つたない演奏のさなか、まのぬけた不協和音がひびいた。

「あ! またルッキーニがまちがえた!」
「えー。うそだあ」

 ちいさな部屋のなかのひくくてちいさなテーブルのうえに、みっつの教科書がひろげられていた。それにはいくつもの五線譜がならび、さんにんの少女たちがリコーダーをかまえながらのぞきこんでいる。

「あしたこれのテストなんだよ、まじめにやってよ」
「やってるよー」

 失敗を指摘されたルッキーニが、ほほをふくらせてぷいとそっぽをむいた。そのふてくされた態度にむっとしたヘルマは、またルッキーニに文句を言った。だいたい学校でちゃんとしてくれないからやすみの日にまで練習しなくちゃならなくなったんだよ、ルッキーニのせいなんだよ。説教じみた同級生のことばを、ルッキーニはすっかりききながしている。

「ねえねえ、しゃべってても練習にならないよ」

 そのようすをまばたきしながら観察していた部屋の主が、やっと口をひらく。これの練習おわらないと、きょうの本題にはいれないよ。冷静な口調が的確な指摘をして、ふたりの友人の視線をあつめる。クリスはそれを見かえしながら、とんと教科書を指でつついた。

「じゃあ、ここからもういっかいね」
「はあい」

 ベッドと本棚とクローゼットくらいしかない部屋のなかに、リコーダーの音がひびく。そとに音がもれてははずかしいから、窓はしっかりとしめてあった。音楽の授業の課題、三人一組でのリコーダーの演奏。かなり早い段階から開催されるときかされていたそのテストだったが、おいつめられるまでなかなか練習に身がはいらなかったせいで、少女たちは前日になってやっとまじめな顔であつまった。
 とはいえ、きょうの集会は、先程のクリスの発言のとおりこれが本題ではない。

「やった! やっとノーミスで最後までできた!」
「わーい。じゃあ練習おわりね」
「なに言ってんのさ、なんかいもとおしてできるようにならないとだめだよ」
「げー」

 まじめなことを言うヘルマに、ルッキーニが辟易した顔でだきつく。

「もういいじゃん、できたじゃんー」
「いっかいできたって本番でまちがえちゃ意味ないんだよう」

 じゃれあうふたりをながめながら、クリスが腕をくんでううんと首をかしげた。ヘルマは個人練習をちゃんとしているから、自分のパートをまちがうことはない。ルッキーニは、うらやましいほど本番につよいタイプ。そしてかく言う自分も、本番でへまをするようなことはない自信がある。

(まあ、こんなもんかなあ)

 ひとりで勝手に結論づけて、リコーダーをかたづけにかかる。するとあいかわらずじゃれあっていたふたりが同時にクリスのほうを見て、思い思いの反応をしめした。

「やた! 練習おわり!」
「ええ、クリス、ルッキーニの味方するの?」

 とはいえ、このふたりは基本的にクリスの判断にさからうことはない。五年生にあがったところでのクラス替えにてはじめてクラスメイトとなったさんにんは、ことしで二年目のつきあいだった。感情的なヘルマとルッキーニとは対照的に、クリスはものごとをちゃんと考えて決定することができる子なので、友人連中からはなんとなく一目おかれていた。
 ルッキーニはクリスの気がかわらないうちにさっさと机のうえをかたづけはじめ、ヘルマもクリスがそうするなら大丈夫かなあという顔でしぶしぶそれにつづく。

「ねえねえ、そんでさあ。運動会まであと二週間しかないよね」
「はやいねえ、こないだ六年生になったばっかりなのに」

 さっそくとばかりに、件の本題にはいる。それというのも、今月末にひかえる運動会にておこなわれる、応援合戦の案だしである。応援合戦と言ってしまうと大げさだが、実際はひとつの団につき一曲の応援歌を歌っておどるだけのものだ。とはいえ、少女たちは真剣である。あの歌がいい、こんなおどりがいいと口々に言いあって、まじめな顔で討論した。先程のリコーダーの練習ではぐったりしていたはずのルッキーニも、もちろん例外ではない。
 ふと、ノックの音が響く。瞬間、クリスはすこし眉をよせ、ヘルマは緊張したように背筋をのばした。

