく言語化できなかった。それは哀愁のようで、わずかにちがう。もっと、胸のおくがおどるようなひそかであたたかなものだった。

「まーりか」

 間のびした、かわいこぶった声でよびかける。ながめの前髪を指でなぞって、そっとつたわる彼女の気配に笑顔がこぼれた。茉莉香、茉莉香。こころのなかでなんどもよびかけて、すこしずつ思考がぼんやりしていくことを自覚する。茉莉香がおきないのがわるいのよ。そっとささやいて、すこし身をかがめた。
 なにをしようというのか、説明する必要など皆無だ。蜜をたっぷりためこんだ花が目のまえにあって、わざわざさけてとおるような蜂はいはすまい。茉莉香の目尻はくっきりとうつくしい。前髪をそっとどけて、そっと見つめて、そっとそっと、そこに唇をよせる。

「チアキちゃんのえっち」

 が、邪魔者がいたなら話はべつだ。茉莉香の耳元で、他人の名を口にした。がた、と背後でものおと。ぱっとからだをはなして、ていねいにもひざに両手をおいてからふりかえった。するとそこにいるのは、もちろんいつかの転校生。

「のぞきなんて趣味わるーい」
「私がいるってわかっててそういうことするほうがよっぽど趣味わるいわよ」

 動揺をわかりやすくおしえてくれるようにずれていた眼鏡をちょいともちあげ、チアキは気をとりなおすように腕をくんだ。

「……おきた?」
「ぜんぜん」

 気をつかうように言って、彼女は教室の入り口にたったままでいる。マミはすこしつまらなくなったから、手まねきしてわざわざとなりの椅子をうごかしてチアキの居場所をつくった。しばらく超然としていた彼女だったが、マミがにこにこしたまま見つめつづけているとしぶしぶおれた。音をたてぬようしのびより、マミのとなりの椅子に腰かける。

「茉莉香にあいにきたの? わざわざ学校まで、そっか、こないだはランプ館であえなかったもんね」
「……」

 だまっているということは図星なのだろう。チアキはなかなか警戒心がつよく、身のほどもわきまえている。よけいなことを言ってマミをごまかすようなことができないのは、たった数回のやりとりで理解していた。

「茉莉香、やっぱりいそがしいんだねえ。あいかわらず、かえりのホームルームはおやすみの時間なの。ま、そのあともなんだけどねー」

 たてつづけにねむりつづけているだいじな友人をながめて、マミがくすくす笑う。チアキはとくに言うこともなかったからだまっていた。海賊と学生の両立がきびしいことを彼女は身をもって理解しており、それを他人に共有してもらおうとは思わないのだ。かわりに、ちらりと視線をあげる。マミは茉莉香を見つめていた。その瞳はさながら気をもむ母親のようであり、さみしがるこどものようであり、友人をからかう少女のものであった。つまり簡単にいうと、チアキにはマミの思考はまったく読めない。

「たまにさ」

 だから、唐突につげられたマミのことばを、チアキは一生正確には理解できないであろう。たまに、このね、ここをね、ぎゅーっとしめたらどうなるのかしらって思うの。マミの指先がおどる。そっと髪をわけほほをなぜ、たどりついたさきは、しろくか弱い首筋だった。

「……」

 絶句したが、ずっとだまっていたチアキの動揺がそれでつたわったとは思えない。マミの視線は、こんどはチアキを注視している。

「……まじ?」

 きっとおもしろいリアクションを期待しているであろうマミにむけられたのは、そんな台詞で精一杯だった。それでも充分彼女をよろこばせることはできたらしく、んっふふと気味のわるい笑いかたをしたマミは気軽なようすでほおづえをついた。

「ま、あたしなんかにやられちゃう茉莉香なんてやだから、そんなことしないけどね」

 まったく要領を得ないことを言いながら、マミはすっかり上機嫌になっていた。というより、チアキは彼女の機嫌がわるいときを見たことがなかった。茉莉香ならしっているのだろうか、と思うと、チアキは無性に背中のあたりがざわざわすることを自覚した。

(悪趣味なんて域じゃないわね)

 チアキはまたずれた眼鏡をなおしながら、あいかわらず茉莉香の寝顔をながめっぱなしのマミの横顔を見た。このごろは、ずっと仲のよかった友人と共有できる時間がすっかりへってしまったのだろう。親友がどこかとおくへいってしまうようなさみしさは、焦燥感とにている。それを解消する方法を、マミは適当に見つくろっている。本当はそれ以上のさえたやりかたすらも思いついているような顔をしているこの女は、なるほどたしかにこの加藤茉莉香の親友として分相応なのだ。

「あたしなんか、ね」
「え?」
「むしろ私は、あなたくらいしかこの子のことやれるようなやつはいないと思うけど」

 やられっぱなしは主義に反する。ふんと鼻をならしてそう言ってやると、マミはすこしだけ間をおいた。それってどういう意味? すきに解釈してもらってかまわないわよ。適当な応酬のあと、マミはまた間をおく。そっとひびくのは、茉莉香の寝息だけになる。つかの間の静寂、チアキがそれにあきてしまう直前、ぴったりのタイミングでマミは笑った。

「じゃ、ほめことばとしてとっておこーっと」

 かたん、とマミが席をたつ。茉莉香、おきて。そろそろランプ館いかなきゃだよ、っていうか、チアキちゃんきてるよ。日常会話ほどの音量で声をかけるが、茉莉香はまったくおきはしない。先程まではそれなりに配慮して小声で会話をしていたが、それでもよくこんな耳元でやられておきないものだと思っていたがそれどころではないらしい。

「よっぽどつかれてるんだよねえ」

 チアキの思考をひきつぐように、マミが言う。それからそっと手をのばし、頭をなでた。つかれてるんだよね、絶対におしえてくれないけどね。おだやかな声がした瞬間、びくりと茉莉香の肩がゆれる。それからのろのろ身をおこし、こどもみたいに目をこする。こういうしぐさを見ると、実年齢以上におさない。しかし彼女は、海賊船の船長なのだ。ここにはない顔をいくつももっていて、マミはそれを、どう思っているのだろう。

(宇宙では、チアキちゃんがマミのかわりだよ)

 先日言われたことを思いだす。どうでもいいことだった、それでも、こころにのこっていた。だってそれはとても印象的で、強制的で、魅力的なことばだった。チアキは席をたつ。椅子をもとの位置にもどしてから、茉莉香がすっかり覚醒するまえにあるきだす。ばかね、と、こころのなかでつぶやかずにはいられない。

(あなたのかわりなんて、気がおもくてやってられないわよ)

 そんなにだいじで、素敵な役なんて。かつかつと足音をたてて早歩きをしていると、そうそうにさわがしいふたりの声がきこえてきた。チアキちゃんだ、とか、まってまっておいてかないで、とか、どうせチアキちゃんランプ館にいくだろうからすぐにあえるよ、とか。背後からきこえるそれになんとなく憤慨しながらもすこしたのしくなっているおのれに気づかないふりをして、チアキは、いっそのことはしりだそうか、なんてばかみたいなことをかんがえていた。
12.03.24