スパゲティのはなし


「ねえウーシュ、私いいものもらった」

 ウルスラの姉であるところのエーリカが唐突にそんなことを言い始めたのは珍しく二人そろって、向き合って夕食をとっているそのさなかであり、ウルスラが 白くてあまいクリームソースをからめた麺をちょうど口に入れたその時であった。フォークを口の中に刺したまま顔をあげて、ウルスラは姉を見やる。話を切り 出すなら別に夕食の前、もしくはそのあとでよいのではないかという一般論がエーリカに通用しないことは、誰よりもウルスラが一番身をもって痛感しているところである。ゆっく りとそれを租借したあと発したため息交じりのなに、という返答はあまりにも素っ気ない響きであったというのに、ウルスラの素っ気なさを一番熟知している エーリカはもちろん気にも留めない。

 これ、と差し出される透明性のある小さなビニール袋。上部にはやたらと派手な色あいの絵が描かれている。それはこの季節になるとホームセンターやコンビ ニの一角を同じような派手な装飾で埋め尽くすいわゆる風物詩であった。ビニール袋ごしでも、かすかに漂う火薬のにおいはどう考えてもこの食卓に似つかわし いものではなく、かといってそれを指摘するのは当然のことながら全くの無意味なのであった。その証拠にそれを差し出しているエーリカは腕だけをずいとウル スラに伸ばしたまま、目の前のミートソースに夢中になっている。ぐちゃぐちゃと洋麺に合わない行儀の悪い音がするのはゆで過ぎた麺が水分を多分に含んでい るからであり、電子レンジでスパゲティが茹であがる、などと謳う生活便利グッズを衝動買いしてきたエーリカがレンジでの調理後もゲームに夢中になって放置 した結果であった。すっかり伸びたパスタは歯ごたえがなく、それでもとろみのあるソースとよくからんでこれはこれで悪くない、とウルスラはひとりで納得す る。ちなみにゆでておいてあげるけどソースはないから買ってきてね、と仰せつかったウルスラが帰宅した時すでに哀れなスパゲティはそのような状態であった ので、レトルト製のソースが茹であがり皿とフォークが並べて置かれるまでにまた十数分の時間を要したということはウルスラにとってもエーリカにとってもす でに完全な余談なのであった。

「…」

 差し出されたパッケージをじぃ、とウルスラはただ見る。見る。見る。話を切り出したはずのエーリカはなかなかイケるじゃんと片手でスパゲティを食べてい て、たった数十秒前のことすら記憶のかなたに飛んで行ってしまったかのよう。

「…なに?」
「なにってせんこうはなびですよ」

 たまりかねてウルスラが先ほどしたものと同じ問いかけを重ねると存外に早く返答は返ってきた。なるほど、みての通り差し出されたビニール袋には「線香花 火」と浮かれた書体で書かれていて、中に透けて見える深みのあるグラデーションをした紙縒りもまた、ウルスラの知る線香花火以外のなにものでもない。

「……なに?」

 だから、そう。尋ねたいのはそんなことではないの姉さま。そんなの見ればわかるよ。そう言い返したいのにウルスラはうまく言えなくて、先ほどと全く同じ 言葉をみたび重ねてしまう。弱って姉を見ても、姉は口元にべたべたと赤いソースをまとわりつかせる簡単なお仕事に夢中で。このままではらちがあきそうにも ない、と感じたウルスラはふたくちめのスパゲティをくるくるとフォークに巻きつけた。


 腕が疲れちゃった。
 せんこうはなびですよ、の次の言葉が発せられるまでに、そう時間はかからなかった。エーリカときたら食卓に左ひじをつけて線香花火を差し出したまま食事 を終えてしまったのである。ウルスラの皿にはまだスパゲティが半分ばかり残っていたけれど、やれやれようやくかと口元をぬぐって手を止める。

「知り合いの小学生にもらったんだよねえ。」

 友達とやるんだけど、つまんないからあげる!
 そう、エーリカはウルスラの知らない誰かのまねをして見せる。金色のきらきらした髪を握りこぶしで二つに結いあげたのはきっと、その知り合いの小学生と やらの髪型だからなのだろうと思った。うじゅうとかいう妙な効果音が一体何をさししめしているのかまでは、ウルスラのあずかり知るところではない。

