「……あの」

 はっとした。ちらりと声のしたほうに視線をむけると、数センチだけあいた運転席の窓のむこうに先程まで食事をともにしていたひとがこちらのようすをうかがっている。ビューリングはかすかにあせって、それの開放ボタンをおす。

「きょうは、ありがとうございました」
「ああ、うん」

 そうだ、エルマの家までおくってきたんだった。一瞬とんでいた意識に動揺する。彼女のうしろのアパートを一瞥してから息をついていると、だいじょうぶですかとエルマが言った。ぎくりとする。

「なにが」
「……えっとその」

 思わずするどくみじかくなってしまったビューリングの返答に、エルマはすこしだけ肩をゆらした。まずい、だめだだめだ。ビューリングはごまかすように彼女のまえでてのひらをふってなんでもないとごまかすことにする。

「わるかった、急につきあわせて」
「そんな、こちらこそごちそうになっちゃって」
「なに、あれくらい」

 それじゃあまた。ビューリングはひょいと手をあげて言って、窓をしめる。あわせてエルマもおやすみなさいと頭をさげて、それに微笑で返事をしてから車をだした。

(だいじょうぶですか、ね)

 見るからに具合がわるそうだということか。アクセルをふみながら意図せずに舌打ちがこぼれてしまう。ふと信号がかわる。黄色のそれは、しかしビューリングにさらにアクセルをふませることしかできなかった。手持ちの煙草はきれている。彼女は、まったくだいじょうぶではなかった。あの人物のことでここまで神経をすりへらしているという事実が、やつに遭遇してしまったということに拍車をかけてビューリングから冷静さをはぎとっていた。
 ふと、おおきくベルがなる。飾り気のない音の連続に、即座に電話だと理解する。無視しようかと一瞬思うが、よびだしがやむ気配は微塵もなく、しかたなく路傍に車体をよせて停車させた。助手席におかれた携帯電話をつかんでディスプレイをのぞけば、なんとなく予想のついていた人物のながかがやいている。

「……もしもし」
「でるのおそいねー」
「運転中だったんだ」
「だったらドライブマナーモードにしといてよ」

 元気のよい声に、ビューリングは閉口する。電話のむこうでキャサリンはおまえはそういうところの気配りがまったくなっていないとえらそうなことをわめいていて、思わず通話を終了しそうになるがどうせまたかけなおしてくるにすぎないだろうから我慢してやる。用件は、ととげのある声をだせばあちらさんはやっとだまり、ふうんと鼻をならしたようすである。

「元気ないねえ」
「残念ながらな」
「あら、否定もしない」
「……きょうは大学にいってたんだ」

 たまらずつぶやき、ビューリングは自分がこのたまらなくわるくなっている気分についての原因をはきだしたくてたまらないことに気づいた。まぬけにもほどがあると思いながら、とおくはなれたキャサリンがたったそれだけの情報でああとうなづいたことに安堵した。

「それはおつかれさまねー。あいたくないひとがいるんだっけ」
「しかもあった」
「あははは」
「笑いごとじゃないんだ、くそ、一時間だぞ、一時間もとっつかまって話し相手をさせられた」
「あちらさんはよっぽどビューリングがすきみたいね。ハンナ・ルーデルだっけ」
「フルネームでよぶのはやめてくれ」
「じゃあルーデルさん」
「むしろやつのなまえを私のまえで口にするな」
「やー。こわいこわい」

 愉快そうな声に一瞬いかりがわくが、そんなものはやつと顔をあわせていたあいだのたえきれぬ空気にくらべればまったくたえうる苦痛だった。ビューリングが在学中から研究員としてあの大学に籍をおいていたあの女は、いちいち彼女を気にかけていた。ただしそれは究極に善意的に解釈したうえでの表現であり、ビューリングからしてみればなにをしていても嫌味のひとつをかかさないやっかいでしかたのない目上の人間であった。ハンナ・ルーデル研究員。もとはといえば自分がわるいのだと、確かにビューリングは自覚していた。しかしだ、しかしあまりにもしつこすぎるじゃないか。

「なんだっけ、研究室にはいりたてのころ、ルーデルさんがそこで飼ってた熱帯魚かなんか全滅させちゃったんだっけ?」
「……ははは、けしさりたい過去だ」

 当時、ビューリングは気がとおくなるほどにあやまった覚えがある。なに、人間ならだれしもミスくらいするさ。寛大な笑顔をうかべてそう言ったのはだれだった、ええ? ビューリングはルーデルのあのときのやさしさを思いだして身の毛もよだつ気持ちになる。あれからだ、いちいちただの腹いせとしか思えないような接し方をされるようになったのは。

(しかもだ、しかも、あんなの)

 ふと脳内にうかびあがりかけたおぞましい記憶に、ビューリングはぶんぶんと首をふる。よせ、やめろ思いだすんじゃない。ごほんごほんと電話をはなしてわざとらしい咳払いをする。なに、とたずねられるが黙殺した。

