「おや、案外きれいなんですね」
「掃除をしたのです」

 義輝がぴしゃりと言うと、石舟斎はわざとらしくまばたきをする。だれがです? 無論、私です。それはそれは。もの言いたげにうなずくと、ちらりとした一瞥がとんできた。

「いやはや、ときのながれというものを感じます」

 義輝のすまう屋敷のおく、ものものしげな扉のついた一室は書庫になっていた。義輝からはずいぶんとながいあいだここに足をふみいれるものはなかったそうだときいていたので散々な状態を覚悟していた石舟斎だったが、彼女にうながされるまま扉をひらけばなかは案外小綺麗なようすだった。電灯はちゃんとついていてもたちならぶ書棚のおかげでうすぐらくはあるが、あまりほこりっぽさはない。先程の口ぶりからかんがみるに、このひろい空間をひとりできれいにしたのだろう。

「道場の掃除のしかたもしらなかったあの義輝さまが」
「むかしの話はやめてください」
「そう、私が雑巾のしぼりかたをおしえてさしあげたのです。最初のうちはきたないと言ってさわるのもいやがっていらっしゃった」
「石舟斎」

 だまれ、と言わんばかりに名をよばれ、石舟斎は口をつぐんで肩をすくめた。義輝はそのようすをじとりとにらみつけ、さっさと書棚のほうへとあるいていく。ぎっしりとならぶ背表紙に指をすべらせ、気にとまったものを手にとった。

「ここにはいろんな書物があって、あきません」
「……そうですか」

 本に目をおとす横顔をながめ、石舟斎は妙な気持ちになっていた。このようなおだやかな表情をする彼女を、かつて見たことがあっただろうか。じんわりと思いしる、はなれていたときのながさは、かつてのなにもしらなかったこどもをすっかりとおとなにかえてしまったのかもしれない。
 まず、読書をこのむようになっていたとはしらなかった。むかしの彼女は、ひまさえあれば刀をふっていた。いつもおこっていたし、なにかにおいたてられているようだった。斜陽のさなかにある将軍家を背負うものとして、まわりのなにもかもにたいして隙を見せてはならぬという気概を胸にひめていた。

「この屋敷は、こちらの世界の足利氏にゆかりのある方の所有物だそうですね」
「……ええ」

 そんな彼女が、ここにある歴史書にしるされたこの世界の事実を、いったいどんな思いでよみといているのか。
 彼女とおなじ名をもつかつての将軍のことは、石舟斎も興味をもっていた。しかし、すこし調べただけでも胸をひきさく思いだった。この世界にとってはずっとむかしに名をはせたかのひとの最期は、きっと無念にまみれたいたことだろう。足利将軍家が、この名が雲のうえまでとどろくことをただただいのり、はてたのだろう。はたしてそのさき、そのねがいはかなったのだろうか、……義輝は、なにを思っているのだろうか。

「私ね、すこしだけなきました」

 おだやかな声が、しずかな空間にひびく。手のなかの書物におちたままの目をしばたかせ、義輝ははるかとおくのできごとに思いをはせているようだった。

「……後悔していらっしゃいますか」
「え?」
「信長に秘宝をわたしてしまったこと」

 足利義輝の無念をはらせるのは、きっと足利義輝そのひとだけだ。志なかばで異世界にとばされ、彼女にとっての未来だったかもしれぬ真実をしった義輝がほっすることは、たったひとつに思われた。もうひとりの足利義輝がなしとげられなかったことを、彼女もいだいている大志をとげたいと、そうのぞまぬ義輝ではあるまい。
 石舟斎、と名がよばれる。そこでやっと、自分がうつむいていることに気づいた。顔をあげれば、義輝はもう視線をおとしてはいなかった。こちらをじっと見て、しらないだれかのような瞳に石舟斎をうつしている。

「……私は、うらやましいほどなのです」

 義輝が、そっとそっと、ふしぎなことを言う。たしかに彼は、思いをとげられなかった。けれどもずっとむかしについえたはずのそれを、たくさんのひとがこうして書きのこしている。言いつたえている。あまりにおおくのひとが、彼の名をしり、最期をなげき、あゆんできた軌跡をたたえている。ゆっくりと書庫のなかを見わたして、義輝はほほえむのだ。

「私はきっと、彼にとってのこの未来をしるために、こちらの世界にきたのだわ」

 ときのながれというのは、本当に。本当に、偉大なものだ。石舟斎は思わずその場にひざまずく。きっと義輝はおどろいているだろうがかまいはしない。ただ、敬意を表したかった、足利義輝という方のそばにいまいられることを、しあわせに思った。

「……むかしの義輝さまならば、わめいてくやしがっているところだったでしょうね」
「だから、むかしの話はよしてと言っているでしょう」

 いつのまにか本をしまった義輝が、しゃがみこんで石舟斎の顔をのぞきこむ。

「それにね、もしこちらの私が悲願をとげていたとして、私はきっとそれこそくやしくてないていたわ。だから、私がむこうにもどって彼のかわりに将軍家の威光をとりもどしたって、彼もくやしいだけにちがいありません」
「……ごもっともです」

 思わず笑うと、義輝も声をあげて笑った。だから私は、こちらの世界でいきていくの、私のしらない足利義輝のためじゃない、私自身のために、あなたといっしょにいきていくってきめたの。義輝の指先がのびてきて、石舟斎のほほをなでる。ありがとう、誇りに思います。そんな思いをこめて、彼女はその手をとって、ぎゅっとにぎった。
13.02.04 ながれゆく川のほとり
あの屋敷が足利氏ゆかりのうんぬんはもちろんねつ造です