「あのですね、もうああいうのはよしていただきたいのですが」
「ああいうのって?」
わかりやすくとぼけられたが、石舟斎は脱力したからだを椅子の背もたれにあずける気にはならなかった。勤め先の学校の近くにあるとある喫茶店は外観も内装もふるめかしく、ひとどおりのおおいとおりの一角にもかかわらず、なんとなく目につきにくい店だった。つまり客は彼女とその連れ、すなわち久秀しかおらず、それがかえって石舟斎の居心地をわるくさせていた。
「学校の校門のまえでまちぶせているような、そういうことです」
「まちぶせだなんて人聞きがわるいわね」
せっかくあいにきたのに。おそろしくしおらしいことを言ってのけた久秀に、石舟斎は背筋をぞくりとさせる。コーヒーをすするふりをして顔をふせ、にこにこ機嫌よさそうに目をほそめている彼女を上目づかいで観察する。そして先日の失態を思いだした。偶然街ででくわしてしまったことは百歩ゆずってよしとしよう、顔をあわせるのはあちらの世界にいたころ以来だから多少のなつかしさもあった。しかし、問題はそのさきだ。すっかり気がぬけていたことは否めない、こちらの世界はのほほんとしすぎている。石舟斎はあまりに無防備に、かんがえなしにたずねられるまま自分の個人情報を公開してしまった。勤め先から現住所まで、あのへんの学校に、あのあたりのアパートに、といった具合のこまかくはない説明でも、久秀にとっては充分すぎる返事だったというわけだ。
「しかし、こんなところで学校の先生をしているなんてね。私のすんでるところのちかくよ」
「はあ……そうですか」
はたしてどこまで本当なのか。散々ききだしておいて自分の情報は一切もらさない。あいかわらずだと、石舟斎は一瞬むかしにもどったかのような気持ちになった。それが心地よい感覚かは、さておかせてほしい。
「それにしても、一家臣にすぎぬ私にわざわざあいにきてくださるとは光栄の至りです」
「うん、まあね。しばらくはやることがないから、時間があるのよね」
とどのつまりは暇つぶしだろう。やることがない、というのはおそらくは適切な表現ではない。なにかしらの理由があって、たいしたことをする時期ではない、とかだいたいそういうところだろう。石舟斎は適当に推測して、テーブルにそなえつけてある角砂糖のはいった容器を意味なく指先でもてあそんでいる久秀を見た。
「どうやらこちらの世界でも悪行三昧してらっしゃるようですね。雲隠れ中といったところですか?」
「あら」
久秀がとぼけた声をあげる。それからいよいよ容器のふたをあけ、石舟斎にさしだした。
「そういえばあなた、コーヒーに砂糖はいれたの?」
「いえ、私はブラック派なので」
「ふうん、そう」
さてと、いまのリアクションが図星をつかれたのをごまかすためのものかといえばそうとも言いきれない。このくえない人物がそんな定石どおりの反応をするわけがないのだ。なにがなくとも曖昧にことばをにごすようなやりかたをするのだ。石舟斎は、久秀と話をするとき裏の裏までよもうとしていつも失敗してきた。そういった経験から得たのは、松永久秀の相手はまともにしてはいけない、という簡潔ながら実践するにはなんとも難儀な教訓だった。当面の問題は、むこうの暇つぶしに便利につかわれてしまいかねぬこと。それの回避にのみ注力すべきだ。
ひょいひょいとふたつほどの砂糖のかたまりを自分のぶんのカップにいれながら、久秀はあいもかわらぬ上機嫌な顔でほおづえをついていた。石舟斎は、もうこれ以上自分からは口をあけないことにした。
「それにしても、ねえ石舟斎。こっちにとばされてからも剣術をおしえているだなんて、さすがというかなんというか。教師の収入なんてたいしたことないでしょう? もっとやりようはなかったの?」
「私はやりがいのある仕事だと思っていますが。食うにこまらぬ程度の稼ぎはありますし」
「そうね……あなたはむかしからそうだったっけ。根が真面目というか、冒険はしない主義なのよね。堅気とは到底思えないその面構えからは想像できないくらい」
