「せーんせ」
窓のそとの植えこみのあいだからのんきな声がきこえたが、智子はそれを完全に無視した。その理由はふたつある。そこからそんな声がすることを認めたくないことと、そんな声にかまっているひまはないこと。せんせい、無視しないで。しかし智子ときたら自覚がないながらにかなりのおひとよしであるので、ふた言目のその台詞にはうっせいとちゃんと返事をしてあげる。
「あんたに先生とかよばれる筋合いない」
「えへへ、そっちいってもいいですか」
「不法侵入ですね、そこにいる時点ですでに。事務のおっさんよばれたくなかったらかえれ」
「警察じゃなくて事務のひとっていうところが智子さんのやさしさですよねえ」
デスクのうえのワープロをにらみつけるままに暴言を吐くが、窓のそとの人物はいっこうに気にしていないようすである。おまけに最後の台詞はゆっくりととおざかっていき、しばらくしてからこんどは正規の入り口がからりとあいた。ちょうど保健室のとなりにあるグラウンドへとつづく勝手口、それがやつおなじみの侵入ルートだった。
「あのね、せめて事務室よってからきてくれる?」
「グラウンドのはしからお邪魔するのがスリルあるんですよー」
しつれいします、と礼儀正しく言い、ハルカはかろやかな足どりで智子のそばまでよってそこにあった患者用のまるい椅子に腰かけた。
「そもそも、事務室いってなんて言えばいいんですか」
「卒業生ですとかてきとうなこと言ったら入校許可書もらえるわよ」
「へー。防犯あまいですね、危機感うすいなあこのご時世に」
くるくると椅子をまわして、するとうえにのったハルカもいっしょにくるくるまわる。たいへん目障りであったが、智子はそれ以上しゃべらないとこんどこそきめる。せめてなんの用かときいてやろうかと思ったが、そもそもこの暇人は用がなくともひとの邪魔をしにくるのだからその問いに意味はない。智子さん、きょう時間あります? お仕事がおわったらデートしませんか。見たい映画があるんですけど、あ、そうそう、おいしいパスタのお店もみつけたんですよ。おしゃれなんだけど気どりすぎない感じの。きっと智子さんも気にいるんじゃないかなあ。あ、そういえばこないだうちの近所にコンビニできたんですけど……。
どん。と音がなる。わっとハルカは声をあげ、音源である机のうえにたたきつけられた智子の右のこぶしを見おろした。
「……あのさあ」
しかし、彼女はたいへん気がみじかいもので、決心は一分ももたずにくずれるのであった。あたしはいま仕事中なの一目見りゃその出来のわるいおつむでも理解できんでしょうがちょっとだまってろできねえんならかえれ!! 声を大にしてそうさけんでやりたかったが、やつのためにのどをからすなんてまぬけにもほどがあったのでやめる。
「かえってください」
「つめたいー」
「ああああうざい……」
かと言って冷静に対処してみても、ストレスがたまるというリスクはさけられなかった。この変態をいったいどうやったら効果的においはらえるのだろうか、もしその方法を教授いただけるなら五千円までならだします。少々せこいことを思いうかべながら、智子はずるずると机に突っ伏した。
「智子さん、大丈夫ですか」
「まじだまれおまえ……」
数秒の沈黙、その後急に智子はがばりと身をおこした。それから勢いよくワープロをとじそれを机のはしまでおしやりがっと湯のみをにぎりしめる。
「茶」
「あ、はいはい。わたしのぶんもいれていいですか」
「うん」
それをハルカにつきつけると、彼女はすなおにうなずいた。上機嫌そうにたちあがり、手なれたようすで電子ポットのあるほうまであるいていく。それを横目でながめて、つぎに背後でこぽこぽと音がなりはじめたあたりでせんべいに手をのばした。それからふうとため息をつきぐっとのびをした。
「あんたさあ、店番放棄していいわけ」
「えへへ、きょうは臨時休業です。あのお店は、わたしがやすみたいときがおやすみなんです」
「年中無休がうりだったんじゃないの」
「それは先代の話ですねえ」
「……おじいさまもうかばれないわ」
ぼんやりと、裏路地のなかのふるびた本屋を思いうかべた。窮屈ななかにならぶすすけた古本たちと、妙におちつく雰囲気。意外とすんでいるその空気は、現在の店主にはにつかわしくないほどに洗練されているように思われる。
(歴史を感じるっつうかね)
ちらりととなりの子を見る。いつのまにやら自分専用の湯のみをおいていたようで、それを両手でもっては息をふきかけている。ぼんやりながめたままになっているとふと顔をあげたハルカと目があってしまい、不本意ながらぎくりとした。
「どうせなら、もうしめちゃえばよかったのに。そっちのが潔かったと思うんだけど」