「線香花火の素晴らしさがわからないなんてあいつもまだまだ子供だなあ」

 私はこの国の未来がなげかわしいね、と拳を握りしめて言い放つエーリカの部屋の惨状こそ嘆かわしいとウルスラは思う。もちろん思うだけで口にすることが ないのを、賢いウルスラの姉はようくご存じであった。それを分かった上で彼女はそんな突飛なことを口にする。

「あ、ウーシュは今年花火をした?」
「まだ」
「…そうか、そうか」

 ならば、うん、そうだね。今日は花火をしましょうね。口元についた赤い汚れをそのままにエーリカは立ち上がる。もちろんウーシュも一緒だよ、といった風 情である。ウルスラとよく遊ぶ大人のともだちの中の一人がいつも仲間内でそうであるように、ウルスラもエーリカの前ではすべての意見が却下されるのであっ た。早く、ウーシュ、はやく。声のトーンをひとつあげたエーリカがはしゃいだ声を上げる。振り返って届くはずのない距離を隔てておきながら手を伸ばしてく る。
 ふう、とため息をついて立ち上がった食卓には、半分残されたスパゲティだけが生温かさを放つ。そんなエーリカの身勝手さを、ウルスラはとてもとても愛し ていた。そしてそれももちろん、口にされたことはないのであった。

 火はあるの、と尋ねたらエーリカが半分内容液の減った百円ライターをポケットから取り出した。どことなく懐かしい香りがするそれを指して、これは友達か らもらったんだよ、とご丁寧に説明をしてくれる。捨てようとしてたからもらっちゃった。なんて笑うエーリカは新しいおもちゃを得た子供の顔そのもので、そ んなもの持ち歩いていたら煙草でも吸っていると思われるのではいの、と忠告をしたくなる。しかしそれは自分の領分ではないとウルスラは口にするのをやめ た。忠告だとか、お説教だとかは、もっと上手な人がすぐ近所に二人ほどいて、そんな二人はエーリカと同じ学校に通っているのである。

「ほら、ちゃんと持ってなくちゃだめだよ、私が火をつけるから」

 カチ、と押し込むだけで炎は暗がりの縁側にぼぅ、と灯った。ゆらゆら、と夏の湿った空気に揺れる炎は見ているだけで吸い込まれそうになる。その向こう に、頼りない光に照らされた姉の顔。炎にきらきらと光る瞳は、自分と全く同じ色をしているはずなのになぜこんなにもきれいだと思うのだろう。

 ジジ、という音とともに紙縒りの先、かすかに膨らんだ部分に火がともる。溶けだした金属の粉がまあるい玉を作ってゆく。きれい。見惚れている間に、エー リカは自分の分にも火をつけようとしたらしかった。
「あ」
 直後に放たれた、決して大きいわけではないけれども低い声にウルスラの肩がびくりとはねる。瞬間、よわよわしい光に照らされていたはずのその場所は一瞬 にして影を落としてしまった。零れ落ちてしまったまあるい光はもう庭の芝生にまぎれてあとかたもない。
「やっぱりろうそく持ってこよう。集中できない」
 エーリカがぱっとたちあがって家の中に消えていった。放り投げられたライターと線香花火はウルスラのものと同様途中で切れている。


 二人の間に再び光がともった。手を離しても消えない光にたいそう満足げなエーリカは、次の束を取り出して一本取り…と思いきやおもむろにそのままろうそ くの火の中に突き刺す。何本もの線香花火が束ねられた分だけ、大きな大きな光球が作り出される。そのうちぱちぱちと静電気のような火花が飛び散って、お お、と二人で感嘆の息をついた。派手なもの、目立つもの、不思議なもの。人とは一風違ったものを好む姉がこんなにも小さな花火に目を輝かせている。その様 がウルスラにはとても不思議で、ああでも、昔から姉は隅っこでのんびりしていることも嫌いではなかった、と思い至る。それはエーリカもウルスラも本当の本 当に小さかったころの話で、どちらが姉で、どちらが妹なのか、それすらうまく認識できていないくらい幼い時分で。実際のところ、それが本当に『エーリカ』 だったのかすらウルスラはよく覚えていない。だってあの頃は自分がエーリカで、彼女がウルスラだったのかもしれないのだから。そのくらいこの双子の姉妹は とてもよく似ていた。あの頃二人はふたりでひとつ、いや、そうというよりもひとつのふたりだった。

