「あと何台?」
「あとこいつだけだ……」
思いのほか重労働だった作業は淡々とすすみ、最初のうちはふざけていた面々も半分ほどの仕事をおえたころにはすっかりしずかになっていた。そしていま、彼女たちの目のまえにはゴールが見えている。最後の車、黒色のおおきなワゴン車。
「案外、ながい道のりだったね」
「けっこうな達成感があるでしょ?」
いままでもなんどかこのアルバイトをしているらしいアレクサンドラが満足げに言う。しかし、達成感というか、疲労感である。のこりのさんにんがなんとなく顔を見あわせると、最後のひとつはみんなでやりましょう、とアレクサンドラはひとりはりきっていた。
「よし、この位置ならホースひっぱってきて、直接水かけれるね。もってくるよ」
クルピンスキーが言って、蛇口のほうへとあるいていく。すっかりつかれきっている彼女のうごきに切れはない。ホースがたどりつくまではなんとなく休憩できる空気になり、ニッカと直枝はその場にしゃがみこんだ。
「つ、つかれた……」
「バイト代っていくらくらいもらえるんだろうな」
「こういうのって期待したらまけだぞー」
肩をよせあってこそこそ話すふたり、アレクサンドラは、そっと腰をおってその会話に参加する。
「大丈夫、案外太っ腹なのよ、ここのひとって」
ぶしつけな会話をしていたふたりは、ひっと肩をびくつかせたが、そんなことは気にしないアレクサンドラは彼女たちにならってしゃがんで輪になった。
「ところであなたたち、先輩にセクハラされたでしょう? 大丈夫?」
「いや…はは」
「……」
ニッカが苦笑いをするよこで、直枝が顔を赤くする。うぶな反応にアレクサンドラはうんうんうなずき満足した。
「あのひと、どうしてあんなのなんですか。しかもあれでもてるとか」
「えっ、あのひとってもてるのか」
「もてるよ、もてもて」
「えー…」
「あのひとはまめなのよね、女の子にたいして。やっぱりそういうのって大事なのね」
「そうなのか」
「じゃあわたしらにまでちょっかいかけてくるのはやめてほしいなあ」
「それはちょっと無理ね。先輩って、あなたのこと気にいってるもの」
「ええ……」
「基本的にきれいな子をそばにおいておきたいのよね」
「ニパ、きれいな子だって」
「うっさい」
唐突にほめられて顔を赤くしたニッカを直枝がつついてからかう。アレクサンドラはあなたはとってもかわいいのよと直枝の頭をなでたくなったが、なんとか自重した。するとふと、先程のクルピンスキーの所業が思いだされる。このかわいい子に、なんてことをしでかしてくれるのか。いまさらいかりがぶりかえしてきたから、後輩たちにそっとひみつを暴露することにした。
「でも、ああ見えて本命にはよわいのよ」
「えっ」
「だれなんですかそれ」
冗談めかした口調をつくったのに、予想以上のくいつきである。アレクサンドラはしまったと思いつつも、あとにひけなくなる。しかも、いま言っているクルピンスキーの本命なんて彼女のただの予想であるから、事実についてはあずかりしらない。まあ、彼女にはふだんさんざん迷惑をかけられているのだ、たまには意趣返してもばちはあたるまい。
「先輩の、ひとつうえのひとね。だからもう高校は卒業してて、しかもそのひとは付属の大学にはあがらないでそとの大学をうけたから……」
声をひそめるアレクサンドラにあわせ、後輩たちは顔と顔をよせあった。瞬間、むぐ、とアレクサンドラが声をくぐもらせるものだからぎょっとした。
「……」
「あっ…」
ニッカが思わず声をあげるが、それ以上はつづかない。いつのまにかクルピンスキーが彼女の背後に身をよせ、そっとのばしたてのひらでその口をふさいでいたのだ。彼女は無表情のまま、てのひらをすべりこませた肩口とは反対のほうから口のかるい子の顔をのぞきこみ、急遽おとずれた沈黙に全員がかたまった。瞬間、にこっと笑ったクルピンスキーは、さっさとアレクサンドラからはなれていく。
「さ、あと一台。さっさとやっておわらせようか」
すっとたちあがり、緑色足下においていた水のながれでているホースをつかみなおす。それから車のほうへとあるいていき、水の出口をきゅっとつぶしていきおいをつくる。おどろきすぎていたニッカと直枝は硬直からぬけだせずにいたが、アレクサンドラは顔を青くしてたちあがった。
「やだ、あんなにおこるなんて思わなかった」
「……あ、あれおこってたんですか」
「うん…しかもかなり本気のおこり方」
あわてたようすでまばたきをし、アレクサンドラはクルピンスキーの背中を見た。かの先輩が卒業してしまった日のことを思いだした。なにがあったのかはしらないが、なにかがあったことはわかった。もともとよくわからない関係だったふたり、いつもふざけてばかりだったクルピンスキーだから、自分で本命などときめつけておきながら、全然信じられないでいたのに。アレクサンドラは、あわてて彼女にかけよる。
「あの……」
「ごめんごめん。気にしないで」
しかし、あやまるまえにあやまられてどうすればいいのかわからなくなる。ひょっとしたら、なにもわかっていないふりをしてだまったほうがいいのかもしれない。背後にたっていては、表情もよめない。
「せ…先輩! わたしもホースやりたい!」
「お、おれも!」
妙な雰囲気になってしまった先輩ふたりを気づかってか、後輩ふたりが元気のよいことを言いだす。ホースをかまえたクルピンスキーにじゃれつくようにしてホースをうばおうとする。
「わっ、元気だねえきみたちは」
彼女たちの気づかいをわかっていて、クルピンスキーが笑う。アレクサンドラは余計に自分の軽率さに顔をしかめたくなった。瞬間、頭から冷水をかけられたような気分になる。