「わたしもそう思うんですけどねえ。あのお店、じつはうちにはもう権利ないんですよね」
「なんで?」
「ほら、うちがちょうどたいへんな時期だったじゃないですか」
「ああ、あんたの大学受験失敗ね」
「いやあ、ははは……。まあそれはどうでもいいんですよ。それにおじいちゃんの葬儀やらなんやらかさなっちゃって、もう実家のおかあさんもおとうさんもお店の行方どころじゃなかったんですけど、世の中にはものずきってやつがいるものでして」
「店引き取るってやつがでてきたの」
「ビンゴです、いやあほんと、お金持ちってなにかんがえてんのかわかんないですよねー。うちの両親ときたらラッキーとばかりにまるなげですよ。んでちょうど春からすっかりひまになっちゃうわたしがいたものだから、破れ鍋に綴じ蓋ってやつですか、見事に雇われ店長の座についたわけです。だからわたしってこう見えてサラリーとかもらっちゃってるんですよ」
「へえーしらなかった。ニートくずれかと思ってた」
「しつれいな」
「じゃあ勝手にやすんじゃまずいんじゃないの」
「まあ経営は全面的にこっちにまかせてもらってるんで……」
あははとあいまいな笑いかたをされて、智子はやっぱりニートだとこころのなかだけで思うことにする。なんだかんだと言っても、あの店がのこるのはわるいことではないのだ。
「あー。ひさしぶりにいこうかな、本屋」
「わ、ぜひぜひ。きてください。智子さんなら割り引いちゃいますよ」
「あと、そうね。あんたんちのおかかえシェフにパスタでもゆでてもらおうか。おいしいお店なんていかなくてもね」
「げー、やめてくださいよおかかえとか。あのひともしかしたら本気でうちに居候する気なんですよね……」
「いいんじゃない、それこそ破れ鍋に綴じ蓋じゃない」
「どうせならわたしは智子さんといっしょに鍋と蓋になりたいです!」
「ふうん」
智子はハルカのプロポーズまがいのことばをさらりとかわして茶をすする。認めたくないが、やつのいれるお茶はたいへんおいしいのであった。
「あれ、そういえば仕事途中なんじゃないですか」
「さんざん邪魔しといてから言うんだ……」
ハルカのほうもなれたもので、相手にされないことをすっかりうけいれてぱちぱちとまばたきをしている。智子はすこしうんざりとしつつも肩をすくめてみせた。
「ほとんどおわってて、あとは最終確認だけだったんだけど、完璧にしあげるには最終確認とか超大事な段階だからね。でもあんたがうるさいからどうでもよくなった」
「智子さんって完璧主義ですもんね」
「凝り性なだけよ」
ふと、グラウンドのほうからちいさな喧騒がとどく。しずかな午後、白い保健室、やわらかい風。なかなかの癒し空間だというのに、いったいどうしてこんなやつと肩をならべて茶なんぞをすすっているのだろう。智子はふっと息をつき、またせんべいに手をのばす。
「いやあ、中学生って元気ですよね」
「あんたも見た目だけなら中学生よ」
「まさか、こんなにセクシーな中学生がいてたまりますか」
「へいへい」
「でもまあ、セクシーさは智子さんには全然かないませんけどー」
「そりゃどうも」
ふたりして視線がそとへとむかう。先程とおなじように、少年少女がグラウンドをかけている。みんな、けがしちゃやあよ、仕事がふえるんだから。怠惰な感想をいだきながら観察した。していると、急にハルカの顔面が視界にあふれた。
「どわっ」
ぎょっとして椅子からずりおちそうになってなんとかこらえる。先程まで智子の右側で椅子に座っていたはずのハルカは、いつのまにやら彼女をはさんで反対側である窓の側まで移動していたらしい。
「智子さんって〜…」
至近距離からじと目が見つめてくる。非常に居心地がわるかったのでやつの肩をおしやってにげた。
「なによ、急に」
「あの、おことばですが中学生に手をだすのはいけないと思います」
「はあ?」
脈絡のない発言に、頓狂な声があがる。しかしむこうは非常に真剣な顔をしているので、怪訝さは度をました。
「だって、そんなに熱心にこどもたちをながめて…、さっきだって中学生の子口説こうとしてました」
「は?」
「犬っぽいとか犬がすきだとか……」
「……」
こいつ、盗み聞きかよ。智子はハルカの不届きな行為を推測し、さらにまぬけに見当ちがいなことを言われて頭がいたくなる。この女の頭のなかにはそういうことしかないのか。
「変態ってわたしのことですか」
「そこからきいてたんか。まあそうだけど」
「ひどい!」
くい、と急にあごをもちあげられる。椅子に座っている智子の背後にたち、ハルカは両手を彼女のほほにそえて見あげさせ、自分は見おろした。げっと思う間もなく、ハルカが上下が逆転して見える顔をよせてくる。
「……わたしはきずついたんです、キスしないとなおりません」
「意味がわからない」
