096:まばゆいまでのまぼろし(ゆかりと槙/はやて×ブレード※034のつづき)
 大浴場はつかわずに、きょうはへやのシャワーであせをながした。いやなあせばっかりかいた日だった。シャワー室からでてすぐ、ふとつくえのうえに放置していた携帯電話が目にはいって、思わず緑色に点滅していないかじっとながめてしまった。けっきょく徒労におわる。わかってたこと。だってわたしは先輩にひどいことをしたんだもの、それなのに部活をやすんだことを心配してほしいなんてつごうがよすぎる。
 気づいたことがあるのだ。シャワーが髪のあいだにお湯をながしこんでくれるたび頭がさえた。わたしは先輩とキスをした。だけど先輩はそのことをいちども話題にしたことはない。それどころか、そのつぎの日先輩とあうことにばかみたいに緊張してたわたしとちがって、なにもなかったみたいに先輩はおはようと言ってくれた。そうなのだ、なかったみたいに。先輩はきっと、あれをなかったことにしたかったんだ。それなのにわたしは、むしかえしてかってにきずついた。わたしはひどい後輩だった。
 携帯電話のバイブがなった。ぎょっとしてかたまでふるえて、同室の子が浴場にいっていて留守でよかったと思う。あわてて携帯をとれば、まさかの先輩からのメール。

「……放課後はごめんね」

 たったそれだけのみじかい文章を五回くらいよみかえしてから、わざわざ声にだしてみてもみじかかった。どうして、と思った。どうしてわたしがなにも言わないで部活をやすんだこと心配してくれないの。あやまらせたショックより、そんな思考がさいしょにまとまってしまって、わたしはまたいやなあせをかく。返事なんてうてるわけなかった。
08.09.02
つづく





097:よるのいたずら





098:ゆびさきでさらう





099:うつくしいけもの(あさぎと虎子/よつばと!)
 がり、といやな音。それから問答無用でするどい感覚が首筋に線をひく。だめだと思ったから肩をおした。それでも虎子はその手をわざわざ拘束してまであたしのそのままの顔色をうかがった。おこってんなあ。

「いたい」

 手をにぎりかえして気やすめのかけひきをこころみた。かたい車のシートは、あたしには粗末すぎるのだ、ちがうかい虎子さん。

「血、でてる?」
「どうかな」
「……でてんじゃない、いったあ」

 虎子の凡庸な犬歯がやぶったあたしの皮膚。右の首筋はぬるりとした感触をもっていて、それはあたしの痛覚とつながっていた。血がでてるんだって、そしたらいたいにきまっている。そう思えばずきずきと傷口がいたみだすのも道理ってものだ。

「だれかにきかれたら虎にかまれたって言うわ」
「それじゃあ私だって言ってるようなもんだと思うんだけど」
「そうつたわるようにそう言うんだからね」
「……」

 あたしはべつにひみつにしたいわけでもないのよ。だまってしまった虎子の眼前にひとさしゆびを立てた。すると虎子はすこしだけ眉間にしわをよせて、あたしのうえにのしかかっていたからだを運転席におさめなおした。もう日付がかわるころで、車のそとは物音ひとつしない。

「虎子がなめてくれたらいたくない」
「あさぎ」
「冗談よ、あんたいまおこってるもんね」

 ごめんねとあやまるのはかんたんだけど、誠意をつたえるのはむずかしい。そもそもあたしはあやまるべきなのか。虎子は言うのだ。あさぎが私以外としたしいのはおもしろくないよ。横顔はくらい世界のなかにぽっかりうかんで、だけど見えやしない。

「そんななまえでさ、おまけにそのわるい目つきでサドだなんて、意外性のかけらもないったら」
「私のどこがサドだって?」
「そういう自覚がないとこよ」

 これ見よがしに血のにじむ箇所をなでた。もうかわいていて、虎子がなめるすきもあたえてくれない。いやけっしてなめてほしかったわけじゃない、あたしが虎子をゆるすチャンスがほしかっただけ。よみとりづらい虎子の表情がゆっくりと変容していく。きらいじゃない瞬間だ、けどきょうはだめ。

「ホッブスは言いました」

 唐突なきりだしに、のびかけた虎子のうでがうごきをとめる。それにいい気になったあたしは、もちろん話をつづけるわけだ。

「愛とは、それを所有することを欲する行為ではないのよ、虎子」
「……なにが言いたいんだ?」

 虎子の声がちいさくなる。そうやって、きゅうにまるでこどもみたいにかわいくなるのは虎子にとってのつよみで、あたしにとってはよわみ。

「あと、20代までの恋はしょせん性欲なんだってさ」

 これはだれが言ったのかわすれた。つぶやくあたしを、ぼんやりと虎子が見つめる。あたしの言ったことを理解しようとしている顔。あんまり真剣だから笑いそうになった。だけどがまんして、あたしだって真剣なんだと主張しよう。はなすじのとおった顔のまんなかにかみついた。もちろんあたしは分別があるので、血がでるほどの力はこめない。

「おやすみ」

 車のドアをあけてそとにでた。見なれた景色の自宅前。つめたい空気がよった頭をさましてくれる。他人にしられることをきらうくせに、あたしの家のまんまえで助手席のシートをたおすなんて所業をやってのけてくれる虎子は、真夜中という条件を過信しすぎているのかそれとも単に思慮がたりなすぎるのか。後者のほうがおもしろいなと思った。
 おやすみの返事はかえってこなかった。自分のへやから玄関前を見おろして、当然まだそこにある虎子の車に思わずにやけた。まだかんがえてるんだろうか、すなおでなかなかかわいいやつ。

「……かんたんな話なんだけど」

 実際は、むかしのえらい学者さまが言ったことなんてどうでもいいし、虎子の独占欲がわずらわしいわけでもない。でもひとつだけ、いちばんたいせつなこと。あんた、あたしにすきって言ったことないでしょう。正面きってそんなことをぶつけてみても、あのふてぶてしい女はそうだっけと言った二秒後にはすきだとのたまってくれるだろうからそんなのはわりにあわない。

「このかすり傷がなおるまでが期限、てことにしとこうかしら」

 ね、かんたんな話でしょ。まだうごきださない虎子にあきたあたしは、ちょっとした自己主張のつもりでてらしていたへやのあかりをおとして、たったひとりのベッドにもぐりこんだ。
08.09.06
虎あさっぽいけどあさ虎のつもりでかいたのであさ虎です まあどっちでもいいけど





100:さようなら、あいしたひと