「で、ちゃんと書いたの」
「書いたよ……」
「あはは、シャーリーってほんとはいい子だからねえ」
道路から敷地をさえぎっているひくい石塀に背中をあずけて、数メートルはなれたところでしゃがみこんでいる人物の背中をながめていた。Tシャツの丈がみじかいせいで、腰のあたりの素肌がすこしだけ垣間見えている。シャーロットはまばたきをしてから、背後によった。
「ひゃ」
そしてしゃがみこんでそこを指のさきでつつくと、作業をしていたそのひとはまのぬけた悲鳴をあげてふりかえる。
「まあ、ビューリングって頭おかしいから。まともに話きかないほうがいいと思うねー」
「はっきり言うなあ……」
首だけがシャーロットのほうにむけられていた。彼女の鼻の頭には、白いよごれがかすれている。
あたりは、そろそろ日もおちかけていて薄暗い。そんななかのふるびたアパートは、それでもそばの電灯にてらされてあかるかった。その建物の入口にそなえられたまるい光が、駐輪場のとなりにしゃがみこんだふたりをやわな闇のなかにうかびあがらせている。
「でも、いちおう友人のよしみでフォローしとくと、ビューリングも適度な責任感くらいならあるはずねー。五時になるまではちゃんと教師らしくしてたんでしょ」
「比較的ね」
「気がみじかくて基本的に他人のせいで自分の時間がけずられるのがきらいで、おまけに口も手も暴力的。よくもまあ教師になったと思うねー」
あははと軽快に笑い、キャサリンは作業を再開した。半径十センチほどのまるい缶に、手にもったはけをつっこむ。勢いがあまって、白いしずくが缶のそとにはねて地面をよごした。
「……で、あんたはなにやってんの?」
「チャリ小屋の塗装」
「なんで?」
「きれいにしたら、今月の家賃まってくれるって大家さんが……」
指示された仕事は、半分ほどはおわっているらしい。駐輪場の屋根をささえているほそい柱群は長期間放置されていたと一目でわかるようなはげあがりぐあいである。が、それでも右側半分のところは雑に白色がぬられていて、さびをおおいかくしているのだ。
「家賃くらいはらいなよ、ちゃんとさ」
「そうできりゃいいんだけどねえ」
「ふうん……」
シャーロットはあたりを見まわし、アパートの二階へとつづく安っぽい階段のしたにある蛇口を見つけた。しかしそれには、緑色のホースがとりつけられているばかりで頭からはバルブがはずされている。首にくるくるとながいものをまきつけて、なんだかいまにもおれてしまいそう。
「あと、すぐに金貸してって言うのもやめて。そもそも、定職にくらいついてよいい年なんだからさあ」
「……」
背後がだまる。シャーロットはあいかわらず視線をおとしながら腕をくんだ。まったく、この口は気をぬけばいらぬことばかり言いだすのだ。ため息をつきそうだった、しかしそれはさえぎられる。なににかといえば、急にだきついてきたキャサリンにである。
「どわっ」
「あー。ミーにそんな説教してくれるのもうシャーリーしかいないよー」
うしろから首に腕をまわされて、ほほにほほをすりつけられた。シャーロットはげえと思うが抵抗はしない。うんざりした顔をつくって、されるがままに脱力した。
「だから、ペンキ塗り手伝って」
「意味がわからん」
シャーロットがぐいと腕をまわして背後にはりつくやつをひきはがした。キャサリンはちぇと唇をとがらせてからぐっとのびをした。こんどはすそからおへそがちらりと見える。それをぼんやりながめながら、シャーロットはいやなやつの顔を思いうかべた。キャサリンのしりあいの教師、どうやら彼女も説教をしてはくれないらしい。それはそうだ、先程キャサリンが言ったとおり、自分以外への興味が極端にうすそうな顔をしているのだ、あの女は。
「あのさ、書道教室仲間ってほんと?」
「え?」
「ビューリング」
「こらこら、先生くらいつけてあげなさい」
えらそうな口調のわりにあはとたのしげに笑って、キャサリンは作業にもどる。あと半分のこったすすけたほそい柱たち。どうしてこういう仕事をあかるいうちにすませておかなかったのかと思うが、おおかた昼間からおきていられるかといったような返事がくるだろうことは予測できたのでたずねはしない。
「ビューリングからきいた? ほんとよー、たしか、高校のときだったかなあ。つっても、ミーはさいしょの日しかいってないねー。ま、ビューリングもいっしょだろうけど」
どこかできいた台詞である。シャーロットはふうんと思い、たちあがってうえのほうにペンキをぬりつけているひとのとなりにたった。視線のたかさ、肩の位置、ほぼおなじくらいのそれらは、非常に違和感があった。ぼんやりと横顔をながめる。
「……あたしら、もう身長かわんないね」
「ん……。ほんとだねえ」
