ひきわけにおわってしまった勝負のあと、エーリカとマルセイユはミーナからなんとも言えぬ渋い顔をされた。でもそのときはそれだけだった。このあと処分を言いわたされるのだろう、とエーリカは思ったが、とくに気に病むこともなかった。ミーナをわずらわせたことは申し訳なかったが、彼女にもゆずれないものはあった。

「すこし話がしたい」

 基地にもどりユニットをハンガーに片づけたところで、よびかけられる。声の主はわかっていた。いつのまにかたったふたりになっていたハンガーのなかでは、きれいなアルトがよくひびいた。

「……ハンナがきてからずっといっしょにいたんだ。話なら充分したよ」

 ふりかえり、愛想のないことを言う。マルセイユは、わかっていた顔ですこし笑った。

「そうかもしれないな。でも、いまもしたい」

 すっと手がとられる。あんまり自然だったから、エーリカにはにげるひまもなかった。けれど、マルセイユはすぐにそのゆるやかな拘束をとき、ひとりであるきはじめた。ついてこいとでも言いたげだった。エーリカは思案してから、すこしさきにいってしまった背中と距離をちぢめることなく、彼女をおいかけた。
 話をしたいと言ったわりに、マルセイユは黙々とあるきつづける。エーリカも、ただついていく。基地である建物のまわりをそうように、ゆっくりゆっくりふたりはすすんだ。目のまえにはすっとのびた背筋と、ゆれる長髪。
 ああ、と思う。もうそろそろ、このひとともおわかれなんだな。ふとした感想がうかぶが、それになにかしらの感情が付随しているかどうかはわからない。エーリカは、案外自分の本音を理解するのが下手だった。他人の気持ちをさぐることは趣味のようなものだったが、自分のこととなると途端に霧がかかる。人間というのは不便なものだな。エーリカがすこしむなしくなったところで、マルセイ
ユがたちどまる。そこは基地の裏手の、ひとけのないくらがりだった。
 すとん、とマルセイユが腰をおろし、背後の壁によりかかる。それからたちっぱなしのエーリカを見あげ、となりにすわるようにうながした。

「すわってるのとたっているのじゃ、話がしにくい」
「だったらハンナがたてばいいよ」
「つれないことを言うな」

 わずかにしめった空気のながれるそこで、エーリカはしかたなくおれることになった。ひとりぶんのはばをあけ、となりにすわってひざをかかえる。話ってなあに。ぼんやりした声でたずねると、マルセイユはふんと鼻をならした。

「なんの話があるわけじゃない。話がしたいってだけだ。おまえと、いっしょにいたかった」

 なあ、エーリカ。気障たらしい台詞から間をおかず、名をよばれる。エーリカはすこしげんなりしながら、隣人を見た。適当に悪態でもついてやろう、そう思いたっての行動だったが、しかし彼女はかたまらざるを得ない。

「さ、すきなだけハグしていいぞ」

 両手をひろげてさわやかに笑って、マルセイユが奇行にはしっていた。ゆたかな包容力を感じさせるその胸が、エーリカのためにあけられている。唖然とするしかない、彼女が自信に満ちているのはいつものことだが、これほどわけがわからないことはさすがにほとんどない。エーリカはしばらくかたまり、しかしそうしているあいだもマルセイユはその体勢をくずさなかった。

「……ごめん、言ってる意味がわからない」

 心底あきれた声がでてしまう。マルセイユは満足げに笑った。私にこんなことをゆるされるのは、おまえくらいしかいないのにな。不敵に唇のはしをもちあげながら、彼女は自分のあごに手をそえた。あいかわらず無駄な自信だな、とエーリカは思う。

「じゃあ、私がおまえをだきしめようか」

 唐突に、声がちかづく。ぎょっとした瞬間、腰のとなりにマルセイユの手がつかれた。となりを見れば、エーリカが設けたこころの距離があっさりとふみこえられている。至近によった顔、簡単にキスできそうな距離。

「そうしたら、どこかの石頭はおこるかな」
「そのまえに、わたしがおこるかもね」
「おこらないさ、おまえは」

 はたして、どちらの言い分がただしいのだろうか。エーリカは、すぐそばにあるマルセイユの瞳をながめながら、彼女にだきしめられることを夢想した。抱擁というのは、するにしてもされるにしても、とても心地のよい行為だ。それは常から、エーリカがのぞんだときにのぞんだ相手にほどこしたりほどこされたりするからだった。いまはたぶん、それとはちがう。いま彼女は、目のまえのひとをだきしめたいともだきしめられたいとも思っていない。そんな相手の胸にだかれるのは、どんな気持ちなのだろう。こたえは見つけられなかった。

「エーリカ。なあ、エーリカ……」

 いま、彼女はなにを思ってその名をよんでいるのか。分析的な思考がエーリカを支配する。マルセイユといるときはいつもそうだった。マルセイユは、エーリカにとって例外的な存在なのだ。他人に甘えるのがとても上手な、自分のしたいようにしむけることにどこまでも長けているエーリカ、彼女が唯一と言っていいほどうまくあつかえないのが、このハンナ・ユスティーナ・マルセイユだった。
 肩に、腕がまわる。目はあったまま。やんわりとした力がエーリカをひきよせる。拒絶するのは簡単なのに、彼女はされるがままマルセイユの胸におさまり、もう片方の腕が背中にまわることをうけいれる。

