腕をつかまれたのでおどろいてふりむくと、そこにあったのは大層まのぬけた笑顔なのであった。
「あのー」
「はいはい?」
はいはい、じゃないっつうの。エーリカは背後からとんでくるのんきな返事にいちいちいらだってしまう自分にあきれながら、歩調をゆるめることはない。ぶんぶんと彼女が腕をふるたび、手にさげられたビニール袋はかさかさとなった。
散歩もかねてコンビニまで食後用のおやつを調達しにいった帰りだった。ウルスラ、と。たしかに妹の名をきいた。その瞬間に左の二の腕がつかまれてかなりびっくりする。あわててその原因をたしかめるためにうしろをむけば背の高い女のひとがたっていて、にこにことした笑顔をエーリカにむけている。それから彼女はなにかを言いかけたが、それよりもさきにあることに気づいたようすであった。あれ、ああそうか、おねえさんだ。ぱっとはなされた手が、そのままエーリカを不躾に指さしてくる。まったく突然の展開、混乱のさなかに、それでもエーリカはなんとか最低限には状況を理解することに成功する。このひとはいまわたしのことをおねえさんと言った、つまりは、こいつはわたしの妹のしりあいなわけで。
「ウーシュのなに、あんた」
思わずでてきた初対面の人間に対する第一声は、それはもう、自分でもおどろくほどのつめたいうえに失礼な声色と内容であった。エーリカは思わず呆然としつつも、それでも謎の人物をにらみつけることに余念のなかった己にむしろ感心するばかりである。
「どこまでついてくんの?」
「えっと、えへへ、そういえばウルスラのうちってどこにあるのかしらないなあと思って」
ぴたり、と足をとめる。途端、わお、というわざとらしい声とやわらかい衝撃が背中にあたる。……こいつ、絶対わざとぶつかった。先程の声の感じからして、おそらく背後の人物は三歩はエーリカからはなれていたにちがいがなかった。それだというのに、だってそっちが急にとまったんじゃない、とでも言いたげなちいさな悲鳴でもって、彼女はエーリカの背中にその身をぶつけた。おまけにそのまま両の肩に手をのせて、ひょいとエーリカの顔をのぞきこむ。するとやはり先程ぶつかったやわらかいものが背中にあたってうんざりする。
「やー、ほんとにそっくりね。かわいいの」
「さわんないでください」
心底いやでしかたがないと主張するうごきで身をよじる。エーリカはたしかにこちらの態度は年上に対するものでないと理解していたが、それもしかたがないと早々にわりきっていた。思わずでてしまった、あとから考えればかなり切実であったいちばんはじめの質問を、うわあそっくりだかわいいかわいいと大騒ぎされてごまかされたことにより、エーリカのこの女に対する評価は地の底までおちきってしまっていたのだ。
「てか、家までついてくるとかストーカーじゃん」
河原のとなりにある土手のうえはあるきなれた場所なのに、いっしょにいる人間はまるで他人なのだ。そういえばむかし、ウルスラといっしょにここに咲くちいさな花を観察したことがあった。しかしいまはそんなことをしているひまはない。ぐいと本気で腕をまわして自分を拘束している人間をおしやってふりかえり、まだあかるい夕方のなかで笑っているおとなをにらみつけてみる。おかしいなと思う、こんなふうにわざわざ敵意をむきだしにするなんて、弱味を見せつけるようなものなのにまるで我慢ができない。
「あはは、ウルスラとそっくりなのに言うことが全然ちがう」
なんてかわいいの。たのしげなことばとともに、おおきなてのひらがふってくる。ぽん、とまずは頭のてっぺんにそれがのり、それからおなじ行為がなんどかくりかえされてやっと、エーリカははっとした。なんてなれなれしいやつなんだろう! 唐突にわいてきたいらだちはおさえようもなく、ぺしんと自分の頭をなでつける手をはらいのけた。それからばかのようにかわいいと言いつづけるやつに暴言でもはいてやろうと思うが、ふと気づいてしまう。そのほめことばは、最近べつのひとにも言われた覚えがあった。ひどくおどろくべきひとからいただいた賛辞だったはずだ。エーリカはすっと冷静になっていく思考に、かすかにあせる。
エーリカだって、ウルスラにおとなのともだちがいるらしいということくらいは把握していた。たまに夕食なんかをごちそうになっているようだったし、休日にいちにち家をあけてとおくへでかけることもあった。べつに彼女からきいているわけでもない、こちらからきくこともない。だけれどエーリカはなんとなく、自分は妹のすべてをしっているようなつもりでいた。
