とある日の昼休み、中庭のすみ。人気のないそこは彼女たちだけの場所だった。この時間には校舎のかげになるそこはすこしくらいが、日向のぬくもりをかかえたままの芝生はまだほんのりとあたたかい。そこに腰をおろすジェニーは手元の緑をそっとなでて、ほほえむ。
「きょうのリンは無口ね」
となりに語りかけても、返事はなかった。あぐらをかいてそのうえにほおづえをつくリンは、すこしはしたないがとても彼女らしい。ただ、まるでジェニーなんてそこにいないような顔でそっぽをむくその姿はまるでこどもじみていて、全然リンらしくなかった。
「あたしはさ」
あいかわらずすねたようすで、リンはひとりごとのようにつぶやく。ジェニーは、すこし身がまえる。
「すごく、気がおもいんだよね。部長なんてがらじゃないし、ジェニーみたいにうまくやれるとも思えやしない」
「謙遜ね」
三年生の部活引退が間近にせまっていた。現部長であるジェニーは、そろそろ後輩へのひきつぎを完了させなければならなかった。たよりになる後輩たちだ、すこしのさみしさはあれど、不安はすがすがしいほどにない。なにより、次期部長候補のことはふかくふかく信頼していた。三年生のみんなで話しあって満場一致で決定したこと、これからのヨット部は、リン・ランブレッタにまかせるということ。
「あなたなら後輩からの人望もあついし能力だってある。あなたの思うようにやればいいのよ。べつに、私みたいにやる必要なんてない。そもそも、私だってたいした部長じゃなかったわ」
「それこそ謙遜だね」
ふん、と鼻をならして、リンがやっとこちらをむいた。しかし視線の交差はたったの一瞬で、すぐに彼女は身をひるがえす。ころりと芝生にころがって、またジェニーから顔をかくしてしまった。みじかい髪から見えかくれする、ちいさな耳の裏側。ジェニーはそこにふれるのがすきだった、くすぐったがるリンを見るのはもっとすきだった。
本当はわかっている。リンがこんなにわかりやすく感傷的になっているのは、部長をつぐというおおきな責任のせいではない、彼女が言いたいのはそんなことではない。その先にあるものが、どんどんちかづいていると実感してしまうせいだった。
「リン、こっちむいてくれないとやあよ」
ヨット部からの引退のつぎは、白凰女学院からの卒業がまっているのだ。それの意味することは、ジェニーにとってもゆゆしきことだった。
おおいかぶさるように、リンの顔のむこう側に手をついた。もともと日陰のその場所で、リンの顔はジェニーのかげのせいで余計にうすぐらくなる。見おろす光景はとてもうつくしい。リンのながし目が上方の瞳をとらえる。つんとした、かんがえの読めぬ眼光だった。
「ジェニー」
あまい声だった。あまえるような、あまやかすような声だった。リンの唇からつむがれるこのなまえは、もちぬし自身すらおどろくほどすてきなひびきをもっていた。なあに、リン。返事をしようかと思うが、もっとよんでほしくてためらわれる。
この先のことなんて、本当はわかりきっていることだった。うまれるまえからジェニーの人生はきまっていた。ドリトル家のしきたりにのっとって、彼女の人生の伴侶はゆるぎなく決定していた。家のものから言いきかされつづけてきた、ジェニーは、この学院を卒業したところで、政略結婚をなしとげなければならないのだ。
それに疑問をいだくことはなかった。そういうふうにそだてられてきた。高校を卒業して以降にやりたいことがないのかといえばまったくのうそになるから、どうにか適当にごまかしてその後の進路を自分できめたとしても、いつかは両親の言うとおりのところに身をかためると思っていた。けれど、その思いこみは簡単にぺしゃんこにされた。リンとの出会いが、ジェニーを我にかえしてしまった。しらなければもっと平穏だったのだろうか、もしそうだとして、その人生がたのしくないならそんなものは無益だ。
「……ジェニー」
そっと手がのびてくる。ほほをなぞる指先は、とてもセクシーだ。ジェニーは思わず目をほそめて、その手をとって自分のほほにきゅっとおしつける。すきよ、リン。ささやけば、リンは不敵に笑うのだ。
気づけば体勢をいれかえられていた。ふわりと髪がゆれて、芝生のにおいが間近によった。こんどは見おろされる羽目になる。わざわざ両手を拘束するようなやりかたで、リンはジェニーをおしたおした。
「そんななきそうな声で言わなくても、あたしもすきだよ」
いちいち生意気な物言いをするのは、彼女のてれかくしだ。ジェニーしかしらない声色だった。ねえ、あなたいま、なにかんがえてるの、私のこれからのこと、どう思ってるの。ここ最近はうかばぬ日のない疑問、なげかけることはできない問いかけ。許婚の件についてリンと話したことはない。彼女からたずねられることがなかったから、ジェニーもずっとにげつづけてきた。けれどいまのように先のことをかんがえざるをえなくなることがあれば、こうやって彼女はペシミスティックな顔つきになる。彼女の悲観は、ジェニーのこころのどこかをよろこばせる。とてもわがままなその快楽は、ジェニーを辟易とさせた。
「ここ、どこかわかってるの?」
「べつにだれも見ちゃいないさ、期待してるジェニーの顔なんて、あたしにしか見れやしないんだろ?」
勝ちほこった声で、生意気な顔で。リンはいつもの調子で口角をあげる。これが私だけのものならいい、私が、リンだけのものならいい。不可侵の夢想は、ジェニーをすこしだけうれしくさせる。せめていまだけでもそれにひたりきっていたい、リンがおなじ気持ちならいい。こんなはかない望みをいだくことくらい、ゆるされてしかるべきにちがいない。
(私、あなたにあえてしあわせよ。これからもずっと、きっとしあわせ)
とおくで予鈴の音がなっていた。芝生のにおいが、そっと彼女たちをつつんでいた。
12.03.18