妙な関係だ、とずっと思っていた。やつの笑い方はいつだってかわらない。これからもだ、これからもずっと、妙な関係だと思いつづけるにちがいない。そんなかすかな確信が、胸の奥底に沈殿している。
ぎしとベッドがなり、一瞬とんでいた意識がひきもどされる。かち、という音。ベッドのわきのテーブルのうえの、ちいさな照明がつけられた音。ぼんやりとむけた視線のさきには、私から光をさえぎる背中があった。ライトのとなりの透明なボトル、あんたものむかい、とこちらを見もしないで声をかけられてやっと、これがシャーロットの背中なんだと思いあたった。
「ああ」
思考回路の接続がどうにもとぎれがちらしい。なかなかすっきりとしてくれない。私のみじかいことばにあちらも了解というひとことで返事をすませ、ならんだコップに水をついだ。なにからも隠されずにさらされたなめらかな背筋、それにあかるい色のやわらかそうな髪がかかり、すこしだけ見とれそうだと思う。
「のみたかったらからだおこしなよ」
一足さきにコップに口をつけながら、シャーロットが私にもうひとつをさしだしている。そうだ、おきなくては。そう思うのに、からだはベッドにふかくしずんだまま。ああ、と思わずため息をつくと笑われた。
「あんた、おわったらすぐねむくなるもんね」
たのしげに言われて、だけどふしぎな感じがする。あいかわらず光源はシャーロットのむこうがわにあるのだ。逆光のなかのやつの表情はよめようもなく、じりじりと、胸がやけつく。これは不安だ、唐突な動揺だ。そう思う反面ではげしくそれを否定した。なにをおびえることがある、やつのなにもかもが見えなくてぼやけていて曖昧なのは、いまにはじまったことじゃないだろう。
「……なあ」
「うん?」
妙な話だ。笑ってないでおこしてくれと、そんな頼みごともできそうにない。シャーロットはよく笑う、いつだって笑っていて、私はこいつがなにを考えているのかわかった試しがないのだ。
おやすみ、いい夢を。やつらしい、つまりはリベリオン人らしいブリタニア語の発音でもって気障たらしくシャーロットはドアノブに手をかけながらささやき、いつも朝になるまえに私の部屋からでていった。ひらりと手をふり私に返事をする間もあたえずに、ありえないほどにあっさりとドアを閉めてしまうのだ。あたしのこれはね、リベリオン語のつもりなんだけど。ブリタニア人の話し方よりも、まろやかだろう? 昔にそんなことを言われて、残念ながら私にとってはブリタニア語でもリベリオン語でも、ただの同じ言語にしかきこえないよ、と正直にこたえてつまらなそうな顔をされたことがあった。ところがどうだ、いまじゃあこんなに自然にやつらしい発音だなんてことばが思いうかんでしまう。これがいったいなにを意味しているか。考えるのもいやな事柄だった。
それはすれ違いざまだったり、横を追いこしていく瞬間だったりした。ただ時刻が書かれただけの、それ以外は真っ白なちいさなメモを、やつの手が私の手ににぎらせる。だれにもばれないようにと、まるで秘め事のごっこ遊びだ。これはやつからの誘いで、私に断るすべはない。手渡すときシャーロットはどんな顔をしているのか。こどもみたいなふたりだけの約束、やつはこんなことがたのしいのだろうか。
「トゥルーデ、なにそれ」
「べつに、なんでも」
だけど私自身も、フラウあたりにそれが見られそうになれば必死ともとれるほどに隠した。握りつぶしてポケットにおしこみ、秘密を死守する。もしかしたらたのしんでいるのは私なのかもしれない。納得できる気のしない事実。
そんな日の夜は、書かれたとおりの時間にやつが私の部屋をおとずれた。はやくもないしおくれもしない、ぴったりな訪問はじつにシャーロットらしさを欠いていた。そこからもまたやつの遊び心が垣間見られてなんとも複雑な気分になる。時間を守る誠実さがふざけた行為に見えるなんて、私たちのなんと歪んでいることだろう。
やることと言えば寝ることくらいだ。すなわちこのメモのきれはしの数だけ私はやつと肌をあわせた、……いや、正確にはそれには枚数がひとつたりない、最初の一度は、多分ただの過ちだった。
「あんたって、髪おろすと別人みたい」
あたし以外には、もう見せちゃやあよ。ふざけた口調の甘い台詞が軽々しく、いくつもやつの口からは飛びだしてくる。だけどそれはベッドのうえでだけの話だ。普段は話をするほうでもない、ふいに顔をあわせることがあればくだらない言いあいをする程度。あいかわらず仲がいいのね、とミーナに微笑まれて、そのすぐあとにはそんな顔をしないでと苦笑されたことがあった。私がどんな顔をしていたかは見当もつかないし、ミーナがいったいどうやってそんな評価をくだしたのかもわからない。普段の我々は他人だった。そのはずだ。
机のいちばんうえの引き出しのなかにたまっていくメモの束。あつめたくてあつめているわけではない、最初の数枚の処分にこまっていると、いつのまにかどんどんとふえていっただけの話だ。くしゃくしゃにまるめてしまったものは丁寧にしわをのばし、クリップで束ねて引き出しの奥へ隠す。習慣になりつつあるこの行動に、私は私にあきれてみせることしかできなかった。
唐突に気配がうごいてぎくりとする。回想は強制終了。ぼやけた背中のラインがゆっくりとゆれていた。床にちらばったふたり分の衣服を足でかきわけて、シャーロットは自分のものをさがしあてる。もう自室へと帰る気らしい。影がかがみ、そのせいで遮るもののなくなった光が私を直接的に刺激した。照明のとなりには、水がはいったボトルと、空になったコップにもうひとつは並々とつがれたまま。
