(……おもいな)
本屋の自動ドアをくぐり店のそとへでたところで、バルクホルンは荷物をもちなおしていい天気の空を見あげた。しかし、彼女の気分はそれの真逆だった。ここ最近は、気分がはれたことなんてない。右手にさげた紙袋はずしりとして、こちらは彼女の心境をよくあらわしていた。さっさとかえろう、そして、勉強にでも没頭しよう。いま買った参考書のタイトルを頭のなかにならべながら、バルクホルンはバス停のほうまであるきだそうとした。
「おーい」
瞬間、すこしとおくからの声、背後からのよびかけ。バルクホルンは、ふしぎなほどぎくりとした。そして、ふりかえりたくないと思った。
「やっぱり。むこうから、おまえが見えたんだ、ひょっとしたらと思ってはしってきたんだけど、よかった、あってたよ」
よくしっている声、簡単にその主の顔はうかぶ。しかしバルクホルンの思考はそれをかきけすのに必死になる。ここに、あのひとがいるはずがない、いるはずが……。全然効果のない気休めを自分に言いきかせながら、機会人形のようにぎこちなくふりかえる。するとそこには、はしってきたというわりに息のひとつも乱さないサングラスをかけたひとがたっていた。
−−−−−−−−−−
「あっ」
ねらいをはずれたボールは、まるいゴールのはしにぶつかって見当ちがいなところへとはねていった。シャーロットはあわてておいかけようと思うが、すぐにあきらめてつきあたりにぶつかってとまるのをぼんやりとながめた。砂場のむこうにふたつならんだブランコ、そのむこうの柵にぶつかり、じきにボールはうごきをとめる。どうにも集中できなかった。
(どうしよう)
公園のすみに設置されたバスケットゴールのしたからボールのほうへとちかづきながら、シャーロットは制服のブレザーのポケットをあさる、すると指先にかるい感触。どうしよう、などとまよってはみたが、どうすればいいかなんてわかりきっていた。すてればいいのだ、こんなもの。
「やっぱあいつきらい……」
ひとりごちながら、おいついたボールをつかむ。それからまたきた道をもどり、公園の入り口のよこにあるベンチに腰かけた。そこでこんどこそ、ポケットの中身をとりだす。ひしゃげた紙の箱、かるがるしいそれが、異様におもくるしく彼女のてのひらにのしかかる。あの不良教師め、と、シャーロットは紫煙のよくにあう副担任の顔を思いうかべながら、手のなかの煙草の箱をにぎりつぶした。
ビューリング教諭が喫煙家であることは、一部の生徒のあいだではたいへん有名な話であった。そんなことには全然興味のないはずのシャーロットが、彼女と煙草の因果関係をすっかり把握してしまっているのはおかしな話であり、はなはだ納得しがたい事実であった。
(すてよう、うん。こんどこそ思いきって)
なんど思いいたったかしれぬ結論に、きょうもたどりつく。しかしながら、不良教師のおどしの道具であるところのこの嗜好品は、いっこうにシャーロットの手のなかからなくなる気配はないのだった。ちらちらと、ビューリングの性格のわるそうな笑い方が頭のはしにちらつく。なんとも腹立たしい話だ、やつにそんなつもりがあったかはしらないが、プレゼントなどと称された不良教師のいたずらは、不良かぶれのシャーロットのこころを存分にゆさぶっている。
(……一本くらい、すってみてもいいかなあ)
そわそわしながら小箱のはしを指先でつつき、ちらりとそのなかをのぞいてみる。すこしへった中身に、百円ライターのおまけつき。ビューリングにおしつけられたままの姿のそれはどこかしら自分の小心ぶりをあらわしているような気がして、シャーロットはたまらなく気分がわるくなった。
「高校生が喫煙とは、感心しないな」
途端、真横から声がしてとびあがるかと思うほどおどろいた。ひざのうえにかかえていたバスケットボールは本当にとんでいった。かかえていたそれがこぼれてぽんと足元ではね、なんどかバウンドしてからしずかになる。がばり、といきおいをつけてだれもいないはずのとなりをみると、そこにはサングラスをかけた見しらぬ人物。
「おっ」
その女は自然なうごきでシャーロットの手のなかのものをうばってたのしげに観察してから、すでに彼女には興味のないような顔をしてちょうど自分の足先にころがってきたボールをひろいあげた。
「え、あの」
「きみはええっと、F高のバスケ部員。あたりだろ?」