「あ」

 それは二度目の声だったから、今度は肩を震わせることはなかった。なあに、と小さい声でウルスラは尋ねる。エーリカはそれには答えず、次の花火をウルス ラに差し出した。そしてようやく続きの言葉を言う。これが最後だよ、ウーシュ。あまりにも悲しそうな声をするから、ウルスラの胸まで痛んでしまう。けれど ウルスラはそれを言わないから、エーリカがそれを知ることはない。それでいいのだとウルスラは思うのだった。

 もともと使い古しだったろうそくのろうももうすぐ果てるころ合いだった。エーリカがゆっくりと線香花火を炎に差し出す。食いつくように燃えうつる炎。恐 る恐る手を引くエーリカと入れ替わりにウルスラも花火に火をつけた。そして同じようにして手を引いて、だいじなだいじな最後の花火を手元に引き寄せた、そ のときだった。

「あ…」
「あー、おちちゃった」

 息吹を与えられたばかりの儚い光は、そんな小さな衝撃でたやすく命を落とした。エーリカが残念そうな声を上げたので、ウルスラはなんだかとても泣きたい 気持ちになってしまった。あんな悲しそうな声をしていたのに、ごめんね、ごめんね、エーリカ。けれども言葉にはならない。言うべきことすら、ウルスラはう まく言葉に出せなくなっていた。刹那、二人の間にあった光源がまた一つ消えてなくなる。燃え尽きたろうそくを前に、エーリカとウルスラを照らす光源はたっ たひとつ、エーリカの光だけになっていた。

「…ウーシュ、ちょっと来て」

 ゆっくり、そう、ゆっくりね。
 暗がりの向こうからウルスラを呼ぶ声がした。ウーシュ、と呼ぶそれはエーリカのもの以外のなにものでもなかったから、ウルスラは言われたとおりに彼女に 近づいてゆく。花火、出して。ほら、こっち。

「私の元気を、ウーシュに分けてあげよう」

 そうエーリカが口にするのと、二人の花火の先が触れ合うのが、たぶん同時だった。途中で燃え尽きたウルスラの花火の先と、まだ燃え続けているエーリカの 花火の先が触れあって、ひとつになる。ああ昔むかしの私たちみたいだわ、とウルスラは思った。

 さあ、もうだいじょうぶ。とてもとても慈悲深い声がして、ひとつになっていた花火は再び二つに分かれてしまう。元気の塊は半分に分かれて、ちりちりとウ ルスラの手元をてらしていた。その分だけエーリカの元気が小さくなっている。けれどもそれもしばしの間だった。残りのかやくを吸いこんで、元気の塊はま た、徐々に大きくなっていく。ウルスラのそれも、エーリカのそれも。ちりちりと大きくなって、きらきらとした火花を散らせて。もとは一つだった二つの光 が、きれいなきれいな光を放っているのを、ウルスラは見た。きっとエーリカも見ているのだと思った。





「なんかお腹すいちゃった」
 先ほど夕ご飯を食べたばかりだというのに、エーリカがそんなことをのたまった。その次の瞬間、先ほどまでウルスラがついていたはずの食卓の椅子に腰かけ て、もうすっかり冷めてしまったウルスラのスパゲティにフォークを突き刺している。クリームソースもいけるなあ、そうしれっと感想を述べるエーリカの口元 には先ほどのミートソースがまだついている。

「…じゃあ、私は明日、ミートソース食べる」
「ねえいっそのこと混ぜてみるのとかどうだろう」
「却下」
「えーイケるかもしれないよー」

 3人前のミートソースとクリームソースの残りはまだダイニングに残されている。しばらくスパゲティを食べることになりそうだ、とげんなりしているのに、 胸の中では先ほどの線香花火がまだぱちぱちと優しく爆ぜているのであった。



おわり

む、むろさんからいただいちゃったもんねええええええええありがとうございます…!!!!感涙
とにかく天使がかわいすぎますね、ものまねしたり麺ほっぽってゲームしたりウルスラに火わけてあげたり…きりがないのでやめますね。天使はなにしててもかわいいんですね。
なんていうか、むろさんのお話は私のと違ってふかくて、よんでいてすごいなあとじんわりとしてしまいます。なんかいただくのが申し訳ないほどすばらしい作品をありがとうございます!むろ神さま!!!!次回作にも期待してます(ニコッ