「ナディはすなおだね」

 うでのなかでエリスがつぶやいた。あたしはさきほどの行動をかえりみて、それはつまり自分の欲望に忠実であるという揶揄かと思ったけど、この子がそんな言いまわしをできないことくらいしっている。

「そうかな、けっこうひねくれてるつもりなんだけど」

 真意がはかりかねたから、こっちもごまかすことばをえらんだ。だけどそういう小細工がエリスにきかないことだってあたしは充分にしっていた。あたしの胸に背をあずけて、エリスはしずかに目をとじる。おなかのまえにまわっているあたしのうでにはエリスのてのひらがふれていた。こうしているとほんとうに気持ちいい。あたたかくてなにもない。ぼんやりしていると、エリスがあたしの皮膚に爪をたてた。なにもなかったはずのところに、なにかがおちた。

「いたい」
「……」
「こら」

 耳元に、わざとあつい息をはらませた声をかけるとエリスはすこしだけ肩をすくませて、それからやだという声と手がのびてきてぐいとあごをおされた。無理な方向に首がまがってまたいたい。なにすんだ。

「あと、ついちゃった」
「そりゃああんだけおせばね」

 エリスの手が腕をもちあげて、肩にあごをのせるあたしの目前にもってきた。たったひとつの、ささやかなみじかい曲線。エリスの爪のあと。よく見えて、だけどとてもぼんやりとしている。いたかったよとっても。そう言えばエリスがあんまり自然にそこにくちびるをよせたので呆気にとられた。

「……恋のかけひきを」
「え」

 こんどは歯がふれた。気持ちいいのをとおりすぎないぎりぎりの加減で、やわらかく白い歯がくいこんだ。言いかけたエリスは、もうつづきを言う気はないみたい。

「むずかしいことばしってるじゃない」

 エリスはとても読書家だから、おまけにとてもかしこいから、きっといつかあたしの手にはおえなくなるんじゃないかと思う。すなおなのはエリスのほうなのよ、と、あたしは伝えようにもすこしだけ空気によってしまった。

「わたしはナディがすきで、ナディもそうだから、それでおわっちゃったの」

 やっぱりそうだった。あたしはとてもがんばったけど、エリスにはそれはとても自然なことだった。もうとっくに手におえないどころかかなわない。首筋にふれるやわらかい髪がやんわりとこころのおくまで侵食していって、あたしはただ、とおい未来にエリスがそれを自覚することを夢想していた。
08.06.29 しらないこと