バスケットボールをかかえF高校の制服をきた人物に言うには得意げすぎる口調で、彼女はシャーロットの身分を言いあてた。
「先輩!」
瞬間、公園の入り口からまたあらたな登場人物の声がした。こんどはなんだ、と、シャーロットはうんざりしながら音源をさがす。と、思いがけぬやつを発見した。
「やっと見つけた……!」
「おー。バルクホルン。どうしたんだ、息をきらして」
「どうしたって……」
あらわれたのは、バルクホルンであった。シャーロットの先輩であるはずの彼女が、見しらぬだれかを先輩とよんでいた。
「さがしてたんです、先輩を。急にいなくなられたら、びっくりする」
「ああ、そうか」
手のなかでボールをあそばせる先輩とやらにこまった顔をむけていたバルクホルンが、ふいに視線をずらす。なぜだかぎくりとしながら、シャーロットはちょうど彼女と目があったところでどんな顔をしたらいいのかわからない。
「あれ。なにやってるんだおまえ、こんなところで」
しかしあちらは案外冷静で、後輩と思いがけず顔をあわせたことに関するコメントはそれだけでおわりにし、へえこの公園バスケのゴールなんておいてあるのか、などとたのしげにまばたきをしている。するとそのころには先輩とよばれたサングラスがとなりからいなくなっており、おどろいて視線をめぐらすとすこしはなれたところのバスケットゴールのしたでボールとたわむれているやつを見つける。なんつうマイペース。シャーロットがうんざりすると、同感だったらしいバルクホルンがふうと息をついて彼女のとなりに腰かけた。そのころには、シャーロットにも見しらぬ彼女が何者なのかを把握しはじめていた。
「なにやってるってさ、あたしんちこのへん」
「ああ、そうなのか」
「そっちこそ、あんたんちからこのへんけっこうとおいのになにやってんの」
「ああ、すぐそこにおおきい本屋があるだろ、ほしい参考書はたいていあそこにしかないんだ」
おおきな紙袋をもちあげながらの説明だった。なるほどそのなかには参考書がぎっしりつまっているわけか。勉強道具のためにすこし足をのばすなんて、シャーロットにとってはにわかにはしんじがたい行為だ。うんざりしていると、バルクホルンがあることに気づいてしまう。
「あ、おい。あのボール、部の備品じゃないか。おまえまさか、勝手にもちだしたのか」
「げえー。ばれた」
「ばれた、じゃない。しかも屋外でつかうなんて……」
説教がながびきかけて、シャーロットはげえと舌をだしたい気分になった。わかったわかったよ、ちゃんとかえすよ、いつかね。そう言ってしっしとおいはらおうかと思うのに、遺憾ながらそんなことをしなくてもバルクホルンはだまってしまう。
「だいたいおまえは、もう……」
言いかけたことはただの事実でしかありえない。それなのに、バルクホルンは失言でもしたかのようにいまさら思いしったかのように、唐突にことばをうしなうのだ。それが、とてもいやだと思った。言いたいことがあるなら言えばいい、おまえはもうバスケ部員じゃないんだろうと、ただの本当のことをぶつけてしまえばいい。彼女はまるでシャーロットがもう自分の後輩でないことがショックであるような顔をするが、もう後輩でいられないシャーロットこそが、本当はかなしいのだ。バルクホルンがそんなことをしるよしもないことはわかっているのに、彼女は理不尽にわきあがるいかりにまかせてことばをはこうとした。瞬間。
「おい!」
とおくからのよびかけに、反射的にそちらを見る。途端、シャーロットの手のなかにボールがおさまった。じんとてのひらがしびれる感覚、おもいパスだ。ひっそりとしたゴールを相手にひとりでボールであそんでいるときには、ついぞ味わえなかったここちよい感触。
「ボール、かしてくれてありがとう。それじゃ」
ひょいと片手をあげ、見しらぬ女はきたときと同様唐突にさっていく。あんまりさわやかなさり際だったものだから、シャーロットとバルクホルンはそろってぽかんと口をあけて見送った。その後、さきにわれにかえったのはバルクホルンである。
「ああもう、また……!」
はっとした彼女は、もどかしげにくしゃりと前髪をかきあげてから、さっさときえた背中をおいかけようとたちあがる。シャーロットは、ついあわててその腕をつかんだ。
「ちょ、ちょっとまった。いちおういまのひとがだれなのかおしえてってよ。見当はついてるけど」