隣人のつぶやきに、キャサリンが手をとめる。シャーロットがはじめてキャサリンと出会ったころ、彼女の視界はずっととおくをうつしているのだと思っていた。ずっと高いところにあってまぶしそうで、いつかおなじところを見たいと思っていた。
「あは、むかしはほそっこいちんちくりんだったのに。かわいげなくそだったもんねー」
「わるかったな…って、ペンキついた手で髪さわんなっ」
くしゃ、と前髪を指先がかきあげる。そのしぐさはぎくりとするほどやわらかくて、シャーロットは思考が急に過去へとさかのぼりはじめることをとめられなかった。バイクで事故をおこしたんだ、とギブスのはめられた腕を指さして笑っていた。こんどどこかにつれていってあげると言ってもらった。あのころの彼女は、いまシャーロットがきているのとおなじ制服を身につけていた。
師匠だと、勝手に思っていた。たぶんあこがれていた、彼女のようになりたいと思っていたのだ。しかしそれは、いまとなってはただの素敵な思い出だった。
(師匠? ばかげてる)
そんなふうに、現在ではすっかりひねくれた結論にたっしていた。それでもビューリングにへんな主張をしてしまったのは、おそらくどこかに未練がのこっているから。だから思ったとおりの理想のままでいてほしくて、ばかげた説教もしてしまう。青くさい、とシャーロットはうんざりするほかない。顔をしかめていると、ふと、キャサリンが笑う。
「でも…、ま、元気なシャーリーがまた見れてよかったよ」
額にふれたままのてのひらが、ふわりとはなれた。とてもおだやかな声が、再会をいまさらよろこんでいた。シャーロットはすこしうろたえる。だって、その笑い顔はあのころのまま、とてもやさしかった。
「……あたしは、もっとまともな人間になってるあんたにあいたかったけどね」
「あれ、充分まともじゃない?」
「どこが?」
軽口をたたくのは簡単、しかし、本心をつたえるのはむずかしくてしかたがなかった。シャーロットは、ここしばらくこんなにうまくふるまえないことはなかった。キャサリンのまえでは、まるでむかしにもどったようにこどもっぽいことを言ってしまう。
「むしろ、むかしのが立派な人間だった気がする、あんた」
「バイクで事故って病院にはこばれるようなガキが?」
「そんなんじゃなくて根本的な話だよ、むかしは、もっと……」
「もっと?」
「なんでもない」
ぺたり、とさいごのひと塗りが柱からはなれる。さあて、おわったおわった。これ大家さんにかえしてくるねー。ぽい、とはけを缶になげいれる。また白いしずくがとびちった。大雑把なしぐさが気にくわなかった。シャーロットは、徐々に気分がしずんでいくことを自覚した。とてもいやな感じ。
「あら、この蛇口ひねるとこないの、手あらおうと思ったのに」
「小学生にしてみたら高校生なんて充分おとなだったんだよ、きっとね」
先程シャーロットが見つけた蛇口をながめるキャサリンの背中に、唐突な話題をなげかけた。こたえなんていらなかった、むしろ言うつもりすらなかったのだ。くるりと彼女はあっさりふりかえり、シャーロットを見つめた。
「シャーリーは私のことすきだったからねえ」
「……」
「あらら、意味深な沈黙」
言うことはどこまでも軽々しい。それにすこしでも傷つけられる自分が滑稽でしかたがなかった。こわいものだった、思い出とは、いらないようなものまでいつまでもついてまわる。
「……ごめんね」
そちらこそ、意味深な謝罪なのだった。伏し目がちなシャーロットはもうキャサリンを見ていなくて、しかし足はうごくし腹だってたった。うぬぼれるなと言いたいのだ。
「さあて、きょうは鍋でもしようかねえ」
だからにげだそうときびすをかえすところだった。しかしあっさりと、キャサリンはそれを邪魔してしまう。がばりと肩をだいて、にこっと笑った。
「……あたしは、一銭もお金ださないよ」
「あはは、シャーリーはかわいいねえ」
「…いまのは、かわいくないっていうとこなんじゃないの」
んふふ、とキャサリンがひそめた笑い方をする。あのころはしらなかった、ぜったいにちかくへはいけない、とおくにある笑い方。結局、背丈がいっしょになったって、このひとが見ているものをしることはできない。
「……ねえ、おねえちゃん」
「あら、なつかしい呼び方」
「あんたは、あたしのことおちびさんって言ってたよ」
「そうだったっけね、……さ、いこうか。シャーリー」
ふいに、だかれた肩が解放される。ゆっくりと安っぽい階段をのぼっていく背中。
(あたしって女々しい)
もう、おちびさんとは呼ばれない、こちらも、おねえちゃんだなんて呼べるようながらではなくなった。全部むかしのこと、ずっとむかしの、未来とは反対側にある、思い出話だった。
10.08.27 むかしのはなし