急に視界があかるくなった。思いのほか熱中していたようで、はっと我にかえった瞬間に肩がゆれる。そのつぎにはあれというつぶやきが背後からきこえてきて、かさねてぎくりとした。

「どうしたんだ、電気もつけないで」

 反射的にふりかえれば、あけっぱなしだったよこひきのドアのむこうから見知ったひとが顔をだしている。そのひとのてのひらは入口のそばの壁にそなえられた電灯のスイッチにふれていて、ミーナは動揺することを自覚した。まるでうしろめたさを覆いかくすようにくらかった室内はいまやすっかりとあかるくなっていて、自分の異変が表情にあらわれて光のもとにさらされてはいないかと気が気でないのだ。しかしあらわれたバルクホルンはそんなこととはつゆほどもしらずに、すこしだけうれしそうに笑ってミーナのそばまでよった。

「……トゥルーデこそ、どうしたの」
「ああ、担任によばれて職員室にいったんだけど、いなかったから。ひょっとしたらこっちにいるかと思って」

 とても無邪気なひとなんだ、とミーナは思っていた。思いがけず顔をあわせたようなときはいつだって、バルクホルンの口元は無防備にほころぶのだ。まだいちどもそれについて指摘したことはないから、きっと彼女はその現象を自覚していない。こころの奥底にあるかすかなその優越感は、いたいたしいほどにミーナを自己嫌悪の渦へとまきこむのだった。そんな顔をしないで、私は、あなたにそんなにきれいな顔を見せてもらえるような人間じゃない。

「あれ、それ……」

 はっとした。バルクホルンの笑顔に見とれていたせいで、手のなかのものをごまかすことをわすれていた。しまった、かくさなくては。そう思うが、いまさら後ろ手にかくそうにもそれではうしろめたいことがあると告白するようなものだし、かと言ってうまい言いわけを思いつけるほどいまのミーナは冷静ではない。

「なんだよ、いまさら、志望校をかえる気か?」

 たのしげな冗談が目のまえのひとの口からこぼれて、なのに、ミーナにとってそれは核心の真ん中を見事に射抜くような威力をもっていた。
 先程バルクホルンがこっちと言った職員室のすぐとなりのこの一室は、進路指導室と冠された部屋だった。せまいつくりの日あたりのわるいなかに、いちいち全国の大学や専門学校からおくられてくるパンフレットやら願書やらが整頓され保管されている。生徒はそれらを自由に見てもいいことになっており、だいたい開放された場所だった。そう、いつだれがはいってきてもおかしくないのだ。ミーナは、自分の不用意さに歯がみする。意外とほこりっぽさはないせま苦しい空間、棚には大量の資料がつめこまれていて、現在、彼女の目のまえには自分がこの場にいることをしられてはまずいひとがいた。

「……ミーナ?」

 語りかけたのに返事がないせいで、バルクホルンの表情が怪訝そうにゆがむ。まさか、いまさら。そう冗談にこたえようとミーナは必死だが、唇はうごいてくれないのだ。そもそも、本当にごまかしてもいいことなのだろうか。唐突に生じた葛藤が冷静さをうばっていき、ぐらぐらとミーナのこころをゆらした。思わず一歩身をひけば、背中が棚にぶつかる。あ、とバルクホルンが心配そうな声をあげるが、いまのミーナにはそれすらも自分をおいこむ要因となった。

「トゥルーデ」

 目は見たまま、そらせないまま名をよんだ。すると幼なじみはぱちとまばたきをしてからなにと言う。やさしいひびきだった、いつでも彼女はやさしくて、ミーナは、ずっとずっとそれをうらぎってきた。

「ミーナ?」
「私は、ね」

 きゅうと腕のなかの紙のたばをだきしめる。きっとバルクホルンも見覚えのある大学の名がプリントされているはずのそれ。もう潮時で、おそすぎる覚悟だった。数か月前に恋人になった子が笑いかけてくれるたび、ミーナはいつもいつもあやまっていた。