「え、ああ。あのひとは……」
そんなことよりもはやくおいかけたいバルクホルンは、なんとかその姿をさがそうと首をのばすような格好をしながら生返事をした。が、ふと、なにかを思いだしたかのようにうごきをとめた。抵抗がなくなったから腕にからめた手をはなすと、バルクホルンはやはりたちどまったまま。思いがけぬ変化だったので、シャーロットはその表情を盗み見ようかと思うが、たたれていてはうかがえない。などと思っているうちに、バルクホルンがそっと口をひらく。あのひとは。さっきも言ったことばを言いなおすような丁寧さで、彼女はシャーロットのしらないひとのプロフィールをあかしてくれた。
「……ミーナの、すきなひと」
ぽつん、とつぶやかれたそれはあまりにもふしぎで、まるでいちど宙にういてからシャーロットにとどいたかと思うほど理解しがたいものだった。返事もできずにかたまっていると、バルクホルンはふっとかけだした。ひどくなげやりなようすで、まるであわてるようにだれかをおいかけていく。
「……。は?」
混乱しきったシャーロットがそれにやっとこたえられたころにはもうだれもおらず、ついでに、煙草もいっしょにいなくなっていた。
−−−−−−−−−−
「……先輩!」
背後からのよびかけに、ふとたちどまる。彼女は、坂本美緒は自分の顔にのっかるサングラスをくいともちあげてからふりかえる。するとそこでは、息をきらした後輩が困惑気味にまゆをよせていた。
「あいかわらず、ですね……」
「おまえもな、バルクホルン」
すっかり美緒にふりまわされているバルクホルンは、複雑な表情をつくってまばたきをする。それからなにかを言いかけ、結局言えずにうつむいた。沈黙。美緒にとっては苦ではなかったが、それをつくりだした張本人は動揺をかくすかのように唇に指をふれさせた。それからやっと、あの、とすこしとげのある声がひびく。
「……、いつ、むこうにもどられるんですか」
まるですぐにでもここからいなくなってほしいような言い方だったが、美緒がそれを指摘するようなことはない。言われなくてもバルクホルンはそれくらいよくわかっているし、なにより、ショックをうけていると、美緒はしっている。先輩である美緒にそんな口をきくような真似をして、バルクホルンが平気でいられるはずがないのだ。ただし、彼女のそんな不遜な態度の原因には、美緒は残念ながら思いあたれない。
「いつもどるかはきまってない。しばらくはこっちにいるつもりだ」
平坦な口調のこたえがある。おどろいた視線があがる。あいかわらず、まっすぐと目を見る後輩だと思った。あいかわらず、なにを考えているのかわからない先輩だと思った。ぴたりと目があって、バルクホルンはそうすることがつらかった。それでも彼女は、自分のやり方をやめない。それはただの意地かもしれないのに、美緒はバルクホルンのそういうところがとてもすきだった。
にらみあいというには、ぼやけすぎている雰囲気がふとくずれる、バルクホルンが、ふっと眼光をゆるめる。そして言うことといえば、場ちがいにもほどがあった。
「そのサングラス、にあいませんね」
「……はは、ミーナにもおなじことを言われそうだ」
また、美緒は指先でサングラスをもちあげる。そのうごきがあんまり繊細だったものだから、バルクホルンはなぜだかひどくぎくりとした。
「あ、そうだ」
しかしつぎの瞬間には、美緒はまたにっと笑ってみせて、バルクホルンに手になにかをにぎらせる。
「思わず、もってきてしまった。感心しない、なんて言ったけど、よくかんがえたら私もまだ未成年だからもってるわけにはいかない」
さっきの子に、かえしておいてくれ。なにものかをにぎらせた手をいちどぽんとたたいてから、美緒はさっさとあるきだす。突然の展開についてこれていなかったバルクホルンは、また彼女の背中をしばらく見送ってから自分の手の中身を確認する。そして、ぎょっとする羽目になる。
「え…、は? かえしておいてって、これ、煙草……」
美緒の言うあの子といまここにある物体がいまいちむすびつかず、彼女はしばらく呆然とした。そしてやっと理解できたころには、美緒はいなくなっているわシャーロットのまさかの非行ぶりに愕然とするほかないわで、バルクホルンは完全にどうしたらいいのかわからなくなったのだった。
11.01.27 そうぐうのはなし