真面目にやりましょう、ね? エルマはこのアルバイトをはじめたころの、とても真剣だった自分を思いだしていた。勉強机につきながら、この女の子のしていることといえば携帯ゲームにちがいないのだ。彼女はそのとなりで椅子に腰かけながら、時計を観察していた。

「ともだちがさー」
「は、はい」

 アルバイトというのは家庭教師で、女の子というのはうけもちの生徒のこと。そしてこの子のなまえはエイラといって、中学生のくせにひどくおとなびたところのある、すこしだけあつかいにくいと思ってしまう少女だった。

「ともだちもさあ、家庭教師してんだけど。そいつ先生に言われたんだって。カテキョするくらいなら塾いったほうがいいよ、真面目にやる気ある大学生のバイトなんてほぼいないって言ってまちがいないもん。って。あはは、そのとおりだな」

 うわしんだ。手元をのぞきこんだまま、エイラは生意気な口をきいた。しかしエルマはといえば、それに反論もできずに肩をちぢこませることしかできない。だって確かに、エルマはこの不真面目な生徒の更生を早々にあきらめてしまっていたのだ。それというのも、彼女がたいへんに優秀な子であるから。これをやってごらん、つぎはこちら、と問題をあたえてみても、エルマのおしえるひまもなくすべてすらすらとといてしまう。親がやれっていうからやってるだけだよ、ちぇ、めんどくさいよなあ。そう愚痴をこぼすそのとおりに、彼女には金をつかってひとを雇ってまで勉強をさせる必要などなかった。こどもの親というのは、まったくなにを考えているのかわからないものなのだ。

「でも、いい子ですよねえ。そういいながら、おかあさんの言うことをちゃんときいて」
「はあ?」

 エイラが頓狂な声をあげ、エルマははっとした。ぼんやりと考えていたことのつづきが思わず口からでてしまったのだ。怪訝な顔をされてもしかたない。あわててなんでもないです、ととりつくろっても、エイラはエルマをかわいそうな目で見ることをやめなかった。

「エル姉ってさあ、なんか別世界見てるよな」
「そんなことも、ないと思うんですけど……」

 むしろそれは、きみのことじゃないかしら。エルマはすこしだけ思ったが、口にはしない。どうにもつかめないこの子は、家庭教師の彼女をひどく邪険にあつかう反面、エル姉、などとしたしげな愛称でもってなついてくるところもあった。エルマは自分が中学生だったころのことを一所懸命思いだす。だめだわ、わたしったらいっつもぼんやりしていたものだから、この子みたいにいろいろ考えていそうなこどもじゃ、全然なかったもの。つまりエルマには、五つほど年のはなれた少女の考えていることが、まったくわからないのであった。

「ねー。エル姉ってこれもってないの?」
「あ、このゲーム機ですか? もってないですねえ。ゲームって、たいていどういうのも苦手だから」
「ちぇ、つまんないの。通信とかできるんだぞ、これ」
「へえ、最近のゲームってすごいんですねえ」

 携帯ゲーム機の画面をのぞきこむふりをしながら、勉強机につまれた教材をながし見る。きょうの課題なんて、授業時間の半分もしないうちにおわってしまった。こんなことでは、授業料のぼったくりだ。エルマは、その日のぶんがおわったらわたしがなにしてても文句言うなよ、という生徒との約束を頭のなかで反芻しながら、そんな妥協をしてしまった自分をとにかく叱責したかった。全然言うとおりに授業に臨んでくれなかったものだから、せめてすこしでも課題にとりくんでくれるなら、と。ああ、もっとレベルの高い問題を用意すればいいのかしら、だけれどいまつかっている問題集は、所属している家庭教師の協会からもらえる教材の中学三年生むけのもののなかで、いちばんむずかしいものじゃなかったかしら。

「……」

 やはり、なにを考えているのかなんてわかりそうにない。こんなのむだだよ、やめたいよ。親にそう言えばきっと簡単にやめてしまえるほど成績優秀なのに、どうしてそんなこともせずに毎週火曜日の六時から七時半までのこの退屈でしかたのない時間を、この少女は自分とすごすことをやめようとしないのか。カテキョするくらいなら塾いったほうがいいよ、真面目にやる気ある大学生のバイトなんてほぼいないって言ってまちがいないもん。見知らぬおなじアルバイトをしている大学生のそのとおりすぎる台詞。もしわたしもそう言ったら、この子はじゃあやめるっていう言っちゃうのかしら。願ったりだ、そうなれば全然真面目に教師をしていないのにお金をもらう罪悪感からのがれられるし、この子だって自由な時間をつくることができる。

