アーデルハイトがドアをあけると、そこにはありえるはずのない光景が存在していた。

「あー。ちょうどいいところに。ココアふたりぶん」

 しかしとんでくるのはなにくわぬ声である。とりあえずこのドアをもういちどしめてからこの部屋の名が書かれているはずのプレートを確認しようか。一瞬そう思うがまったくの徒労におわることはわかりきっていたので、アーデルハイトはわざとらしくまばたきをしてみせてからはいとうなずいた。

「ふん、そうか、しりあいに会いにきたと」
「あ、あ、えっと。うん、そうです」
「そんなに緊張しないでいい。ここにはきみをいじめるようなやつはいない。まあいまはいってきたやつは愛想がなさすぎるが……」
「どうぞ、ココア」

 こつ、と音をたて、失礼なことを言ってくれたありえない光景の一部であるルーデルのまえに彼女専用のカップをおいた。すると彼女は礼のかわりにひょいと手をあげるのみで、視線はあいかわらずありえない光景の原因となっている張本人のほうをむいたまま。その人物はアーデルハイトにまったくかまわないルーデルとは正反対に、彼女が先程ドアをあけた瞬間にびくりと肩をふるわせたり湯気のたつカップをどうぞとさしだされてちぢこまったりしていた。
 ここはたしか人間学研究室ではなかったか。アーデルハイトは自分のぶんのコーヒーをそそぎながら自問してみる。うん、協力はしてあげたいんだけど、大学はひろいからなあ。ああ、ほら、おかしをたべなさい、たくさんあるからな、遠慮しなくていい。上機嫌な声が背後でひびいており、思わず室内を見わたさずにはいられない。雑然としている茶棚、掃除不足のちいさな洗面台と鏡、二台のパソコン、すわり心地のよくないソファ、熱帯魚のおよぐ四角い水槽、四方の壁のうちのひとつを完全にうめつくしている本棚。まったく普段どおりの八畳ほどのながめ。それにもかかわらず、それらの中心にあるふたつくっつけられた長机にならんで腰かけている者ときたら。

「……ここはいつから小学校になったんでしょうか」

 ルーデルのとなりに居心地わるそうにすわっているのは、大学の施設のなかにいるにはまったく不自然な、ちいさな女の子なのだった。
 机のうえにはクッキーや飴玉がひろげられていて、にこにこと笑うルーデルがしきりに女の子にそれをすすめていた。しかしその少女はうんとかはいとかうなずくわりにけっして手をつけようとはしない。アーデルハイトはなんてことだろうと頭をかかえたくなる。

「女児誘拐ですか、勘弁してください」
「ふん、失礼だな。迷子を保護したまでだ」
「いったいどこで。仮に本当に迷子だったとしても大学の施設のなかまでつれてくるという行為はそれに非常にちかいです」
「残念、この子とはここの敷地内で会ったんだよ。なんでも大学生のともだちがいるらしい」

 なあ、おじょうさん。不気味なほどの上機嫌で、ルーデルは女の子のかわりにクッキーに手をのばす。ふだんの性格のわるそうな笑顔とはくらべものにならぬさわやかな表情でもって、迷子の保護者は女の子に語りかけているのだ。きっとどこか病気なんだわ、とアーデルハイトは思っていた。彼女の先輩にあたるハンナ・ルーデルは、ちいさなこどもに対しておかしな執着をもっているところがある。常々冗談めかしてはいるが、目が本気であることにつきあいの長いアーデルハイトが気づいてしまえないはずもない。
 アーデルハイトはなんとなくおなじテーブルにつく気になれず、かわりに彼女たちの腰かけるパイプ椅子のちょうど真後ろに位置しているソファに腰をおろした。あいかわらずのかたい弾力である。

「そもそも、そのおかしってゼミ生が買い置きしていたものでしょう。箱や袋になまえが書いてあったはずです。どうしてあなたはそういう勝手な行動がとれるんですか」
「どうだったかな、もう袋とかはすてたからわからない」
「しっていますか、あなたがそういうことをするたびに私が買いなおしてあった場所にもどしているんです」
「うん、たすかってるよアーデルハイト。きみは本当にかくれたフォローが上手だ、そんなに私がすきか」
「ゼミ生に申しわけないだけです」
「ふん、そうか」