が、すんでのところでふたつの唇のあいだにてのひらをすべりこませることができたので、それらが接触することは阻止できた。そのままハルカの顔にはりつけたてのひらをぐいとおしてやつのからだごとひきはがす。
「智子さんってつめたいと思います」
「じゃあやさしい恋人つくれば?」
「……ほんとつめたい」
すこしかなしげな声色がした。智子はかすかにまゆをよせて、それから背後からさるようにとしっしと手をふる。しぶしぶハルカはそれにしたがって、またさっきの椅子にこしかけた。そしてだまってしまうので、智子はきょとんとまばたきをせずにいられない。ふむ、と鼻をならして、しかたなしにこちらから話をしてやることにする。
「べつに口説いてないし」
「……」
「生徒はかわいいもんじゃない。それだけのことよ」
「……」
ほほをふくらませ唇をとがらせて、ハルカはすねたようにそっぽをむいてしまった。かわいいつもりか。智子はとんとほおづえをつき、ため息をついた。この子が自分のため息をきらいだとしっての行動だった。そうすれば大抵の場合はむこうからごめんなさいもうすねませんとあやまってくるはずなのに、しかしきょうばかりはそうもいかなかった。
「ハルカのくせにおこってやんの」
「智子さんってひどい」
「そもそも、あたしすねられるようなことしてないよね」
「……」
だんまりである。正直、なにをおこっているのかまったくわからなかった。やつがきいた生徒との会話なんて、ただの世間話の域をでない程度のものではないか。ぼんやりと悩みつつ、そうすることもあきてきたころにやっとハルカが口をひらく。わたしの将来も心配してください。
「……なんだそれ」
まぬけな声がでてしまう。将来の心配。そういえば、先程の女生徒にそんなことを言った気がする。そこまでは理解できたが、だからなんだという話じゃないか。しかしハルカがまただまってしまったので、智子は首をかしげつつまあねと言った。
「あんたの将来のが心配よ。あの本屋ともいつまでつきあえるかわかんないしね」
おわかれしたら、こんどこそニートだもんね、あんた。ほおづえをついたままハルカをながめた。これでいいのかな。彼女の機嫌がなおることを半信半疑ながらのぞんでいると、彼女はひょいと顔をあげた。
「……えへへ」
そしてうれしそうに笑うものだから気がぬける。本当にいまので正解だったのか。
(わけのわからんやつだわ)
もしそうなったら、智子さんにやしなってもらうんで大丈夫です。すっかり調子をもどしたハルカがまた軽口をたたいている。智子は、すこしほっとしている自分にげんなりしつつも、やつの発言を否定することはわすれない。
「それは絶対ないね」
「えー」
ひょっとして、と思う。大学におちたときいてからも、なぐさめのことばを言ったことがなかった気がする。ふうんそうなの、といつものとおりにながしてしまい、気にすらとめていなかった。ねえ、本当は不安だったの、心配してほしかったの。受験を失敗したくらいなんてことはない、将来なんてどうにでもなるって、そうなぐさめてほしかったの。智子は、一所懸命がんばって挫折した人間の気持ちをうまく理解できなかった。がんばればできてしまう、できないのはがんばらないから。いやなやつだ、と今更ながら自覚した。
「……ま、どうにかなるわよ。現にいまだって、どうにかなってるしね」
ぽん、と頭をなでてやる。まったく、とんだサービスディときているではないか。ぽわんとほほをそめて、ハルカがまばたきをする。こんなくらいで、よくもそんなにうれしそうな顔ができるものだ。智子は肩をすくめて、むこうが調子にのらないうちにさっさと手をはなしてまた茶をすする。すっかりさめたそれ、それでもおいしい。
「……あ、智子さんの白衣発見」
しかしきょうのやつは非常にしおらしく、こちらがこんなに甘やかしたらここぞとばかりにせまってくる普段とは大違いにてれた顔をして、話をそらすようにたちあがる。それから椅子の背もたれにかけっぱなしの白衣を手にとった。
「保健室の先生が白衣きてないのってだめだと思います」
「白衣きらいなんだもん」
ハルカは了承もえずに、ひとの白衣をぱさりときこむ。
「えへへ、智子さんのにおい」
「残念ながら洗濯してからいっかいもきてないんだけどね」
「……あれ」
すんすんとしつこく鼻をならしている。気味がわるいと非難してみても結局やめない。智子はなんとなくそれを見つめてから、こんどはグラウンドへと視線をうごかす。
(大丈夫よ、あんたも充分犬っぽいから)
言いたくない台詞を思いうかべ、まるで中学生に夢中であるかのようなふりをするためにそとを見た。けれど、ハルカはもうそんなことでは動揺しないのであった。
09.10.01 しょうらいのはなし