「うーしゅー」
ノックもなしに自室のドアがあき、ひょこりと自分とおなじ顔がそのむこうからあらわれた。ベッドのうえに腰かけて壁にもたれながら読書にふけっていたウルスラは、ちらりと視線をあげるだけで訪問者の確認をすませる。やはは、ごめんねきょうは。自転車つかう用事あった? 憶測どおりに自転車をぬすんだ犯人であったエーリカは、真剣味のかける申しわけなさそうな顔でもって笑った。
「べつに」
「ほんとー? きょうどこにもいかなかった?」
「いったけど」
「ほらね」
ぽすんとベッドのうえにのり、エーリカはなぜか得意げにふふんと鼻をならした。ウルスラはなんとなく本をとじ、いつのまにか自分のとなりでおなじ体勢になっている姉を見た。するとむこうは意外だったらしくぱちぱちとまばたきをする。それはそうだ、エーリカが急にウルスラの部屋にやってくるのはいつものことだが、それによってウルスラが読書をやめることは非常にまれだった。
「きょう、ミーナとあった」
「え、いっしょにあそんだの?」
「ううん、家のまえで偶然顔をあわせただけ」
「ふうん、そうなんだ」
なにを話す気なのかしら、わたしは。ウルスラはぼんやりとしながら本をぽいとシーツのうえになげ、ひざをかかえた。きょうのうちのかなりはやい段階には自分がたいへん神経質になっていると理解していて、それは残念ながら継続中らしい。それというのも、いまのべたことが原因としか思えなかった。バルクホルンとおかしなことになっているミーナ、それによって、さらにおかしくなっているひとがいると、なんとなくあらためて確信してしまった。だからどうということはないはずだった、ウルスラは、すこしそとから彼女たちのようすを観察するだけときめていた、そのはずなのだ。だというのに。
「きょうはさ、ともだちのうちにいってたんだ。わるいと思ったんだけど、目にとまったらつかわずにはいられなくて。ほんとにさ、わるいとは思ったんだよ」
あいかわらずどこかおかしそうな口調で言って、エーリカは話をもとにもどしてしまう。それがとてもいやだった、そんなことはどうでもいいと、いまにも言いだしそうなほど。
「ミーナは、とてもつかれてるみたいだった」
「……」
二度目のその名の登場に、エーリカもさすがにだまってしまった。あまりしたくない話なのだろうか、それともしたくないのは、ミーナとバルクホルンの、そのふたりがでてくるような話なのだろうか。ひざのうえにほおづえをついてウルスラをながめていたエーリカは、すこしだけまばたきの回数をおおくした。かんがえをまとめているときの姉のくせ、たぶんそれをしっているのはわたしだけ。ウルスラは一瞬だけ優越な気分になりながら、自分がとてもひどいことをしている自覚もあった。
いつも一歩ひいているのは、傷つけてしまうことがこわいから。そのぶん、たすけてあげることもできないけれど、そうしたいと願うなんて、自分にはおこがましいと思っていた。
エーリカはいつもウルスラをたすけてくれた、だけれどウルスラには自分がおなじように姉をたすけられているとはけっして思えなかった。むかしからほうっておけばずっとひきこもっているようなこどもだったウルスラをひっぱりだして、おさななじみたちのまえまでつれてきてくれたのはエーリカなのだ、一歩ひいたところからようすを観察するような立ち位置におさまれたのは、エーリカのその行動があってこそだった。ウルスラはたびたび姉のお節介にたすけられていて、それのおかえしをしたことがない、できる気がしないのだ。だからせめて、ずっと見ていようと思った。それ以上はできないんだから無理をしないで、自分に見合った行動をこころがけていた。
「……トゥルーデはだめなやつだから」
それなのに、こんな傷ついた顔をさせて、こんな話したくないことを話させてしまう。どうしてだろう、こんなことは、エーリカが話したいと思ったときに、せめてきいてあげられたら上出来だと思えるようなことだ。
「くわしいことは、しらないけど。でも、どうせわるいのはトゥルーデにきまってるよ。最初はただのけんかかなって思ったのに、ちがったね」
すっと視線をそらして、エーリカはひざを抱えている腕に力をこめた。ミーナのことをかんがえているときのトゥルーデは、かっこうわるいからきらい。なきそうなつぶやき、ウルスラは、こんなふうになるエーリカをほとんど見たことがなかった。いつもふわふわと笑って、ひそかな気遣いが上手で、なにをするにしてもひとよりひとつさきを見ているような。ウルスラの姉はそんなひとで、どこまでもしなやかなつよさをもっているひとだった、いっしょにうまれてずっといっしょにくらしてきて、それがゆるぎないエーリカの定義のはずだった。
(それなのに)
ウルスラは目をほそめている横顔をながめながら、なきたくなっていた。いまにもこわれてしまいそうなよわよわしい表情でもって、エーリカがとなりで息をしている。彼女にこんな顔をさせられるひとがこの世にいることが、意外で、ちがう、いやでいやでしかたがない。そのはずなのに、と思う。エーリカのそんな表情は、びっくりするほどかわいかった。
「エーリカ」
名をよんだだけでふるえる肩、よわよわしいしぐさがこちらをむいて、ウルスラは祈らずにはいられない。そんな顔をするのはあのひとのせいだったとしても、ねえ、それを見せてくれるのはわたしだけにして、そんな、かわいい顔。
(さいていのいもうと、わたしって)
手をのばし、ほほにふれた。いつもエーリカからしかけてくるスキンシップを真似てみる。手ざわりのいい肌に指のさきをすべらせながら、こたえが見つからない。まるで無理やりに話をさせておいて、予想どおりに助言なんて思いつけない。それなのに、ウルスラの唇は勝手にうごいていた。
「……トゥルーデの話をしてるときのエーリカは、かわいいからすき」
きょとんとした表情、思わずでてきたのは、キャサリンの真似。こたえをくれなかったかわりに、なげかけてくれたやさしい声。ウルスラにとってただしかったそれが、エーリカにとっても正解とはかぎらないけれど、これが彼女の精一杯だった。
ぱっと手をはなし、そのまま先程ほうった本をひろう。ぱらぱらとひらいていたページをさがして、どうしたらいいのかわからなくなっている自分がなさけないと思った。言ってしまった、なにを、言っているんだろう。後悔しかけたその矢先、くしゃりと髪がかきまぜられる。ウルスラがぎょっとしているうちにうごきは大胆になって、くしゃくしゃと、エーリカの両手がウルスラの髪をまぜた。
「……」
本をのぞきこんでいた視界は、いまのエーリカからの攻撃によりずれてしまった眼鏡のせいでぼやけている。ぴょん、とベッドからとびおりたエーリカが肩ごしにウルスラを見る、さぐるような視線。それとも、かすかにすねたような。
「読書なんかして夜更かししてないで、こどもは早く寝なさいっ」
訳のわからない捨て台詞でもって、エーリカはぷいと出口へとむかう。ぼけっとしているうちにぱたんととじてしまったドア、ウルスラはしばらくぼんやりとそれをながめてから、ずれた眼鏡をなおして髪も適当になでて読書を再開した。それだというのに、集中できないことと言ったら。
(……てれてたのかな、あれ)
かわいいから、すき。言ってしまった、言わなきゃよかった。きょうの自分は、やはりおかしい。ウルスラはそう思いながら、ぞくぞくと目の奥があつくなっていく感覚によいしれるほかなかった。
09.05.06 きゅうじつのはなし