 にやりと笑い、ルーデルがわざわざふりかえる。それはまさに、ふだんどおりの意地のわるい笑顔であった。やさしい表情をこども以外に安売りする気はないらしい。椅子とソファの高低差のせいで見おろされるようなかたちになり、アーデルハイトはその視線を見あげかえしながらコーヒーをすすった。しかし、きょうのきみにはすこし気づかいがたりないな。それからつづいたことばに、すこしだけまゆがうごく。

「そんなことを言っては、この子がこれに手をだしにくくなってしまうだろう。大丈夫、これはすでにきみのものだから、すきにたべていいんだよ」

 ふいと少女にむきなおり、ルーデルは猫なで声で語りかける。アーデルハイトははっとしていた。たしかにさしだされたものがこの場にいない人間のものであることがあかされては、見るからに遠慮深そうなこの子は余計にこれをたべることはないだろう。かと言って、そういえばこれ以外にこどもをもてなすのに使えるものはこの部屋には存在しないのだ。アーデルハイトはちいさい背中をちらりとながめて、かさねて気づいたことがある。あいかわらず居心地のわるそうな肩はちぢこまっていて、仮にルーデルの主張が事実ならばこの少女は心細い迷子であり、その状況でとなりでおとなが言いあいをはじめては余計に不安になるにきまっているのだ。

「……すみません」

 アーデルハイトはたちあがり、ルーデルが腰かけているほうとは逆の、少女のとなりにある椅子にすわりなおした。まさかそうくるとは予想していなかったルーデルはおやとまばたきをし、それ以上に意外だったらしい少女はびくっと肩をふるわせている。しまった、完全におそれられているではないか。アーデルハイトはでそうになったため息をこらえて、机のうえのクッキーに手をのばす。一枚一枚が丁寧に包装されたそれは味が四種類ほどあったが、彼女はまったく気にせずにいちばん手前のしろいパッケージのものをとり封をあける。それをながめるルーデルはおもしろそうににやけていたが、アーデルハイトは気づかないふりをきめこんでいた。

「きみ、おなまえは?」

 こういう場合は、たぶんこの子を話題の中心にして不安をとりのぞいてやるのがいいはずだ。勘にちかい結論をだし、質問をなげかける。しかし答えは、返ってこないのであった。ぱちぱちとまばたきをしながら少女はなんとか答えようとしているが、緊張のあまり声がでないらしい。

「ふ、あっはは。きらわれたなあ、くくく」
「……」

 愉快な笑い声がふたつとなりからきこえてきて、げんなりとするほかない。ほら、おかしをたべてもいいんですよ。こんどはクッキーをひとつさしだすが、うけとってはもらえてもそれの封があけられることはなかった。

「そうか、きみはこどもが苦手なのか。おもしろいことをしった」
「あなたは無駄にこどものあつかいが上手そうですね、私ははらはらしているんですよ、いつか幼女との淫行でつかまりやしないかと。しりあいからそんなのがでるなんて想像しただけで背筋がこおります」
「ふん、私がそんなへまをすると思うかね」
「そもそも淫行をやめていただきたいものです」

 淡々とつげてからはっとする。しまった、こどもをはさんでする会話ではない。これでは完璧に先程の二の舞ではないか。安心したまえ、すくなくともこの子はすこし育ちすぎだ。アーデルハイトがかすかにあせっている反対側でかまわず話をつづける変態に寒気をおぼえていると、急にルーデルはたちあがる。

「さて、もう時間もおそい。わるかったねこんなところにひきとめて。住所を言ってごらん、私がおくっていこう」

 ひょいと女の子の手をとりたちあがらせ、ルーデルはさっさと出口へとあるいていく。アーデルハイトはぎょっとする。この会話のながれから、このちいさな女の子とやつをふたりきりにするのは非常に危険な行為に思われた。