(ウーシュはいつも物静かで、わたしがひっぱってあげないとうごかなくて、いつも、わたしがなにかをしてあげていて……)
だからこそ、ふうんそうなのおとなのともだちとかうらやましいなあ、程度のあっさりとした感想しかいだいていなかった。それは、あくまで自分がしらぬウルスラなどこの世に存在しないとこころの奥底で思いこんでいたからこそ存在し得た自信であった。にわかに自覚した、まのぬけた無意識のうぬぼれ。
(かわいいから、すき)
いまでも鮮明に思いだせる、ウルスラからうけとったことば。とてもふしぎだったのだ、かわいいだなんて、エーリカにとってのウルスラはそんなことを言ったりしないし、エーリカにやさしくふれるようなこともなかった。それこそがエーリカのしっているウルスラで、それ以外であるはずがなかった、だって、エーリカはウルスラについてしらぬことなどないはずなのだ。
(そうだよ、ウーシュは、そんなこと言わないはずだもの)
それなのに。唐突に現実感をおびた、ウルスラのそとの世界。わかっているつもりだったそれは、思いのほかずっとずっとひろい。たとえば、べつべつになってしまった高校でちゃんとともだちができるのか心配をしていたけれど、それについての相談をうけるようなこともなく彼女は淡々と高校生活を満喫しているらしいこと。当然のことなのだ。ウルスラはウルスラだから、エーリカがいないとなにもできないようなことはない。おとなのともだちだっていて、そのひとからいろんなものをもらっていることだってなんらおかしなことではない。むしろよろこばしいことで、エーリカが望んでいたことでもある。
ウーシュ、本ばっかり読んでないで、いっしょにそとであそぼうね、そしたら、きっとあたらしいことが見つかるんだから。世界は本だけじゃないとウルスラにおしえてあげたくて、うちにこもりがちな妹をそうやってつれだした。おなじように、世界は姉だけじゃないと、ウルスラはきっとずっとむかしに気づいてしまっていたのだ。
「もう、ついてこないでよ、でないと、警察よぶから」
ひくい声で言って、くるりとからだを反転させて家路をいそぐことにした。こどもじみた捨て台詞でもってさっていく歩調をはやめる。ついてくるような気配はなくてほっとして、しかしかわりに背中でおーいというよびかけをうけとってしまった。
「そういえばこんどウルスラと遊園地にいくんだけど、いっしょにいく?」
まるで無邪気な問いかけ。このひとってよっぽどのばかか、そうじゃないならきっとすごくやさしいひとなんだ。だってさっきからあんなに邪険にあつかわれておいて、それでもわたしのこと全然きらいじゃないような顔してる。エーリカはそっと足をとめ、ゆっくりとふりかえった。
「いかない、だってあなたはウルスラのともだちで、わたしのともだちじゃないもの」
世界は姉だけじゃないし、世界は妹だけじゃない。いっしょにうまれていっしょにくらしてきた双子は、だけれどべつべつの人間なのだ。そうと自身に言いきかせるように、エーリカはきっぱりとした口調でもって、素敵な誘いをことわった。
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「プリンがあるよ」
いつもどおりにふたりですませた夕食のあと、姉が唐突な申し出をした。いっしょにたべよう、さっきコンビニで食後のおやつかってきたんだ。冷蔵庫からだしたばかりのつめたいカップをてのひらにのせ、エーリカはウルスラに、甘い誘惑をもちかける。
「……ひとつしか見えないけど」
「そうだよ、ひとつしかないもん」
クリームがたっぷりかけられた黄色いスイーツは、しかし両人がみとめるとおりにたったのひとつしかないのであった。ウルスラは首をかしげた。ということは、これはエーリカがひとりでたべるためにかってきたものにちがいがない。もしもとからいっしょにたべる気でいたのなら、当然のようにふたつのおなじプリンをかってくるはずなのだ。
「いい、エーリカがかってきたんだから、エーリカがひとりでたべたらいい」
「わたしがたべようって言ってるんだから、いっしょにたべよう」