「はい、きょうの授業おわりね」

 親指で時計をしめしながら言うエイラに、エルマはそれでも、やっぱりこの女の子とあえなくなるのはさみしいな、と、すこしだけ考えてしまうのであった。

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「まってー」

 親御さんにあいさつをして玄関でくつをはいているところだった。背後から呼び声。ふりかえると、エイラが、あーだからちょっとコンビニいってくるんだってば、と居間のなかにいるらしい母親にうざったそうな声をかけているところだった。

「コンビニいく」
「あ、はい」

 よくわからないまま、すっかりとくつをはいてしまっていたエルマはスニーカーのひもをむすんでいるエイラを見おろす。いっしょにいこうということか。そういえば、この子の家からの帰り道にコンビニがあるのだ。思いついたころには、エイラはひとりでさっさと玄関の扉をおしていた。
 さらりと、夜の風にエイラのきれいな銀髪がゆれていた。財布をもった手をぶんぶんとふりながらファンタだったらやっぱりグレープだよなとつぶやく横顔に、わたしはオレンジ派ですねえと返事をしながら、ジュースをかいにいくのかとうなずいた。

「ジュースくらいなら、わたしが買ってあげます」
「えー、なんだよきゅうに」
「優秀な生徒さんにごほうびです」

 考えもなくただなんとなくいうと、きょとんとした顔をして、エイラはたちどまってしまう。しまった、へんなことを言ってしまったか。そう思うが、なにを失敗したのかわからない。エルマはこまって、だけれどぽかんとした表情をくずさないエイラを見ているうちになにやら急にかわいくみえてきて、思わず頭をなでてしまった。するとそこでエイラは我にかえったらしく、その手をぺちんとはらってちょうどたどりついていたコンビニにあわてるようにはいっていった。

「いらっしゃいませー」

 高い店員の声。あれ、ききおぼえのあるような。エルマがそう思うよりさきに、わお、と元気のよい声がカウンターからとんできた。

「エルマー」
「え、あれ、キャサリンさん」

 青い制服に身をつつむそのひとは、見まがうはずもない友人であるキャサリン・オヘアそのひとであった。ここでバイトしてたんですねえ、とたずねると、キャサリンのほうから返事がとんでくるまえにエイラがふたりのあいだにわりこむ。

「この不良コンビニ店員としりあいなのか?」
「あれ、エルマこの悪ガキのしりあい?」
「わ、悪ガキじゃねー!」

 かっと顔を赤くしてエイラはキャサリンにくってかかる。それをやる気のない営業スマイルで、ほかのお客さまの迷惑になりますのでおしずかにおねがいします、などとながすキャサリン。エルマはびっくりとしていた。このさめたような子が、こんな元気にかわいらしい顔をするなんて。

「うわあ、おふたりってなかがいいんですね」
「どうしてそうなるんだよ」
「かわいいものね、こんなになついてくれちゃって」
「おまえばかだろ、不良店員」

 ふん、と鼻をならして、エイラはぱっとかけてペットボトルのならぶたなのほうへいってしまった。

「あ、ひょっとして家庭教師してるっていう?」
「はい、あたりです。よくわかりましたね」
「そういえばあの子も家庭教師の話してたなあと思って」

 それで、キャサリンさんたちはどうしてそんなになかがいいんですか? たずねようとしたが、その途端にカウンターのなかのキャサリンのうしろをごほんと咳ばらいをするおじさんがとおったのでやめておく。キャサリンとおなじ制服をきたそのひとの胸元には店長と書かれたプレートがくっついていた気がするのだ。気にもしないでへらりとしている不良とよばれた店員にあわてて会釈してから、エルマはエイラのほうへといくことにする。あとで店長さんにおこられちゃったらごめんなさい。こころのなかで頭をさげて、そのころにはエイラのうしろまできていた。彼女が手にもっているのは、グレープ味とオレンジ味の炭酸飲料。