「……。あ」
そうつぶやいたのはニッカだったのか直枝だったのか、はたまたクルピンスキーだったのか。そう、気分どころの話ではない、実際にかけられてしまったのだ。思わずまばたきをしていると、まつげから水がしたたるせいでぼやけていた視界が、クリアになっていく。さんにんがホースをとりあう格好のままかたまっている。水の出口は、アレクサンドラにむかっている。つめたい水が、気持ちよく全身をぬらしていた。
「ちが、ちがうんだよ、べつにわざととかじゃなくて!」
「せ、先輩がさっさとはなさないから!」
「おれ、おれじゃない! おれはわるくない!」
口々に発せられる言いわけ、アレクサンドラはそれのひとつひとつをていねいにききながら、ひくっと唇のはしをひきつらせた。
「……全員、そこに正座!!」
かーんと、よくとおる声がひびく。あなたたちはどうしてそういちいちへんなことばかりするんですかどうやったらひとを水びたしにするようなことになるんですか! 大声の説教、すっかりちぢこまるさんにん。誰にとっても遺憾な事態でありながら、じつに彼女たちらしい、ふだんどおりのみんなだった。そこにもどれたことに、口にはけっしてださないにしても、全員が全員ほっとしていた。
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いやあ、派手にやったのねえ。結局あのあと水をかけあう遊びに発展してしまったせいで、アルバイトにきたはずの子たちはずぶぬれになって水あびを満喫した。事務所で昼寝をしていたジュゼッピーナは、反省しきった顔の女の子にあやまりながら事態を説明されて笑ってしまった。うしろのさんにんはたいした反省の色をしめしていないところが余計に笑えた。
「いいのよ、このかんかん照りだもん。あたしだって絶対おなじことやったわ」
「仕事は、ちゃんとおわっているので」
「お、ごくろうさまです」
へらりと笑う雇い主代理に、アレクサンドラは申しわけない気持ちになる。しかもさらには、からだをひやしたままではいけないということで風呂までかりることになってしまった。そのあいだに服もかわかしておいてくれるとか。やったね、とのんきにウィンクするクルピンスキーに肘鉄でもくらわしてやりたい気持ちだった。
「智子ー」
先程ジュゼッピーナがでてきた家に案内される。アレクサンドラにとっては、なんどもあがったことのあるところだった。
「んー。お嬢さんたち仕事おわった?」
「うん、それはおわったんだけど」
ぬれたままでいいのか、と思うが、ジュゼッピーナに手招きされて全員でなかにはいる。廊下にぽたぽたとしずくがたれた。玄関からいちばんちかいところの居間をのぞきこむジュゼッピーナ、それにならって彼女たちもそこにちかづくとぎょっとした。
「うお、なんだなんだ、どした」
そこにいたのは下着姿で畳に寝そべりながらアイスキャンディをかじるだらしのない女性だった。智子とよびかけられた彼女は、まさかそこにお嬢さんたちがいるとは思っていなかったのか、あわてておきてそのへんにほうってあった衣服をきこんだ。
「つれてきたならそう言いなさいよ」
「まさかそんなかっこしてると思わないもの。でもそういうずぼらなところもセクシーよ」
「あつかったんだもん。えっていうかなんでずぶぬれ?」
「まあだいたい予想はつくと思うんだけど。お風呂、かしてあげられない?」
「あー。おっけ。でもたぶんいっしょにはいるのはふたりが限界かなあ」
淡々と話をすすめるおとなたちに、あの、とアレクサンドラが口をはさむ。しかし、ぽんと頭をなでられてだまらされた。それから友人連中のほうをふりかえり、ニッカと直枝にさきに風呂場をつかわせてもらうように指示する。
「あ、もう、できるだけ床をぬらさないようにして」
「こっち。おいでー」
ジュゼッピーナに手招きされながら、ふたりはそろそろとおくのほうへときえていく。それを見とどけたあと、アレクサンドラはさっき自分の頭をなでたひとへとむきなおる。
「あの、ごめんなさい。こんなことになって」
「いいのよ、廊下がぬれたのも、ジュゼがかんがえなしになかにとおしたからだし」
「でも……」
「まあまあ、いいから」
また頭をなでられる。急に、こころがかるくなった気分だった。失敗ばかりだったきょうという日が、それだけではおわらないような気持ちになる。昔なじみの年上のひと、ここのひとり娘の智子さん。整備工場にあそびにくるたび、相手をしてもらっていた。なんとなくてれていると、ふと、背後からの視線にはっとする。しまった、やっかいなのがいることをわすれていた。
「おねえさんは、この子のおしりあいなんですか?」
「うん、ちいさいころからしってるわ」
にやけ顔のクルピンスキーが、もちろんくいついてくるわけである。
「いやあ、あのサーシャが、いまじゃすっかり先輩面しちゃってるのねえ」
「ちょ…智子さん! 余計なことは言わないでください、おねがい」
「あの、の部分くわしくききたいなあ」
「先輩!」
ぎゃあぎゃあと言いあっているうちに、いつのまにかジュゼッピーナがそれを観戦していた。それから後輩たちもさっさとシャワーをすませてもどってきて、つぎのふたりがからだをあたためおえるころには全員分の服もかわいていた。そしてまちにまったバイト代の配布である。しかもおまけにおやつのアイスまでついてきた。縁側にたくさんで腰かけてアイスをかじり、おもしろいおとなのひとたちの話をきいたりこどもたちがちっぽけで真面目な悩みごとの相談をしたりしているうちに、ゆっくりと日はくれていくのだった。
11.01.10 ひみつのはなし