とにかく、だいじなことはひと呼吸おくことだ。石舟斎はこのごろになってやっと、自分がこれでけっこうおろかな人間なのだと理解しつつあった。失敗は成功の母、とはよく言ったものだが、それはすなわち失敗を経験しなければただしき道を導きだせないということではあるまいか。

「……い、いらっしゃいませ」

 唇のはしをひきつらせ自宅のドアをおしあけながら、彼女は過去の反省をふまえた反応をしてみせたのだった。

「きょうはいれてくれるのですね」
「……」

 ずいぶん不服そうな声色である。とはいえ、じゃあ帰りますか?などという返事が瞬時にでてくる己の思考回路がじつに憎かった。ひと呼吸、ひと呼吸がだいじなのだ。とびだしかけた台詞をなんとかのみこみ、ははは、とその場をにごすように笑って義輝のまえに湯のみをおく。粗茶ですが、とひと言そえられたことばどおりのそれを、義輝はつんけんした顔で見おろした。石舟斎は自分のぶんに口をつけながら、その表情を横目でながめた。まるいテーブルのまえで正座する彼女は、このふるぼけたアパートの一室にはどうにも不釣り合いな気品をおびている。しんとしずまった室内、石舟斎は覚悟をきめた。ええとですね、義輝さま。

「はい?」
「……べつに、このあいだだって義輝さまをうちにあげないつもりはなかったんですが」

 言いわけめいたことをぼそぼそ言うと、義輝はやっと湯のみに手をかけた。
 そう、先日もこれとにたようなことがあったのだ。義輝の突然の奇襲にはまったく必然性などない。虫の音もしずまった夜、インターフォンの音につられてドアをあければ、なぜだかこの将軍さまがたっていたのだ。もちろん石舟斎はおどろいた、べつに自宅に招いていたわけでもないし、むこうから訪問するむねをうかがってもいない。

(どうしたんですか、急に。なにか用ですか?)

 となると、口をついてでた第一声がこうなってしまうのもいたしかたのない話ではなかろうか。石舟斎はその点についてゆずる気はなかったが、たしかにそのあとの対応はまずかったかもしれない。いますこし手がはなせない、用があるなら手短にすませてほしい、といったむねのことをドアをあけた格好そのままに言ってしまった。とたん彼女はずいぶん失望した顔をして、なにも言わずにさっていってしまった。石舟斎は唖然とした顔でそれを見おくったものだが、思いかえせばたしかにあれはおいかえしたい人間の台詞だった。しかも思いかえすという思考にいたったのも、むこうの機嫌がながいことかたむいたままになってやっとだというのだから、始末におえない。

「へえ、そうなんですか」
「……」

 義輝が茶をすする。石舟斎は居心地がわるくなりながら、これは挽回の機会をあたえられたのだろうと思いつく。きょう玄関先にたっていたころからそのままのむっつりとした顔、じとりとした上目遣いの訪問者を見て、今回はなんとか笑顔でむかえいれられた、はずだ。

「ところで、なにしてたんです?」
「え」
「それ」

 すっと指さされて、石舟斎は思わず自分のからだでかくしていたものをさらにおくにおしやった。先程までこのテーブルのうえにひろげていたもの、義輝をとおしてからあわてて床のうえにかたづけたものだった。

「ああ、ええと。剣道部の稽古の内容をかんがえていたんです」
「まあ、おいそがしいようですね。でしたら私、かえったほうがいいかしら」
「え、いや。大丈夫です。ほとんどまとまりかけたところだったので」
「あら、このあいだは、それがあるからと迷惑そうな顔をしたのに」
「……そうでしたっけ」

 ついつい本気で記憶をたどっていると、こちらはおぼえているのにどうしてそちらはおぼえていないのかと言わんばかりに不機嫌さに輪がかかったので、石舟斎はあわててうなずく。ああ、はい、そうです、そうでした。テーブルをはさんでむかいあわせになりながら、意図の読めぬ視線をとばされる。どぎまぎしながらそれを見かえしていると、むこうがふっと息をつく。

「私のことはおかまいなく」
「……はあ」

 ずいぶんと無理難題をおしつけられたものである。義輝はゆっくり茶をすすり、ただただそこにすわっていた。石舟斎はこまりはてたが、とりあえずおことばにあまえることにする。ほとんどまとまりかけだったなどとは方便で、これにはちょうど手をつけはじめたところだった。大学ノートをひらいて、きょうの部活動を思いかえす。シャープペンシルなるこの道具はなかなかおもしろくて便利なやつだ。かちかちと先端をノックして、一考してからつづきをかきはじめた。

「たのしそうですね」
「え」

 はっとした。気づかぬうちに集中していたようだ。かしこまっていた正座はすっかりくずれ、ほおづえをついてぐりぐりシャーペンをすべらせていた。反射的に視線をあげると、手元をのぞきこまれていた。そう。いつのまにか義輝はとなりに移動していたので、少々ぎょっとする。

「たくさん書いてある」
「あ…ああ、はい。部員ひとりひとりの傾向と対策をつらねていると、なかなかみじかくはまとまらないですね」
「ふうん……」

 興味があるのかないのか、適当なあいづちのあとも義輝は大学ノートを見つめていた。石舟斎の几帳面そうな字を、視線がなぞる。自分用に書いているものだから、ひとに読まれるとすこし気はずかしかった。

(でも、なにより)

