それはまさに、出来心だった。それ以外のなにものでもなく、すなわち直後におとずれたのはあらがいようのない後悔。血の気がひき、目がくらみ、足がふるえた。

「……」

 そのくせ、ああなんてやわらかいのかしら、などとのんきにもほどがある感想がうかぶものだからすくいようがない。チアキは、経験したことのない至近距離でマミの息づかいを感じていた。しかしそんな場違いな幸福感は、即座に消滅。

「……あ、あ、ちょ! ちょっと! まって!」

 きびすをかえしたマミは、チアキのなさけないよびとめを完全にききいれずに歩をすすめる。それはそうだ、おこってしかるべきだ。だって恋人でもないやつに、唇をうばわれたのだから。

「ごめ、ごめんなさい。ちがうの、いまのはだからええっと、おねがいだから!」

 夜の街はずれに人影などない。あわてた声はまぬけにひびく。腕をとればマミはたちどまる。しかしこちらをふりむくことはない。いやな汗が背筋をつたい、じわじわ目のおくが熱くなる。なけてくるとはなさけなく、なによりじつに勝手な話だった。いま、客観的な観点からすると、悪は全面的にチアキだ。酒がはいっていたなどというのは言いわけだ。だって、キスしたかったのだ。マミのちいさな唇が、あんまりにもかわいかったのだ。

「ごめんなさい、あやまるから、だから」

 だから、どうしてほしいというのか。きらわないでほしい、もうあわないなんて言わないでほしい。そういうことが言いたいのだろうか。チアキは自問するが、ふしぎとこたえはかえってこない。チアキはいつもさがしていた。大事な親友の恋人たるマミのそばにいたい自分は、いったいどんな態度をしめせばいいのか、なにを期待すべきで、なにをあきらめるべきなのか。
 ひさびさに時間ができたから、チアキからマミに連絡をとった。すこしまえにはありえないことだった。だって、チアキはマミのたんなるひまつぶしであるべきだったから。けれど、先日告白なるものをなしとげてしまったチアキは、すこし立ち位置がかわった。あわよくば、をねらっていける立場になった。アプローチは露骨になって問題ない。だって、もう気持ちはしられているのだ。

(だからって、私は馬鹿か。くそったれの大馬鹿野郎だわ)

 調子にのってしまったことは否めない。だってマミは、チアキの気持ちをしりつつそれを利用する。ならば、チアキもそれなりにおいしいところをいただかないとわりにあわない。マミならば、それを責めることはないだろう。ただ、チアキからのあの手この手のお遊びじみた駆け引きを、あっさり見事にひらりとかわすのだ。それがうまくいかないとき、きっとマミはそれを自分の落ち度とする。ふたりの関係はそうやって殺伐とし、非建設的でむなしかった。しかし、たのしかったことも事実だ。すくなくともチアキにとってはそうだった。

「チアキちゃん」

 名をよばれて、なさけないくらいに肩がはねた。マミのおすすめの居酒屋でゆっくりしたあと、もう彼女を家までおくるしかないところだった。それはとてもさみしい時間だ。欲がでてしまった。けれど、でも。チアキは言いわけじみた考えがうかぶことをやめられない。だって、隙をつくったのはあんたでしょう、ここにいないだれかのことを思ってさみしそうにしていたのは、マミでしょう? つかんだ手をはなせないまま、うつむいた顔をあげられぬまま、彼女はマミのことばのつづきをまつ。

「いま、だれがいちばんわるいかわかる?」

 そんなのはきまっている。言わせたいのか、この性悪め。チアキはやっと手をはなし、ふとふりむくマミの瞳を見る。ああ、だめ。しかし即座に地におちる視線。まったくもって格好がつかず、チアキはしおしお肩をおとして挙手した。わるいのはもちろん、この大馬鹿野郎にきまっている。

「ぶー。ちがいまーす」

 が、思いがけぬきびしい採点だ。ぺけをつけられたチアキは、は、とへんな声をだして顔をあげた。するとマミはほほをふくらませ、こどもみたいな顔でおこっていた。

「そんなの、茉莉香にきまってるじゃない」

 唖然とするチアキをくいくいひっぱって、マミはその場にしゃがみこむ。チアキもつづく。暗い道の真ん中でちいさくなるいいおとながふたり、そっと顔をよせあった。

「あたしのことほったらかしにするから、チアキちゃんとキスしちゃったのよ。茉莉香ってほんとにだめだよね」

 そっと顔をよせて、マミはまるい瞳をゆるがすことなく至近のひとを見つめた。いまにもキスができる距離、だというのに、まったくもってふれられる気がしないのは、じつに納得のいく話。そう、結局は、先程の接触事故の責任はふたりにあった。マミが本気になれば、チアキを威圧することなどたやすい。それをしなかったさっきのマミは、つまりは、半分くらいその気だったのだ。

「……あの、そういうことを言われると、帰したくなくなるんだけど」
「えー? 帰るよ、あたしは」

 ね、チアキちゃんさっきちょっとないてたでしょ。笑いこらえるの大変だったの。ふふ、ぶりかえしてきちゃった。すっくとたちあがった彼女は、にこにこ笑って夜空を見あげる。ずっとそのさきのどこかにいる、だれかをさがす。チアキはしばらくしゃがみこんだまま、見あげるマミを見あげていた。

「ねえ、つまりは私は、あんたにキスくらいならしてもいい立場にいるわけ?」
「んー、茉莉香のまえであたしにキスできるっていうなら、そうなるかも」
「……」

 はいはいお手上げです。えーなにそれ、根性ないなあ。くすくす音がして、マミはこんどはチアキを見おろす。空を見あげてさがしてもらえなくてもいい、ただ、いっしょにいるときは、こうやって。チアキはセンチメンタルな気持ちになる自分が不気味だった。マミといっしょにいるといつもせつなくなってばかりだ。そんな自分に酔うことは、案外たのしいことだった。

「ま、そんなわけだからさ。きょうのことは茉莉香に秘密よ? このことしったら茉莉香絶対ないちゃうもん」
「え、なくの? あいつが?」
「え、なかないの?」
「私がしるもんですか」

 なくよ、茉莉香は。言いきられ、そうすれば納得するしかない。だってマミの言う茉莉香のことで、まちがいなのがあるはずない。となれば、うむ、目標がひとつ。マミから許しもでた、あとは、チアキの肝がすわってくれるいつの日かをまつばかり。てくてくあるきはじめた背中をおいかけながら、チアキはぎっと夜空をにらむ。そのなかのどこかにいるであろうやつにだれにもばれない宣戦布告をする。

「いっかいくらいなけばいいんだわ、あんなろくでなし」
「あはは!」

 のんきに笑っていてもいいのかしら、つまりはあの本物の馬鹿をいつかなかしてやろうって言ってるのよ、私。
12.06.23