さっさと自室にもどろうとしたところできゅっと手をにぎられひきとめられて、おかしな感じがした。ちらりと表情をぬすみ見るけれど、ふだんどおりのかわらないにこやかな顔があるばかりだった。しかしすなおにうなずくような気にもなれないし手をにぎりかえすこともできずにいると、エーリカはじゃあと思いついたようにプリンのカップをテーブルのうえにおいてしまう。じゃあ、いっしょに散歩にいこう。
夕食の時間がすこしはやめだったから、まだ太陽はおちきっていないような時刻だった。しずむ夕日のよく見える河原の土手を、ふたりであるいた。いっしょに散歩だなんて何年ぶりだろうか。ウルスラはなんとなく思い出にふけるが、この淡々とした歩行はなんだかエーリカの言う散歩とはちがうもののように思えてきてそれを中断した。あるいているだけでいろんなものが見つかるよとむかしにおそわったことがあって、エーリカはそれはそれはたのしげにきょろきょろと視線をあちらこちらにとばしていた。だというのに今日のエーリカはときたら、ぼんやりとななめうえのほうをながめるばかりなのだ。
「エーリカ」
「……なあに」
よびかけても、返事は半拍ほどおくれている。こんなことは、ふだんならば彼女がねむいとき以外にありえない。しかしいまのエーリカがねむくないということは明白だった。だってもしも眠気をすこしでも感じでいるのならば散歩にいこうだなんて言いだすはずがないのだ。
なんとなく視線をさまよわせると、河原であそぶ子たちを見かけた。四人くらいの、ウルスラたちもすこしまえまできていた中学の制服をきた女の子たちが、川にむかって小石をなげている。たのしげなようす、ウルスラはまた首をかしげる。ああいったものを見つけるのはいつだってエーリカがさきで、石きりなんてなつかしいね、わたしたちもしてこようか、と返事もきかずにウルスラをひっぱっていってしまうはずだった。それなのに、エーリカはやはりぼんやりとしてばかり。
ふと、手をとられる。ぎくりとしてとなりをあるく姉を見た。するとエーリカはぱちぱちとまばたきをしていて、うんとひとりでうなずいてしまう。
「ねえ、わたしは、ウーシュといっしょに遊園地にはいかないけど」
唐突な話題、ぽかんとしてしまったウルスラはなにそれとききかえすこともできず、にぎられるてのひらにばかり意識を集中していた。あたたかい、おなじおおきさの手。にぎりかえそうか、どうしようか。思っているうちに、エーリカが話をつづける。こうやって散歩をいっしょにするし手だってつなぐし、プリンだっていっしょにたべるんだ。ウルスラがきめかねているうちに、かわりにエーリカがてのひらにさらに力をこめる。
「そうか、ねえ、べつべつだから、いっしょにできるんだよね」
ひとりでしゃべっているエーリカは、急にすっきりしたような顔をした。ああ、なんだかつまんないことでなやんじゃったなあ。ぶんぶんとつないだ手をふりまわし、エーリカはおもしろくなさそうにつぶやいた。そこでウルスラはそうかと思う。そうか、さっきからおかしなようすだったのは、なやみごとがあったから。
「なにをなやんでたの?」
「それはひみつなんだけどね」
くすっといたずらっぽい笑い声をたてて、エーリカがウルスラの手をひく。ね、もうかえろうか。自由気ままな提案をして、やはりウルスラの返事なんてきいていない。ああ、すっかりといつものとおりだ。急にひとりでなやんですぐにひとりで解決してしまう、本当に気ままにすごしているひとだなあと思った。ふと、河原のほうから女の子たちの笑い声がした。たのしげなひびきが夕焼けの橙の雰囲気のなかにひびいていて、しかしここでひとつふだんどおりでないことがあった。あんなにたのしげな声がしたのにそれには全然気をとられないで、エーリカはウルスラばかりに笑いかけているのだ。
「ウーシュ、プリンをちゃんといっしょにたべるんだよ」
さっきから、なにをこだわっているんだろう。ウルスラは内心で不審がりながら、ちらりと川辺の中学生を観察する。エーリカににぎられてひかれるてのひらがすごく心地よくて、たのしいあそびに勝てた気がした。うん、たべるよ、プリンくらい、いくらでもいっしょに。エーリカといっしょに。すこしだけ気分を高揚させて、それでもそう声にだすのは気恥ずかしかったから、ウルスラは、そっといちどだけうなずくことにした。
09.06.28 ふたごのはなし
むろさんから頂いたネタを書かせていただきました