「だきしめられたら、背中に腕をまわしかえすものなんだ」
「そんなの、はじめてきいた」

 すっぽりと他人の腕のなかにおさまりながら、エーリカはおこりはしなかった。そうか、わたしは、こういうときおこったりしないんだ。しらないことが、ひとつへる。先程みちびきだせなかったこたえをしる。マルセイユといると、自分のしらない自分をいくつもしることができた。それなのにこころがこんなに冷静なのは、すこし失礼なのかもしれないと思う。

「おまえは、ちいさいな」
「それ、いつもトゥルーデに言われるよ」
「……それに、あったかい」
「それも、いつも言われる」
「……」

 わざと言っているのか、と言いたげなすこし不機嫌そうな沈黙がながれたから、エーリカはわずかに身じろぎした。それでもマルセイユは腕をとこうとはしない。ハンナ、と名をよぶ。彼女が言ったように背中に腕をまわしたりしないで、エーリカはどこまでもされるがままだ。

「あと、五分でいい。いや、もう十分」
「あは、それは朝おこしにきたトゥルーデに、いつもわたしが言ってる」
「エーリカ」

 突然に、マルセイユがすこしおおきな声をだした。場の雰囲気が、かすかにかわる。ふざけた空気が、ゆっくりととけていく。おまえは、案外つめたいな。冷静な声が、頭のうえからふってくる。それは、まるでつくりもののようだった。それでもエーリカは、そうだよ、としずかに返事をするだけだった。

「ハンナ、わたしって、たぶんハンナのことしあわせにできないんだ」
「そんなのはいい、私が、おまえをしあわせにしたいだけだ」
「……ハンナ」

 なかないで、ハンナ。エーリカは、そっとささやいた。こどもをなぐさめる声で、たったそれだけでマルセイユをさとす。彼女の頭をなでてあげるような、そんなことは自分のするべきことではない、とエーリカは思う。ゆっくりと、幾度か名をつぶやけば、彼女はおずおずと身をはなす。また目があう。赤くなった目から、一筋ずつの涙がこぼれている。

「私は、ないてなんていない」
「そうなの?」
「そうさ、私がなくなんて、おかしい」
「どうして?」
「……私みたいなかっこいいやつが、なくはずがない」

 マルセイユがそっと目をとじると、また涙がながれる。エーリカは、それをぬぐってあげない。かわりに、すこしだけ顔に顔をよせた。おたがいのにおいが感じられる距離で、エーリカはそっと呼吸をする。

「おかしくないよ、ハンナは、わたしにとってはただのへんなやつで、べつにかっこいいやつってわけじゃないもの」
「……そうか」
「でも、ねえ。ハンナのないた顔って、すこしだけかわいいね」
「……」

 かんべんしろ。ないたせいで上ずる声で言って、マルセイユがうつむく。そもそも、かっこいいやつだってなくよ。ね、そうでしょ、ハンナ。意図せずやわらかな口調になったそのことばは、彼女にとどいているのだろうか。
 エーリカは、このひとをどうしたらいいのかわからない。きっと彼女といっしょにいれば、いろんなものをあたえてもらえる。きっと満足できる。でも、エーリカはそれのおかえしをできる気がしなかった。たとえマルセイユがなにもいらないと、たったすこしのお礼で満足だと言っても、きっとエーリカ自身が納得いかないのだ。どうしてなんだろう、自分の本音を理解するのが案外下手なエーリカは、こたえを見つけられない。

「エーリカ」

 芯のある声が、なまえをよんだ。それは、ないてしまうまえと寸分かわらぬきれいな声で、マルセイユがこの話をおわりにしたことをエーリカにつたえた。すっとたちあがった彼女は、エーリカをおいてあるきだす。そして、数歩すすんだところでふりかえった。話ができてよかった、いま、すごくすっきりしてるんだ。

「なあ、私はおまえがすきだけど、おまえはきっと、私をすきになることはないんだろうな」

 その理由は、皆目見当がつかないがな。いつもの気どった笑みが、そこにある。ああそうか、と思う。彼女にあいされて、そのおかえしはいらないと言われたって絶対にエーリカが納得できないのは、エーリカが彼女をあいしてはいないからだ。愛をかえせないということは、とてもいけないことだと、きっと、自分はそう思っている。エーリカはまた、しらなかったことをおしえられる。だけれど、それ以上でもそれ以下でもない、それはたったそれだけのたんなる事実だった。そうと思いしったエーリカは、おどろくほどおおきな衝撃をうけた。

「――ハンナ、またね」

 颯爽とさっていく背中に、思わず声をかける。マルセイユは一瞬だけふりかえり、その横顔は、エーリカにはよめない。ひょいとあがった手、それがまるで今生のわかれのあいさつに見えてしまうなんて、なにを感傷的になっているんだろうと思う。傷ついたのはきっとむこうで、傷つけたのはこちらだ。エーリカは、最後の最後に、マルセイユにしらしめられた。ひとを傷つけるということは、こんなにも、つらい。

「……ハンナ」

 こんなことは、あってはならないことだ。エーリカは彼女の名をふるえた声でなぞりながら、すこしだけないた。これは身勝手な、自分のためだけの涙だと思った。エーリカは自分がこんなことでなけてしまうなんて、しらなかった。

10.11.05 かなしいゆめ