「あ、あとあれだ。研究室にとまったとき、目さましたらなぜかルーデルさんとふたりしてはだ」
「うおい! それ以上言ったら絶交する!」

 したというのに、キャサリンときたらばっちりのタイミングでビューリングがむかしに酔ったいきおいでしてしまった思い出話にたどりついてしまう。絶交、絶交だって、かわいいねー。大声で笑うむこう側に、ビューリングは頭をかかえたくなる。あのときも酔っていた、ゼミでの宴会に参加させられていたときにビューリングはそれでもやりかけの論文のために途中でぬけて辛気臭い研究室にこもることにしたのだ。だが残念ながら当時は自覚のないままかなり酔っていたらしく、記憶がひどくあいまいなのである。いったいどうして先程キャサリンが言いかけたような状況になってしまっていたのか。不幸中の幸いでルーデルよりもさきに目をさますことのできたビューリングは思考する間もなくにげだしてしまったものだから、真実は藪のなかなのだ。いやいや、あれは夏だった、あつかったんだ。だからぬいじまってただけで、なにかがあったなんてことは、ありえない。ビューリングは自分に言いきかせるが、ふしぎなほどにその夜のことにはふれないもうひとりの当事者に本当のところをたずねられるはずもないのだ。

「……もういいだろ、きるぞ」
「わ、ちょっとまつねー。こっちの用件言ってないよ、勝手に言いたいこと言ってすっきりしないでよ」
「……」

 しまった、まったくそのとおりではないか。ビューリングはすこしだけ楽になっている心境に辟易した。なんとも簡単な神経構造ではないか。ううんとうなり、ビューリングは耳をかたむける。

「なんだよ」
「へへへ、ウルスラが遊園地にいきたいっていうから、こんどの日曜にみんなでいくねー」

 能天気な提案に、奇妙に気持ちがいやされていくことを自覚した。平和なやつだ、本当に。にくらしいくらい。ビューリングはたのしげなキャサリンの声をききながら、ひそかにともだちというもののありがたみを実感し、途端にまぬけな思考だとため息がでてしまう。

「……それはおまえがいきたいんだろ、ウルスラをだしにつかうなよ。あのインドアなウルスラが自分からいきたがるか」
「あちゃあ、ばれた。でもウルスラはいこうっていったらいくって言ってくれたよ」
「そりゃよかった」
「でもまだエルマには了承とってないね」
「いや、私もまだ了承してないが」

 まあ、べつにいってもいいけど。思いながら、でてきたなまえにああと思う。

「おしいな、さっきまでとなりにいた。もうすこしはやく連絡をくれればいっしょに話をきけたんだが」
「え、なんで?」
「大学であったんだ。それでいっしょにファミレスにいってた」
「ふうん……」

 キャサリンはひくくうなづいてからすこしだまり、それからもういちどふうんと言った。

「なるほど、あいたくないひとにあってよわってたところでエルマの顔見ちゃったから、甘えちゃったわけね」
「はあ?」

 意味不明な発言に、頓狂な声があがる。なんだそれは。つづけてその声のままたずねると、だってらしくないよ、とキャサリンは言うのだった。

「エルマからさそうとは思えないし、どうせビューリングからさそったんだろうし」
「まあ、たしかにそうだけど。でもそれは……」

 ビューリングは反論しかけ、しかしはたと思考がとまる。あれ、なんで、よびとめたんだっけ。冷静に思いかえせば、ふだんの自分ならばあいさつだけですませてそのままさっさとたちさるような偶然の出会いだった。しかし、学生の波のなかに見つけた知り合いの女の子の姿に、たしかにほっとしてはいなかったか、つい食事にさそうほどに、ひきとめたいと思わなかったか。たどりついた結論に、ビューリングは疑問符をうかべるほかない。

「……なんでだ?」
「なんでって、そりゃあ」

 なにを言いだすのか。キャサリンはそう言いたげな口調でそう言って、しかしそれ以上つづけない。ビューリングがいぶかしく思っていると、つぎにきこえてきたのはあはははという愉快な笑い声だった。

「なんでって、そりゃあねえ。ははは」
「なんだよ、癪にさわる」
「いやいや、やっぱりそれは自分でかんがえないとね」

 ていうか、教えちゃうのもおもしろいけど、教えないほうがもっとおもしろいね。くくくとあいかわらず上機嫌な雰囲気で、キャサリンはよくわからないことを言う。おい、なんなんだよ。かさねてたずねようと思ったが、これほどたのしげになったやつがこちらの主張をくんでくれないことはわかっている。

「……つぎの日曜、遊園地な。こまかいこときまったらまた連絡してくれ」
「はいはい、了解ねー」

 その証拠に、無理やりに話をおわらせてもキャサリンはあっさり同意をするのだ。んじゃ、おやすみ。別れのあいさつにああとみじかく返事をし、通話を終了。ビューリングはしばらくちいさな液晶をながめてから座席に身をしずめ、ふうと息をつく。それからポケットをあさってしまったと思った。

「くそ、煙草……」

 きらしてしまった必需品に、舌打ちをする。ともだちがありがたいだと、やつよりましだとはいえ、充分に気分をわるくしてくれる人材ではないか。すっきりしない思考をかかえ、ビューリングは車のエンジン音をならす。おやすみ。そういえばエルマはどんな顔でおやすみと言っていたっけ。思いだそうとしたがけっしてその顔ははっきりとうかんでこず、なんとなくむなしくなるまま、彼女はアクセルを思いきりふんだ。

09.04.13 たばこのはなし