「…なあに?」

 部屋の主が、そっけない声をだす。するとドアがそっとあいて、彼女の姉が顔をだした。

「こんにちは。練習はかどってる?」

 ヘルマとルッキーニがいっしょにこの家に訪問したときとおなじく、バルクホルンはやさしげな笑顔をうかべていた。そして彼女が手にもっているのは、おやつをのせたトレイである。

「ちょうどケーキがあったから、たべないかと思って」
「ケーキ!」
「ええ、いいのに、そんなの」

 反射的に目をかがやかせたルッキーニのとなりで、クリスはどうしてか不服そうな顔をしていた。それに気づかぬバルクホルンは、みっつのショートケーキとジュースののったトレイをひくくてちいさなテーブルのうえにおこうとする。入口にいちばんちかいところにいたヘルマはさっと手をのばし、バルクホルンを手伝うようにトレイをうけとった。するとありがとうと言ってもらえて、ヘルマはすこし顔を赤くした。

「口にあえばいいけど。それじゃあ、練習がんばって」

 もう練習なんておわっているとはしらない彼女はそう言いのこし、部屋のドアをしめた。瞬間ルッキーニはケーキにくいつくが、のこりのふたりは全然ちがう色の視線をそのドアにおくるばかりだった。

「クリスんちってすごいね。いっつもケーキあるんだもん」

 てっぺんのいちごにフォークをさしながら、ルッキーニが感心する。先日おなじ面子でここにあつまったときも、おいしそうなケーキがはこばれてきたのだ。あの日のモンブランを思いだしながら、ルッキーニはいちごを味わった。

「まっさかあ。そんなわけないよ」
「でもここにあるじゃん」
「これは、おねえちゃんがわざわざ買ってきたの。いま」
「えー」

 ケーキに夢中なルッキーニは、適当なあいづちをうつ。そしてクリスは、先程の姉の台詞を反芻する。ちょうどケーキがあったから。うそばっかり、と思った。

「こないだのはたしかに偶然あったんだけど。きょうのはたぶんちがうよ。自分のこづかいはたいて、わたしがそういうのやめてって言うのわかってるから、うそまでついてさ」
「やさしいんだね、バルクホルンさんって」

 クリスの愚痴に、ヘルマが見当ちがいな返事をした。しかも、うっとりといまだにバルクホルンのきえたドアのむこうをながめながら。クリスとルッキーニは顔を見あわせ、もういちどへんなようすの友人を見た。

「いっただきー!」

 その横顔があんまりすきだらけだったものだから、ルッキーニは思わずヘルマのまえにあるケーキのてっぺんにフォークをさした。かすめとれたいちごをすかさず口にはこび、すると途端にヘルマが我にかえる。

「あ! ばか! ルッキーニのばか!」
「油断してるほうがわるいんだよー」

 またはじまるふたりのじゃれあい、クリスはぼんやりとそれをながめながら、むかしミーナに言われたことを思いだしていた。

(きっと、あなたのおともだちをちゃんともてなしたいのね、トゥルーデは)

 だから、ね、すこしだけおおめにみてあげて。姉がそういう余計な気をつかうことを年上の幼なじみに愚痴ると、彼女はそう言ってクリスの頭をなでた。ミーナにそう言われてしまうと、なんだかそうしなくてはいけない気がしてしまう。けれど、クリスはちょっとだけいやだった。おこづかいだってそんなにもらっているわけではないのに、それをわざわざ自分や自分のともだちのためにつかう必要なんて全然ない。それでも本当は、クリスだってわかっていた。不器用な姉は、もっとうまい気のつかい方をしらないだけなのだ。そんな彼女らしいやさしさがうれしいのは事実で、でもすなおにはうけとれない。

(わたしって、いつからこんなにひねくれちゃったんだろう)

 むかしからだいすきだったおねえちゃん、やさしいおねえちゃんはかわらないのに、クリスは自分ばかりがかわってしまったと思っていた。

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「わたし、これもってくよ」
「え、いいよ、どうせ……」

 おねえちゃんがとりにきてくれるんだから。おやつの時間もおわり、運動会にむけての話しあいもなんとなく決着がついてきた頃合い。クリスはそう言いかけたが、かたづけに名のりでたヘルマを見て思いなおした。奇妙に緊張した面持ちで、彼女はあいた皿やコップをのせたトレイをもってたちあがるのだ。ううん、とすこしだけ思案してから、うんとうなずく。