「私は……」

 いつのまにか視線は足元におちていた。なさけなくいまにもふるえだしそうなひざが視界にはいって、こくとつばをのんだ瞬間に肩に衝撃が走った。その拍子に腕のなかのものはばさばさと床にちらばり、はっとして顔をあげれば、目前にまるでなにかに勘付いてしまったかような愕然とした表情があって息をのむ。そしてつぎにでてきたことばに、ミーナは完全に正気をうばわれた。

「……坂本先輩?」

 ミーナの肩をつかむてのひらはふるえていた。それでもおさえつけられて、ミーナは棚にぬいつけられる。乱暴なことをしているバルクホルンは驚愕のあまりまゆをつりあげ目元をふるえさせ、吐息のような声でつぶやいた。そのとなりで、思いがけぬ的確な指摘にミーナはなきそうになる。彼女の発したたったひとつのなまえは、すべての答えだった。

「…し、しってた?」
「しらない、いま思いついて、言ってみたら、あたった」

 にげるようなミーナの声に、まるで呆然として、反射のようにかんがえる余裕もなくバルクホルンが返事をする。するとつぎにはミーナのほうが愕然とせざるを得ない。たったのこのみじかい時間で、バルクホルンはミーナの必死にごまかしつづけてきた真実に思いいたってしまったようなのだ。おまけに、そうとはしらずにあっさりとみとめてしまった、視線はおよぐし、ほほは不本意に赤くなった。はずかしさとか申しわけなさとかがないまぜになって、いまにもひざがくずれてしまいそうなほどだった。最低だと思う、こんなふうに動揺しているひまはないのに、せめて、ちゃんとことばにしてあやまらなくてはならないのに。

  「…ミーナは、高校になったらバスケをやめると思ってた」

 それなのに、話をするのはバルクホルンばかりだった。ふるえた声とうるんだ目で、おこったようなかなしいような表情が視線をそらすミーナをにらみつけている。だから、おなじ高校で、おなじバスケ部にはいって、うれしかった。ひょっとして私がいるからかなって、うぬぼれた。……けど、ちがった。わななく口元から、ぽろぽろと無意識的な思考がこぼれていく。

「ミーナは、小学校のころからバスケをしてて、それで、ひとつ学年がうえの坂本先輩としりあいで、仲がいいなとは思ってた、でも、それだけしか、思わなかった……」

 愕然としたようすのバルクホルンは、まるでひとり言のようにミーナの事情についての推論を披露しつづけた。ミーナは口をはさめない、ひとつとして、否定のことばを発することができなかった。

「大学だって、地元のいっしょのところにいくって、約束はしてないけど、なんとなくそうだと思ってた」

 ゆるりとバルクホルンの視線が床にすべりおちる。ちらばった資料には、先程あがった名の持ち主がかよう大学の写真となまえがうかんでいた。

「ミーナ、なんか、言って」

 肩をつかんでいた手がすべりおちて、ミーナの胸元にすがりついた。いまにもだらりとたれてしまいそうな腕をなんとか保つように、指先が制服をつかんでいる。私はいま、どんな顔をしているんだろう、おねがいだから、傷ついたような顔はしていないでほしい。ミーナはいまにもなさけなくとじてしまいそうなまぶたを必死にあげて、かなしくふるえる肩をだいてあげたい衝動をこらえながらふるえる息をついた。

「……ごめんね、トゥルーデ、ごめんなさい…」

 ぱたり、と音がする。それがバルクホルンの涙が大学の写真にあたってはじけた音だということを、ミーナはみとめたくなかった。

「なんだよ、なんだよそれ……」

 悲痛なさけびが、ミーナの胸のほうからひびいてくる。おかしい、そんなのってない。バルクホルンらしからぬおしつけがましい怒りが、ミーナにいきおいをつけてぶつけられる。たった一滴でかれてしまった涙は彼女のほほをもうぬらすことはなく、かわりにゆがんだ表情が顔面にひろがっていた。トゥルーデ、と名をよびたかったが、それすらもゆるされない気がしてミーナはとてもこわくなる。私は、と、先程きりだしかけた。あのとき、私はなんて言う気だったのかしら。逃避にちかい思考がひろがりかけた自分の身勝手さに寒気すらおぼえ、その瞬間に入口でがらりと音がしてぎくりとした。