 ……少々、ちかすぎやしないだろうか。身をのりだしてのぞきこむ義輝は、なんのつもりかいまにも石舟斎の腕にしがみつくようないきおいだ。しかもこまったことに、こういうときの彼女はなにもかんがえていない。なによりこの至近距離がはずかしいのは、石舟斎ばかりなのである。せめて、この状況で見あげてくるようなまねだけはしてくれるな。彼女はこころのなかでつよくいのった。しかしそのとたんに、お約束とばかりに義輝の視線があがる。

「学校で剣をおしえることはたのしいですか?」

 ぎょっとしたので、こたえに一瞬つまる。が、身をひく気にはならない。いまにもほほとほほがふれあいそうな距離で石舟斎は逡巡し、目のおくをちりちりさせながらなんとかうなずく。

「そりゃあ、たのしいです」
「そう、じゃあ、いまは?」

 いま。先程、すっかり集中していたところをたのしそうだと指摘されたばかりではなかったか。思考回路がうごきをにぶらせ、おそらく見当ちがいであろう疑問をみちびきだす。けれどなんだか、いろいろどうでもよくなってきてしまった。こたえをまつ義輝をぼんやり見かえす。本当に、おさない顔立ちをしている方だと思う。さぐるような上目遣いはかわいくて、ふれればきっとやわらかいであろうほっぺたがちょっと赤い。いつかこれに指をはわせて、それからぎゅっとだきしめて、歯がうくような台詞をきめてみたい。常々そういうよこしまなことをかんがえているはずのに、ふしぎとこまったことに、こうやって身をよせあって、目と目をあわせているだけで、どうしようもなく気持ちがいいのだ。それだけで、たまらなく満足してしまうのだ。ああ、己のおろかさを再確認。

「……たのしいです、とっても」

 思わずとばかりに石舟斎がこころからの本音をもらすと、義輝はむずがゆそうに肩をすくませ、へんな顔ですね、とすっかりほうけた石舟斎の顔を指さして笑った。

「私、あなたってなんて薄情なひとなのかしらと思います」

 私は、あなたはなんて気むずかしいのかしらと思います。こんどのこれもなんとかのみこみながら、石舟斎はゆっくりあるいていた。あのあと即座に帰りますとたちあがってしまった義輝、彼女のすむ屋敷までおくる道すがら。夜の小道はくらいけれど、月あかりがふたりのゆくさきをしめしている。そんななかで手なんてつないでみようかとうかれていた石舟斎だったが、ぼそりとしたそのひと言に、こんどはどんな小言がとびだしてくるのかとついついしょんぼり冷静になる。

「あなた、きょうはずっとなにをしにきたのかって顔をしていました。いまだってそう」

 用事がないとだめなんですね、あなたにとっては。しかし、そう言うわりにいまの義輝の口調はたのしげで、石舟斎はすこし戸惑った。だってふしぎではないか。急にたずねてきて、ただ茶をのんでこちらが自分の用事をすませているのを見ていただけなのだ、彼女は。それだけで急に帰ると言いだされ、結局なんのためにやってきたのか見当もつけられない。

「義輝さま」
「ちょっとだまっていて」

 ぴしゃりとした言い方のわりに、義輝は笑っていた。これは見覚えのある笑い方だ、そう、いたずらを思いついたときの、こどもみたいなそれ。一歩さきにいきふりかえって、石舟斎のあゆみをさえぎるようにまえにたつ。

「見送りはここまででいいです、あとはひとりで帰れます」
「え、べつに屋敷までお送りしますけど」
「けっこうです」

 ねえ、石舟斎。ふとなまえをよばれ、指先にふれられる。ぎくりとしているうちにそれをくいくいひかれたので、それにつられて身をかがめた。あわせて義輝も背のびをし、義輝のきらいな、石舟斎とってはちょっとしたおきにいりの身長差がなくなる。されるがまま耳元によせられた唇、彼女はそっとささやいた。私が、きょうきた理由をおしえてあげます。

「あなたにあいにきたの、私」

 すっかりやられてしまったと気づいたときには、義輝は二歩ほどさきへといっていた。また、石舟斎を指さして笑っている。そんなことをされなくても、彼女の言うへんな顔になっている自覚はあった。とにかく、やられたのだ。先程から言っていることのわりに機嫌がよかったのはそういうことか。
 彼女には確信があったのだ、薄情な石舟斎のかんがえをあらためさせることに成功したという確信が。義輝のささやかな告白はまったくもって想定外で、それなのにじつに納得できてしまったのは、だって、たのしかったのだ。ただなにもしないで、いっしょにいただけで、たしかに、それだけで。

「それでは、また。おやすみなさい」

 依然としてほうけたままのゆるみきったまぬけ面をしている石舟斎、彼女にかるく手をふって、義輝は走りだした。それをひきとめる余裕もない、とにかく彼女は耳たぶにふれた吐息とあまい台詞を反芻するのにかかりきり。

「……ああ、将軍さまがそんなふうに走って、はしたない…」

 すっかり夜の闇にきえてしまったちいさな背中にむかってつぶやく。そこでやっと我にかえった石舟斎は、義輝にひかれてそのままになっていた猫背をなおし、しばらくもんもんとしたあとにはーっとおおきなため息をつく。

(最後まで送りたいんだって、ちゃんと言えばよかったわ)

 そして、くるりときびすをかえしてあるきだす。いっそ、義輝のように走りだしたいほどだった。彼女がふれた指先をもじもじさせたりなんだかあつい耳たぶをつついたりしながら、早いうちに上等の茶葉を買っておかなくてはいけないと思う。だって、全然必然性なんてないのに用事なんてないのに義輝がまたあいにくるのは、そうとおい未来ではないにきまっているのだから。
12.11.22