ノックというやつは、案外だいじなものらしい。土方はそういうことをかんがえながら、おしあけたドアのノブをにぎる手をもてあましていた。
「トシってけっこう形からはいるよねー」
夕暮れどきの河川敷は、黄昏れるのにもってこいだった。それにふさわしきしょぼくれた背中に、哀愁をただよわせた横顔。芝生のしかれたゆるやかな傾斜に腰かけながら、彼女は夕日をきらきら反射させる川面を観察していた。
「かっちゃんには負ける」
「うそうそ、あたしは本質を大事にする女よ」
にこにこ笑う近藤が、つめたい缶コーヒーをぷらぷらさせて土方の顔を右肩のうそろのほうからのぞきこむ。となりいい? ことわらせる気のない問いがあり、回答する間もなくふわりと肩にやわらかな髪がふれた。それと同時にかかえたひざと胸のあいだにうけとる気のなかった缶がほうりこまれた。
「お礼はいいわよ」
おしつけておいてよく言う、と思ったが、土方はありがとうと言った。となりのひとは、すこし息をついた。
「きょうの晩ごはんなにかしらね」
「しらない」
「きのうは肉だったからきょうは魚かな」
「どうでもいい」
ちいさな音をたてて、近藤が自分のぶんの缶コーヒーのプルタブをあけた。泣くなよトシー。そのつぎにひびいた気のない声は、先程からぽたぽたおちつづけている涙をとめることはできなかった。
「かっちゃんなんてきらいだ」
「あ、あたしそれしってるー。やつあたりってやつだー」
土方の二の腕のあたりをつんつんしながら、彼女はけらけら笑った。
つい一刻ほどまえのことだ。とある女子寮の一室、ひとをさがしていた土方は、まったくもって不用意に後輩の部屋のドアをおしあけた。総司、かっちゃんどこにいったかしらないか。その瞬間に、たずねびとの行方はしれた。整頓されきった質素なそこ、悪ふざけがだいすきな先輩方にいろいろなものをもちこまれているわりに、いつも整然としているところだった。
(あ、トシ)
あっけらかんとした近藤は、なにごともなかったかのようにひょいと手をあげる。けれどそんなものは目にはいらなかった。唖然としていた。おどろくべき光景だった。
(ごめん総司、あたしがころんだのにひっぱりこんじゃった)
さも、不慮の事故がまねいた現状とでも言いたげなことば、病弱なあの子がよく寝こんでいるベッドに背中をうずめているのは、きょうにかぎって別人だった。そして、そのうえにおおいかぶさっている人物こそが、呆然とまねかれざる客を見つめかえしているやつこそが、本来のベッドの常連さん。
呆然としていたなあ、とぼんやりと思いかえす。あれは、自分がたいそうなことをしてしまったと我にかえったからなのか、そのことを完全になかったことにするようなことを意中のひとが言ったからなのか、それとも間のわるい訪問者があらわれたからなのか。なんだかうすぼんやりとした空気のなか、軽々しく真上の肩をおして平然と総司のしたからぬけだす近藤は、彼女だけは本当にいつもの彼女のままだった。
「かっちゃんのばか」
「だからあれはあたしがころんで、ついつい総司のことひっぱってまきこんじゃっただけなんだってば」
「……かっちゃんのくせに、なんでそんなうそくさいうそつくんだ」
いつもみたいに、口八丁のたくみな法螺をふいてごまかしてくれればいいのに。総司がこの寮長に思いをよせていることはしっていたし、あの生真面目な後輩が思いつめてはなにをしでかすかはわかったものではないと思っていた。あのときの総司、たぶんちょっとないてたな。かっちゃんにすきって言ったのかな、それでなんて言われたのかな。土方はひっそりかんがえて、自分のほうこそぼろぼろないた。
「あんたはいい年になっても泣き虫ねえ」
「……泣き虫な女子高生なんてかわいらしくていいじゃないか」
「あっはははは!」
そりゃあちげーねえ。心底たのしげに言って、近藤はくいっと缶をあおった。のみにでもいきたーい。それから全然女子高生らしからぬことを言って、力強く土方の肩をだいた。
「川に夕日が反射してきれいね」
「うん」
「でもさ、きらきらひかってるあんたの涙もなかなかのもんよ」
総司のまえでもそういう顔すればいいのに。そんなかっこわるい真似ができるか。ぼそぼそ秘密の話をして、土方はやっと頬をぬぐった。すこしだけ涙がひっこんだ気がした。その勢いのまま、土方はぐっとたちあがる。
「もどるの?」
「私はもどるけど、かっちゃんはもどらなくていい」
「なにそれ」
「いっしょにいったら、総司がへんな誤解をするかもしれない」
「あーははは。はいはい」
「……それに」
私がこんな顔をできるのはかっちゃんのまえくらいなんだよ。かしゅっ、となんだかさわやかな音をたて、土方がコーヒーの封をあける。そっと見あげると、彼女はまた水面をながめていて、その目はやっぱりきらきらしていた。
「……あーあ」
ひとりとりのこされて息をつき、これ以上かっちゃんといると泣き言ばかりで副寮長の沽券にかかわるからな、などとぬかしていた彼女を思う。散々なさけないべそをかいておいていまさらにもほどがある話だ。それでもさり際、ところで私がにがいのだめだってわかっててブラックかってきたのか、なんて近藤のたわむれに不平を言う程度には回復していてよかった。あーあ、とまたため息がひとつ。私がこんな顔をできるのは。ついさっき頂戴したまっすぐでいつわりないことばを反芻する。
「うれしいことを言ってくれちゃってさ」
ぼそりとつぶやいて、近藤はじっとまえを見ていた。先程までの土方みたいに、物思いにふけるのにうってつけのロケーションで黄昏れて、ひざをかかえてちいさくなってみた。
「結局はあたしも、トシの言うとおり形からはいるタイプってか」
ほとんど中身のなくなった缶をゆらしてみると、ちゃぷちゃぷかわいい音がした。こんなのではぐずぐずべそをかいているのはごまかせないので、彼女はちょっとだけこまってしまった。
12.10.15