「あら、二本も買うんですか」

 びくん、とその肩がふるえる。しまった、急に声をかけてしまったから。あわててふりかえったエイラは、動揺してしまった自分がはずかしかったのか唇をとがらせていた。

「わるいかよー」
「いえ、全然。えっとそれじゃあ、三百円でいいですね」

 かばんのなかから財布をとりだして小銭のはいっているところをのぞきこむ。よかった、ちょうど百円硬貨が三枚。そう思って笑っていると、いいよ、とひかえめな声がした。

「そんなの、それくらい自分でだすよ」
「でも、ごほうび」

 さっき言ってだまらせてしまった台詞をまただしてしまう。しまったと思って途中でやめるが、もうおそかったらしい。エイラはやっぱりだまってしまった。それからしばらく両手に一本ずつもっていたペットボトルをもじもじとするようにすりあわせて、エイラはそれからぼそりとつぶやいた。優秀だってさ。

「え?」
「ただの生意気なガキだと思われてると思ってた」
「そんなの……」

 たしかに、そのとおりだけれど。しかし、優秀であるということは、それもまちがいないのだ。そこではたと思う。そういえば、そう思っていることを、ちゃんとしたほめことばで伝えたことがあったろうか。

「いやだ、あんまりできる子だから、言うのも忘れちゃってた」

 思わず声をあげると、エイラははずかしげにうつむいてしまう。ねえ、あなたって、とっても優秀で頭のいい子ね、びっくりするくらい。いつでも簡単に言ってしまえるほめことばだ。だけれど、どうにもエイラのまえでは委縮してしまうエルマは、少女の言うことに返事をするくらいで、自分から声をかけることがすくなかったのだ。さめていてつかみどころがないだなんて、そんなことは全然なかった。自分が気づこうとしていないだけだった。そうか、こころをちゃんと開いてくれていないように見えたのは、それは、エルマこそがこの子をちゃんと見ていなかったから。思いついてしまったエルマはつい、ふわりと笑ってしまう。

「エイラさんはとっても優秀でいい子だから、わたしはいつもとっても助かってますよ」

 生徒の頭をなでてやる。するとこんどは、赤い顔をしたエイラはにげることはなかった。

「店内でいちゃつくの禁止ねー」

 レジへと商品をもっていくと、キャサリンがうんざりしたような声をつくった。見てんじゃねー!とエイラがまた挑発にのっているよこでエルマは財布をあけていた。だけれど、いつのまにやらレジにはおつりのところまで表示されていたのだ。

「あれ、わたしがだすって」
「だからいいってば、このくらい」
「っていうか、ファンタだったらカロリーゼロのレモン味がいちばんにきまってるのに」
「もーあんたうるさいよ、客のかったもんに文句つけんなよ」

 エイラはぷりぷりとしたまま、袋につめられるまえに二本のペットボトルをつかんでさっさと店のそとへと言ってしまう。かわいいねえ。つぶやくキャサリンにエルマは、きっとさっきまではできなかっただろうが、いまはこころの底から、そうですね、とうなずいた。

「はい、これ」

 ありがとうございました、のことばを背中にうけながらドアをくぐった途端、店のそとでちゃんとまっていてくれたエイラに、ひょいとペットボトルの片方をさしだされる。え、と意味がわからずにいると、エイラはぐいぐいとそれをエルマの手におしつけた。

「あげる」
「でも、そんな」
「いいから!」

 こわいくらいの大声がしたので、びっくりしたエルマは思わずそれをうけとってしまう。しまった、と思ってももうおそい。エイラはぱっとかけだして、きた道、つまりは自分の家のほうへとかけだしてしまっていたのだ。

「あのっ」

 すこしおおきな声をかけると、くるりとからだがむきなおる。あ、うしろをむいて走ったらころんじゃう。そう思うけれど、エイラはもうとまらない。

「またね、また、来週」

 くしゃりとした笑顔、かわいい顔。エルマはどきりとしてしまう。来週だなんて、またね、だなんて。あの少女が次回のことを気にしてくれたのは、はじめてだったのだ。はい、また、来週。もうすっかりとかけていってしまった背中に、そんなちいさなつぶやきがとどくはずもない。だけれどエルマは言えずにはいられなかった。

「また、来週……」

 ひんやりとした、手のなかのペットボトルはオレンジの色をして、それは先程、エルマがすきだといった味がするものだった。

09.03.17 アルバイトのはなし
エル姉という愛称は某氏のものを無断でぱくらせていただいたものです、たいへんもうしわけない