「こら、廊下まで声きこえてる。ここはさわぐとこじゃないわよー」

 つぎにきこえてきたのはわかい教師の声。どうやらぎくりとしたのは目前のひともおなじだったようで、反射的にバルクホルンはミーナから身をはなす。ふたり同時に見つけた怪訝そうな教師の表情に、彼女は我にかえったようすで息をのみ、そのままかけだした。わっとおどろいた声をあげる教師のとなりをぶつかるいきおいですりぬけて、中途半端にあいていたのをいましがた全開にされたらしいドアをくぐっていく。するともう、ミーナからはバルクホルンは見えなくなってしまった、ばたばたとあのひとらしからぬ冷静さをかいた足音だけが、とおざかっていった。

「…ええっと」

 呆然ときえる足音を耳でおいかけていたが、そばからなげかけられた声に現実にひきもどされる。はじかれるように声の主を見た。やっとまともに認識できたそのひとはウィルマ・ビショップ先生で、彼女はゆっくりとしたまばたきをしながら生徒がひとり走り去ってしまった方向をぼんやりとながめていた。

「おいかけなくてもいいの?」

 唐突になげられた、他人からの余計な指摘だった。かっと怒りがわいたことをミーナが自覚するよりさきに、彼女はくっと唇をかみ、口走った。先生には、関係ないです。ミーナは先程からバルクホルンがまったくらしくないほどに動揺していたとしっていたが、自分自身にもそれがあてはまっているとは夢にも思っていなかった。そのために、はっとするにはいささかおそすぎた。

「……す、すみません」

 むこうから返事がくるまえに、ミーナはにげるようにしゃがみこんだ。ちらかした資料をかたづけたかった、そうすることでおおくのことをごまかしたかった。はやく、でていってくれないだろうか。ミーナがそう望むことに反し、ウィルマのうごく気配はない。教師にするような物言いではなかった口ごたえをとがめることもないまま、先生はなぜかそこにいた。

「かたづけは、あたしがやっておくよ」

 さらにはそんなお節介まがいのことを言われて、ミーナの感情はまたゆらぐ。あなたには関係ないと言ったばかりなのに、どうしてほうっておいてくれないの。こどもじみた反抗心がわきあがるが、しかしウィルマは簡単にそれをおしつぶした。

「そんなにふるえた手じゃ、一枚だって資料をひろえないでしょう。あたしがやったほうがさっさとおわるわ」

 淡々とした指摘は、かっとミーナのほほを赤くそめさせた。動揺を言いあてられたこと、友人と仲たがいをしたようなようすの自分を気づかってくれているのだというのがうぬぼれだったこと。それらの事実によって生じた羞恥心がぐるぐると頭をまわって、そのつぎにはたちあがりかけだしていた。先程のバルクホルンのようにウィルマのとなりをすりぬけて、ミーナは廊下へとにげだしてしまう。
「……」

 それをおうでもなく見とどけた教師は、しばらくあけはなたれたドアをながめたあとに息をつく。

(おいかけねえな、あれは)

 なんと青くさくていとしいようすなのか。ウィルマはかすかな感動をおぼえつつ、さっさと床にちらばる資料たちに手をのばす。たしかあの子は、このあいだまでバスケ部の部長をやっていた子のはずだ、そのころからのおとなびた言動と冷静な態度を思いだして、ウィルマはふうとまた息をつく。

「青い春だわねえ……」

 しみじみとしたつぶやきがもれ、作業はまもなく完了する。そんな生徒の年相応の表情を見つけてしまい、少々気分が高揚しすぎたらしいのだ。思わずでたつきはなすようなことば、あれはすこしおとなげなさすぎたかと思いつつ、ウィルマはそれでも少女たちのみじかい青春に手をだす気にはならないのだった。

09.06.28 うらぎりのはなし