「台所のほうにおねえちゃんがいるかもしれないけど、無視していいからね」
「し、しないよ、そんなの」

 クリスが姉のことを言うと、ヘルマの顔がすこし赤くなる。へえー、と、妹は内心でへんな声をあげた。そのとなりで、ヘルマの異変には全然興味のないらしいルッキーニが漫画をひろげてねそべっているのだった。

「あ、あの」

 台所のほうへいくと、クリスの言うとおりにバルクホルンがいた。緊張しきった声に、彼女がふりむく。台所のまえの食卓に腰かけながら、しかし彼女はそのうえに勉強道具をひろげていた。

「あ、わざわざもってきてくれたのか、ありがとう」

 バルクホルンはたちあがり、ダイニングキッチンに入口のほうにいるヘルマへとちかづこうとする。するとヘルマはあわてて、自分のほうから彼女のほうへとよった。

「あの、あの。おいしかったです、ケーキ。ありがとうございます」
「そうか、よかった。でも、クリスのやつ、ともだちにはこばせるなんて」
「あ、ちがうんです、わたし、自分でもっていくって言ったんです。ケーキいただいたお礼に、せめてって思って」

 へんな声になっていないかと不安になりながら、ヘルマは誤解をといた。すると、そうかえらいんだね、と微笑みかけられてしまい、心臓がひっくりかえるんじゃないかと思うほど動揺した。

「そういえば、リコーダーの練習はちゃんとしてるのかな。途中から全然音がきこえなくなったけど」
「え…、音、きこえてたんですか」
「ああ、さいしょのうちは」

 ヘルマははずかしくなる、あんなへたくそなのをきかれていたなんて。が、一瞬後にはべつのことに気をとられた。

「あ、だから、ここで勉強してるんですか。となりのクリスの部屋で、わたしたちがうるさかったから」
「ん? ああ、べつにそういうわけじゃない」

 この家の姉妹の部屋が二階のとなり同士にあることを思いだして申しわけない気持ちでいっぱいになった。すると気にするなとバルクホルンが手をふる。たまに勉強する場所をかえるだけだ、ずっとおなじ場所だとにつまってしまうから。

「でも、すぐにきこえなくなってしまったな」
「あ…、はい。きょうは、リコーダーの練習と、運動会の話しあいをするはずだったから」
「へえ、運動会」

 バルクホルンがすこしうかれた声色になり、ヘルマはやったと思った。もうすこし、話ができるみたい。うながされて食卓の椅子のひとつに腰かけ、そのとなりにバルクホルンもすわった。

「応援合戦、どんなのにしようかって」
「そうか、小学校のときからあったっけ、そういうのって」
「あ、あの。バルクホルンさんは、運動会いつなんですか」

 バルクホルンさん、と言ってしまってからしまったと思う。ともだちのおねえさんを名字で呼ぶなんて、ちょっとへんかもしれない。いつも、こころのなかでそう呼んでいるから。すこしあわてたが、バルクホルンは気にもしないでうんと言った。

「うちの高校は来月だな。六月。いちおう進学校だから、そういう行事ははやめにおわらせておくんだな。ああ、うちの学校っていうのは……」
「しってます。F高の、バスケ部の」

 また、しまったと思う。さっきからへんなことばかり言ってしまう。その証拠に、目のまえのひとはおどろいた顔でまばたきしている。

「クリスからきいた?」
「あ…その、そうじゃなくて」

 思わず否定してしまい、即座に後悔した。そういうことにしておけばよかった。首をかしげられて、ヘルマは白状するしかなくなる。

「わたし、あの。バスケのクラブにはいってて。そこで、バルクホルンさん有名だから」
「ええ、有名?」

 思いがけぬ小学生の女の子のことばに、バルクホルンはまばたきをした。へんな噂がひろまるようなことは身におぼえがない。が、ふと、いくらでも噂話をでっちあげそうな幼なじみの顔がうかぶ。しかしさすがにちがうかとすぐにとりけした。