あんたって、髪おろすと別人みたい。シャーロットが言ったこと。そのなかで、この台詞がいちばん記憶にのこっている。理由はわからない。かの姿をほかの人間に見せることを禁止されて、私はひそかに、確かにそれを守っていた。
「ここで寝ればいいだろう」
きっぱりとした発音。シャーロットの、きれいな髪がゆれる。ゆっくりとふりむいた。ぞくりとする、私はなにを言っているんだ。いままで言わなかった、ちがう、言いたくてしかたがなくて、それでも言えなかった台詞だ。やはり思考回路がショートしているらしい。危険な誘い。断られたら私はどうなる、ひょっとしたらたちなおれなくなってしまうのではなかろうか。
シャーロットはいつも笑っていたし、それは余裕ぶった本当の余裕だった。私の部屋にいるときだってかわらない表情で、きっと私はそれがとてもおもしろくなかった。だってそれって、私はべつに特別じゃないってことだろう? 自分に問いかけて、だから、ふりむくシャーロットの表情が、信じられなかった。
「いいの?」
まるでずっとほしかったおもちゃを、かってあげると言ってもらえたこどものような、上擦った声。いつもは気だるげにおちかけている瞼はおどろきでおおきくひらかれて、しきりに瞬きをくりかえしていた。だれだ、これは。私はたぶん、シャーロット以上に動揺していた。
「……だめなんて言った覚えはない」
かんがえるまえにことばがでてくる。掛け値なしの本音で、下手をしたら、でていってほしくないとすら思っていたはずだ。やつはまだ瞬きをくりかえしている。これは夢?とでも言いだしそうなほど、シャーロットは呆然としている。それこそまるで夢だった。重いからだをもちあげて、それからやつと視線の高さをおなじにする。状況がよめないな、そうささやけば、シャーロットは目をそらした。
「だって、うざったいって思われたりしたら、いやだった」
「なんの話だ」
「……あんた、そっけないんだもん」
いつだってあたしが誘う側だったし、普段だって夜のことなんてないみたいに他人の顔をして、……あんたがただ遊んでるだけだってことくらいわかってるんだ。最初のいっかいなんて、あんたにとっちゃただの勢いだけのまちがいだったんだろ、だからせめて、邪魔がられるのだけは。うつむいたままぼそぼそと、普段の軽快さをおしかくしたつぶやきがこぼれていく。
「ちゃんとドアはあけてくれるから、それだけでいいって思ってたんだ」
なくか、と思われるほど、シャーロットは声をちいさくする。私は呆然として、つぎにはどくどくと心臓がなっていることを自覚する。ああ、と、声がでそうになってなんとかこらえた。それから体温があがって、それなのに頭の真ん中はすっとさえていくんだ。ばかみたいだった、シャーロットの言っていることは、全部全部、こっちの台詞だった。
「……もういやだ、ないちゃいたいよ」
シャーロットが私に背をむけて、それでも着替えをはじめるようすはない。あいかわらず背筋はきれいにながれていて、ただ、頼りなげに呼吸のたびに上下している。
「なんだよ、ずいぶんとなさけないことを言うな。いつもの、ひとを小ばかにした笑い方はどうした」
「ちぇっ、言わせたいの? かっこつけてるだけじゃないか、いつだって」
大人ぶってとりつくろって、それであんたにすがってるんじゃないか。飄々とした軍人はきえた、知らない少女が目のまえにいる。シャーロットが力のかぎりで守りとおしてきた仮面がはがれていくのだ。私はこみあげる興奮をなんとかおさえて、シャーロットのいれてくれた水を手にとった。ゆっくりとながしこむ。はやくこの心臓がおさまってくれればいい、そうしないと、死んでしまいそうだった。
「しらなかったよ、シャーロット。君がそんなにかわいい顔をするなんて」
紳士ぶった口調をつくれば、やつはくやしそうに唇をかんですねた顔で私をにらんでからすぐにまたうつむく。どうしたことか、このふてぶてしい女が、いま私のてのひらのうえでころころと転がされている。いままでは自分だって目のまえの人物のことで散々なやんでいたのに、ということはすっかりと棚にあげてしまい、私はつかの間の優越感にひたることにする。思わずははと声をあげて笑うと、シャーロットはやっと顔をあげた。
「……あんたのそんなうれしそうな顔、はじめてみた」
なにをよろこんでるのかは知らないけどね。そう言ってやつも、ふふと笑う。シャーロットはよく笑う、だけどきょうのこればかりは、いつもとちがって感じられた。その予想はきっと間違いない。だってこの私が、こんなにうれしいんだから。
くくく、とひとしきり笑ったあと、さてと、つぎはきっとこちらのばんだ。シャーロットがこんなにさらしてくれたのだから、私もじつのところを告白しないとフェアじゃない、そうだろう?
「おい」
「……なに」
「いっしょに寝るんだろう? だったら、こっちにきたらどうだ」
なにから話してやればいい、思った以上に、私はこいつに言いたいことがたくさんあるらしい。絶対言いたくないはずのことだって、いまのこいつになら言ってやりたい気になった。しまったな、気がおおきくなっている。きっとそのうち後悔して、いつかにはきょうの饒舌っぷりをからかわれてしまうんだ。
妙な関係だと思っていた。それはこれからもずっと。だけどすこしかわってしまったのは、これがとてもしあわせに感じられるようになってしまったこと。
「……おやすみ、いい夢を」
やつのなごやかなリベリオン語を、私はきょうから、耳元でささやかれることになるのだ。