「目つきのわるさはおたがいさまでしょう。まあ、あなたの場合わるいのは目つきだけではないでしょうけど」
「あら、失礼ね。これでもよき主君たろうと努力をおしんでこなかったつもりだけど?」
「……。そうですね、あなたがそうおっしゃるのなら、そうなんでしょうね」
石舟斎の曖昧な返事に、久秀はくっくと笑った。そう、悪名高く、先程から石舟斎に散々な評をくだされていた久秀は、しかしながら尊敬すべき主君でもあったのだ。教養人であり、善政で民衆をみごとにまとめていた。領地をおさめるすぐれた主君、目的をはたすためなら手段をえらばす他をけおとす外道、はたして彼女の本質はどこにあるのか。
(かんがえるだけ野暮な話ね)
つまりは、両方が松永久秀そのひとなのだ。相反する実像は錯綜をまねく。つかみどころのなさと底の見えなさはあぶない魅力となっていた。なんだかんだと先程から文句をならべたててきたが、それは結局のところ彼女を客観視するための努力にすぎない。冷静でいないと、とってくわれかねないなにかがある。まったく、と石舟斎は息をつく。かのひとは面倒な相手に目をつけられたものだ。そう、当面の問題は、むこうの暇つぶしに便利につかわれてしまいかねぬこと。それを回避することがもっとも重要なのだ。そしてこの暇つぶしには、石舟斎だけでは役者不足。となれば。
などと、ある人物のことをかんがえたのがわるかったらしい。
「でもさ、その真面目で博打をうたない堅実主義者のあんたが、まさか将軍さまに手をだすなんてね」
「……」
ちょうど顔を思いうかべていたひとについて言及され、石舟斎はかるく血の気がひくのを感じた。とはいえ、ついにきたか、といったところだ。おそらく本日の本題はこれだ。まったくもって、やっていられなかった。
先日。はじめてこちらの世界で顔をあわせたとき。あの場にいたのはこの二名だけではない、石舟斎には連れがいた。こちらにきてからいろいろあって、いまでもいろいろある仲の、足利義輝。彼女と久秀は、きけばふかい因縁のある間柄だった。義輝はあのとき、平然と声をかけてきた彼女を見るや、茫然自失と言ったふうにかたまっていた。そもそも石舟斎は、気がぬけていたのもたしかだが、あきらかにようすのおかしい義輝に気をとられ、頭をはたらかせる間もなく久秀の口車にのせられたのだ。自分の用件がすんだところでさっさとたちさった彼女の背中を見おくって、ちょうどそれくらいに義輝は我にかえっていた。それからの彼女はしばらくのあいだ随分すさんでしまって、口をきくことすら億劫がった。
「……。手なんてだしていませんけど」
「え、まだやってないの?」
「そういう即物的な言いかたやめてもらえます?!」
ぶしつけな言いかたについつい声をあらげたところで、石舟斎は咳払いをして気をとりなおす。そして、そもそもときりだした。
「そもそも、手をだしたというならば」
しかし、それ以上は言う気になれなかった。久秀は、彼女のことばのつづきをすっかりおしはかった顔ですっと笑った。
久秀は将軍の暗殺をくわだてた。そして、その相手のまえに平然とあらわれ、それどころかまるで眼中にすらないような顔でとなりの人物にばかり話しかけた。その行為が義輝のいろんなものをふかくふかく傷つけたことは火を見るよりあきらかだ。まったく、やってくれる。石舟斎が義輝から今後一切やつにはかかわるなと言いつけられたことは言うまでもないことだった。
(ひょっとして、全部計算ずくで偶然のふりして声をかけてきたんじゃないかしら)
否定しがたい憶測がたち、石舟斎は思いっきり肩をすくめたい気分になる。やはり、まともに相手をしてはいけない人物なのだ。義輝さまにも、ぜひそのことをわかっていただきたいものだわ。
などと余裕ぶっていたところで、かばんのなかの携帯電話がなりひびいた。正直、心臓が口からとびだすかと思った。ああ、なんと間のわるい。というか、なまじ勘がするどいのがわるい。だれの話かといえば、もちろん確認するまでもなくわかってしまう着信の相手である。石舟斎は冷や汗がながれるのを感じつつ、顔色のよめぬ眼光ばかりが鋭い久秀を見た。