「いえ、私がいきましょう。あなたはおいそがしいでしょうから」

 言って、その子の手をとろうとした、が、おどろくことに、少女は彼女からにげるようにすでに自分の手をとっているルーデルにすがりついたのであった。
 アーデルハイトが唖然としているうちに少女も自分がとってしまった行動にはっとして、なんとも言えない顔で気まずげな視線を床におとしている。急におちてきた一瞬の沈黙、それをやぶったのは、ルーデルの元気のよい笑い声だった。

「ははは、私の勝ちだな」

 わかりきっていたことだと言いたげな顔をして、彼女はまた女の子の手をひく。

「ふん、しかたがないな、ひとつヒントをやろう。きみは、もうすこし笑顔の練習をしたほうがいい」

 仏頂面も魅力的だがね。軽々しいことばをはく女に、少女がつれていかれる。アーデルハイトはなすすべもなくそれを見送りながら、彼女の台詞を反芻した。瞬間。

「……あの」

 おさない声、ちいさな女の子のつぶやき。アーデルハイトがはっとしてその音源を見ると、その子もこちらを見ていた。わたし、ヘルマ・レンナルツっていいます、ココア、ありがとうございました、クッキーは、うちにかえったらたべます。かたい声でつづけられたそれらのことば、呆然としたままきいていたせいで返事をすることもできない。さらにはにこっとすこしぎこちない笑顔をうかべた女の子に一瞬見とれてしまい、しかも問答無用にドアをしめてしまったルーデルのせいでアーデルハイトは一切のリアクションをあの少女に見せることはできなかった。

(笑顔の、練習)

 しんとしずまった室内で、ルーデルのまるで適当な台詞を再度頭のなかで再生してみる。机のうえのおかしたちはどうしようか、ああ、ココアがふたつとも半分以上のこっているではないか。ぼんやりとしつつなんとか思考をほかの方向へともっていこうとしたが、うまくいかない。アーデルハイトはそっと洗面台のそばにそなえられた鏡にちかづき、それにうつる自分の顔をのぞきこんでみた。

「……笑顔の」

 そっと自分のほほにふれ、かすかにそのそばの筋肉に力をこめた。そのとき。

「ああ、言いわすれていた」
 がちゃりと勢いをつけてあけられたドア、そのむこうからルーデルが顔をだして、なんとか机のうえの片づけをしていたふりをできたアーデルハイトはほっとしているのをかくしながら彼女を見る。

「きみがこないだ言っていた調べ物。その棚にあるハイデガー全集の第六巻に参考になる記述があった気がする。何ページかはわすれたから自分でさがしなさい」

 ばたん、とドアはまたアーデルハイトの返事をまたずしてしめられてしまう。あっけにとられ、思わずまばたきをしながら彼女はしめされた棚に視線をうつす。そうだ、そういえば、ここには資料をさがしにきたのだ。アーデルハイトは複雑な心境にならざるを得ない。ルーデルのせいで本来の目的をわすれていたのに、おなじく彼女のおかげてそれを思いだすことになるとは。

(あのひとには一生かなう気がしないわ)

 とんとんとこめかみを指ではじき、先程はふりだった机のうえの片づけをはじめることにする。クッキー、ココア。ならぶそれらに、少女の声が耳の奥によみがえる。ココア、ありがとうございました、クッキーは、うちにかえったらたべます。上擦ったおびえるような声。そんなにこわいならこちらのことなど気にかけなくてもよかったのに、と思いながら、アーデルハイトは少女の声をきけたことがこんなにうれしい自分に気づかぬはずもなく、それどころかもしつぎにあうことがあったらこわがられずにすむだろうかという願望までが顔をだす始末である。

「……笑顔って、練習するものだったかしら」

 ふとしたつぶやき、彼女はその気になっている自分にあきれながら、そのほほが自然とゆるんでしまっていることを自覚しきれずにいた。

09.06.08 えがおのはなし
ルーデルさんは幼女趣味と聞いて