キスをするんだと、恋人がするみたいなやつを思いだしたようにたまに、と、そう言ったらリカルドはしぶい顔をしてだまっていた。酒のいきおいでよけいなことをしゃべっている自覚はあったけど、おじさんのくせにかわいい反応をするのが笑えたせいでつい口がかるくなる。
「……エリスは」
「もうねてる。リリオも?」
「ああ」
たちよった町でまた偶然あった。めずらしく宿をとっていたらそこも偶然いっしょだった。ちょっとした愚痴をはきだすのにちょうどいいと思ったのかもしれない。エリスに気づかれないようにリカルドを酒にさそった。いやちがうね、愚痴なんかじゃない、これは。
「べつにつきあってるとかじゃないはず、なんだけど」
「……」
「キスもするし、もしかしたらそれ以上も」
おかしいかな、これって。疑問形にしてみても、リカルドはあいかわらずだまっている。おもしろかったので、あんたが相談にのってくれないならもうちょっと成長してからリリオに意見をきいてみようかしら、と言ったらやめろとすごい顔でどなられた。このおっさんにそだてられて、リリオがそっち方面にいい子にそだつかは五分五分だなあとなんとなく思った。
エリスにキスをねだられたのがさいしょ。ついかるい気持ちでしてしまってからいろいろまずいことになった。ほんのジョークのつもりだったし、たぶんむこうもそうなんだろうと思っていた。だからきっとびっくりした顔がかえってくると思った。だけど、実際のエリスははずかしそうに頬をそめたのだった。それがすごくかわいかったとか、こっちもつられててれたとか、そんなことは断じてない、はずなんだけど。
そう、おもしろおかしく語ってみせたわりに、事態はじつに深刻なのだ。
「……ナディ」
へやにもどれば、エリスはねむってなんていなかった。起きてたの、と言ったらおもしろくなさそうな顔がうなずいた。いやな展開だなと思った。じつは最近それが建前だと気づいてきているのがいちばんいやな展開なんだということは秘密だ。
「せっかくのひさびさのベッドなんだから、さっさとねなよ」
「ナディ」
ぬいだポンチョをベッドのわきの椅子にかけていると、名をよばれた。ぎくりとしてふりかえると、んー、と、そこには見まごうことなきキスまち顔があるのだった。はは、とかわいた笑いがもれそうになるのをこらえて、あたしは一瞬だけエリスのうすい唇に自分のをかさねた。このままじゃだめだってことくらいわかってるのにと思う。
「……」
やった、とエリスが笑うので、あたしもんふふとひくい声で笑うことにした。
気まぐれで舌をいれたことがある。そしたらエリスは、欠片の悪気もなく気持ちわるいと言ったのだ。たしかに自分の口内に他人の舌が侵入するわけだから、よくかんがえなくても不気味な行為ではある。が、それがけっこうきらいでないあたしからしてみればすこし不満というかなんというか、とどのつまり傷ついた。ショックだったね、それはもう。なにいまの、と口元を手でおおいながらぼんやりした顔でつぶやいたエリスを、あたしはどうやらしばらくわすれられそうにない。
「はい、んじゃねましょうね」
「はあい」
あかりを消してベッドにはいる。ひとつのベッドにふたりで寝ころがり、必要以上に密着する。あれから、あんなことを言ったくせに、エリスはこないだのやつもういっかいして、などとかるく言ってのけてくれるのだ。そういうことだ。あたしはそれはもう、ものの見事にふりまわされているんだから。
「……す」
すきだって言えば、いろいろ解決するんだろうか。すでに寝息をたてているとなりのひとをながめながら、あたしは途方にくれてみた。おかしいのは、気持ちをつたえあったわけでもないのにこんなことをしていることだ。愛の形にはいろいろあるけど、あたしたちのはちゃんとことばでしめさないといけない気がする。あいまいすぎるのだ、ぜんぶ。
朝はさっさときてしまう。チェックアウトをすませて宿をでると、リカルド御一行とでくわした。あちらさんもどうやら出発らしかった。エリスにじゃれつく少女のとなりにたつ男ににこりと笑いかけると、きのうとおなじしぶい顔をされた。おもしろくてしょうがない。
「いくよ、エリス」
車にのりこんで、見送りをしてくれているふたりに手をふろうとしたところで、エリスがあたしの服のそでをひいた。え、と思ってふりむくと、またエリスが目をとじていた。こらこらこら、と思うほかない。視界のはしに一瞬見えたリカルドは、ひきつった顔でたっていた。
「え、エリ……」
「ん」
いつもはまってるはずのエリスが、きょうばっかりはとびついてきた。ぴったり唇をあわせて、数秒してからやっとはなれた。あたしは不覚にもなごりおしさを感じて、一瞬だけその唇をなめあげた。きょうのところはほんとうに、必死でリリオからあたしたちをかくしてるリカルトが爆笑ものだったってことだけがすくいなのだった。
「エリスー。あんたさあ……」
荒野をはしる赤い車体。エンジンの調子がどうにもわるいのはたぶんあたしのかんちがい。一体全体なんなんだろう。キスをねだってみたり気持ちわるいと言ってみたり、けっきょくのところあたしはエリスの思うことをまったくひとつとして予測できないのだ。だから実際、エリスがいつもしてることがあたしにとってどういう意味をもってるかをわかっているかも微妙なところなわけで。容易に想像できる、ながされるままいろいろやりそうになってまた勝手に傷つく未来の自分がかわいそうでしようがないわけで。
「なあに、ナディ」
「……いいえ、なんでも」
であったころと、そればっかりはかわらないねむそうな目元がながれる景色をおっている。それをながし見ながら、エリスからちゃんと言ってくれればいいのに、と、どうしようもない根性なしはぼんやりとねがうのだった。
08.06.22 ルール