「携帯電話なんて、すっかりこっちの世界にかぶれてるわね」
「はあ、まあ」
「ところで、でないの?」
「……」
「じゃあ私がでようか」
「勘弁してください」
思わず間髪いれぬ拒絶をしてしまったところで、久秀はころころたのしそうに笑う。いかがすべきか、いまは電話にでることも、でないことも最良の策ではない。ならば、比較的被害がすくなくすむであろうほうをとるべきだ。ふたりのあいだには沈黙、それをごまかすようにしばらくなりひびく着信音。それがとぎれるころには、石舟斎は精魂つきはてていた。
「ふ、ほかの女とお茶をしてるだけのことすらばれちゃいけないの。嫉妬深くてわがままな子猫ちゃんだこと」
「子猫程度ならどれほどかわいらしいか……」
「あははは!」
笑いごとではない、だんじてそれどころではない。ただの嫉妬ならばどれだけいいか。いっしょにいるのが久秀という場合にかぎり事態はどこまでも複雑になる。わかっているくせにふざけたことをぬかしてくれるものだ、このお館さまは。そもそも、やきもちをやいたときのかのひとは、……。ふと思考がへんなところにとんでいった石舟斎の口元が、一瞬ひくりとつりあがる。もちろんそれを見のがす久秀ではなかった。
「あ、やらしい。思いだし笑い」
「なっ、べつに笑ってませんけど」
にやにやしながら指をさされ、石舟斎はみごとに動揺した。そのようすをじっくり観察され、石舟斎はごまかすように顔をしかめてコーヒーをすするしかない。ふうん、まあ、武士の情けでそういうことにしといてあげる。久秀はどうやらそこでやっとあそびつくした気分になったらしい。たちあがり、伝票を手にとる。つられて見あげた石舟斎は、とりつくろう余裕もなくほっとした。が、彼女の言いのこしたことばは、あまりに予想どおりで、どこまでも彼女を落胆させる。ここ、いい店ね。気にいったわ。またつきあいなさい。
「……」
久秀が颯爽とたちさり、すっかりかげもかたちもなくなってから、石舟斎はやっとはいと返事をした。
(やってられないわ)
つかれきった背中をすすけさせながら、石舟斎はひとり家路についていた。そして、なんども着信をつげる携帯電話をもてあましていた。しつこくてしかたがない、そうだ、そういうひとなのだ、あの方は。ぼんやりどうでもいいことをかんがえて電話にでないままでいるのは、本当に些末なわがままだ。
本当に電話にでなかった理由は、あうなと言われていた久秀とふたりでいたからではない、もし久秀の居場所がわかれば、義輝はとんでくるだろうと思ったからだ。ひとにはかかわるなと命令しておいて、彼女自身は幾度となくやつとの再会をのぞんだ。つぎにあったときは覚悟していなさいと、かわりとばかりに石舟斎にやつあたりをした。なんてむなしくものがなしい日々だろう。嫉妬深くわがままなのはいったいだれの話だったろうか。
義輝をまだまだどうにでもする気の久秀と、常々久秀にうらみをつのらせる義輝。どちらの思惑も、阻害すべきだ。それは両人のためであり、しかしなにより、自分自身のためだった。ふたりはだれもはいりこめないような間柄にある。そのくせ、あいだにたつものを用意している。
(蚊帳のそとのはずの私が中継役だなんて、おもしろくないにもほどがあるったら)
とにかく、と、彼女は手のなかの携帯電話を見おろした。この程度のしかえしはかわいいものだろう。すくなくともつぎにあうときの義輝は、眉をつりあげ唇をへの字にして、全身で不機嫌をうったえてくるにちがいない。かわいげのない顔は容易に想像でき、それでいてどこまでもあいらしい。なぜならそれは、電話にでなかった石舟斎への、純然たる怒りと不満なのだ。彼女が腹をたてるのは、うらみをつのらせるのは、全部この石舟斎にたいしてのみであるべきた。そういうくだらぬことをかんがえながら、なんとなく笑いながら、彼女は携帯電話の電源をきることにした。
12.09.26