「あの、バスケ。すごく上手だって。F高のバスケ部、バルクホルンさんたちが入部してからかわったって」

 正確には、彼女たちが部長や副部長になってから、だった。しかしわざわざ訂正するほどのことでもないうえにてれくさくて、バルクホルンはあははと笑うだけにした。

「おおげさだな。みんなの力だ、それは」
「でも、わたし、すごいなって思ってるんです。むかし、見たことあるんです」

 半年ほどまえ、クラブのみんなと見にいった、高校のバスケットボールの試合。そこに、このひとはいた。コートのなかで、試合の流れを掌握していた、きれいなフォームではなたれたシュートは、けっしてゴールからはずれることはなかった。
 その試合がおわってすぐ、そのひとのことをしらべた。すると、たしかな実力者らしくそれなりに有名で、すぐにくわしくしることができた。そしてなによりおどろいたのは、なんと友人であるクリスの姉であるということだ。だけれど彼女にそうなのかとたしかめることもできず、ずっとこころのなかにひそかにもっていた憧れだった。さっきクリスのまえでへんな態度をとってしまった気がするから、ばれてしまったかもしれない。

「……はは、そうか。あんまりほめられなれてないから、なんだか、てれるなあ」

 ことばのとおりにてれくさそうに、バルクホルンはぽりぽりとほほをかいた。こんなにすごいひとがほめられなれていないなんて、ふしぎなこともあるものだ、とヘルマは思う。

「まあ、私の話はもうよそうか。それで、運動会の話はできた?」
「あ、はい。えっと、曲は…」
「あっと。まった」
「え?」
「その、はは。運動会、見にいくから。それまで、たのしみはとっておきたい」

 クリスのことを思ってか、バルクホルンが目をほそめる。なんていいおねえさんなんだろう、とヘルマは感動しながら、それってわたしも見られるってことだ、と思いついて緊張する。

「あの、私も、高校の運動会にいってもいいですか」
「ん…残念ながら、平日にあるんだよ、高校だと」
「あ……そうなんですか」

 ヘルマはすっかり落胆して、思いがけぬ大げさな反応だったからバルクホルンはあせった。ちなみにうちの高校だと運動会じゃなくて体育大会っていうんだ、と教えてあげるタイミングもうしなってしまい、どうしたものかと思う。すると、すぐに名案はうかんだ。

「そうだ。かわりに、バスケの試合を見にくるってのはどうかな」
「え、いいんですか?」
「もちろん。クリスもきてくれるはずなんだ。とりあえず、県大会。いっしょに応援にきてくれないかな」
「い、いきたいです! ぜったいいきます!」

 息せき宣言すると、おどろかれてしまった。はずかしい。それから、バスケのことで相談したいことができるかもしれないから、というと携帯電話のアドレス交換をこころよく承諾してくれた。電話はでれるかわからないけど、メールなら返事をかえさないってことはないだろうから。そう言われるまでもなく、電話なんてできるはずもない。赤外線で通信をしながら、ヘルマはいいようもなくしあわせな気持ちになっていた。
 ……そんなようすを観察しているひとかげが、ふたつ。

「ヘルマってクリスのおねえちゃんのことすきなの?」
「はっきり言うなあ…」

 階段からおりきらないほどのところから、クリスとルッキーニが顔だけをだして台所のほうをぬすみ見ていた。

「ともだちがおねえちゃんのことすきってどんな感じ?」
「うーん。どんな感じっていうか。おねえちゃんって外面ばっかりはいいんだよねえ……」

 ルッキーニがたいして興味もなさそうにふたりのようすをながめているよこで、さめた妹は、なんともいえぬ気持ちをこめて、ため息をついた。

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「おじゃましましたー」

 元気よくあいさつをして、ルッキーニとヘルマはいっしょにバルクホルン宅をあとにした。直後、ルッキーニがたずねる。

「ヘルマってクリスのおねえちゃんのことすきなの?」
「へえ?!」

 予想できるはずもない問いかけに、ヘルマはすっかり混乱する。なにを言ってるんだろう、すきだなんて、たしかにあこがれているけどべつにそんなんじゃ、っていうか、もしかしてさっきふたりでしゃべってたとこみられてた? 一瞬にしてさまざまなことが脳裏をかすめるが、結局ヘルマはひと言しか言えない。

「る、ルッキーニはすきにならないでね……」
「なんないよー、そんなの」

 その台詞はまさに先程の質問を肯定するものであり、こうやってとっさにでてしまうことばこそが本音なのだと、ヘルマは残念ながら、しらないのだった。

10.08.27 あこがれのはなし