これのつづきです



 きりきりと、胸のおくのほうがいたむことを自覚していた。
 途方もなくひろい平原が目のまえにひろがり、行く先はとても自由に思われた。先行するライトニングに、ヴァニラとファングがつづいている。先方の彼女には、ごくたまに、背後でなにかしらことばがかわされているのが聞こえた。どうでもいいことだ、と、思っていたはずだ。しかしライトニングは、きりきりと胸のおくがいたむことを自覚せざるを得ないのだ。そろそろ日もくれそうで、うしろのふたりはきょうの野宿の場所についての相談でもはじめているようだった。
 最近よく目があった。ヴァニラとの話だ。たとえばいま、焚き火をかこみ粗末な夕食をとっている最中も。ライトニングにしてみればさして興味のある人物でもなかった。それはおそらくあちらもいっしょだったのだろう、あまり話をするほうでもなかったし、特別気にかけるようなこともなかった。しかし、いまはもうちがった。その原因は、ライトニングにはわかりきっていた。

「ライトニング」

 集団からすこしはなれて、ちかくに見つけたちいさな泉のほとりにいた。ひとりにでもなりたかったのだろうか、繊細な心理を思いついてつい自嘲する。夜の空気はつんとつめたくて、背後からかけられた声にふりかえることをためらわせた。ライトニングはまばたきをして一瞬だけ天をあおぎ、それからやっとまるで気のぬけた顔をして後方へとからだをむけた。ヴァニラが、気まずげにかすかに視線をふせていた。

「なんだ?」
「……いなくなったから、どうしたのかと思って」

 わざわざさがしてくれたのか、と気づいたが口にはしなかった。どうしてか、うまくことばにできる気がしなかったからだ。ぱたぱたと、ヴァニラらしくおちつきのない足音がちかづく。気にさわるしぐさだ。ライトニングは、ここでも胸がいたくなった。非常に身勝手ないらだちだとわかっていながら、彼女はまゆが不快感をあらわにゆがむことをとめられない。

「なにしてたの?」
「べつに」
「……おしえてくれたっていいのに」

 すこしひくい位置から聞こえる少女の声は、ライトニングの神経をさわさわと逆なでしていた。あっさりと自分のとなりにおさまってしまったヴァニラを、ライトニングはしっかりと見ることができない。だって、ヴァニラはセラと似ていた、けれど、ヴァニラはヴァニラでしかありえないのだ。ヴァニラのヴァニラらしいしぐさ、当然似合っている彼女らしさがいやだった。完全なるおろかな思考だった、ライトニングは、ヴァニラにセラであってほしいと思っている。

(いかれてるな)

 ヴァニラをつきとばして、その場からさりたいほどの気持ちだった。それなのに、反面では彼女の声をずっと聞いていたいとも思われた。泉が光を反射させていてきれいだとか、グラン=パルスは緑のにおいがいっぱいで素敵でしょうとか、ヴァニラはとりとめない会話が得意だ。相槌をうつことすら放棄して、ライトニングはとなりにたたずむ少女の話に耳をかたむけた。

「……ねえ」

 するとふとしたよびかけ、そしてヴァニラは口ごもる。ライトニングは不審に思い、ついとなりを見おろした、すると目があって、まるい瞳にまるで自分がうつっているような錯覚。あのとき言ったことって、なんだったの。さもずっとずっとたずねたかったことのように、ヴァニラが声をちいさくした。そしてライトニングは、彼女の言わんとしていることを正確に理解していた。よく目があうようになった原因の話を、この子はしているのだ。

「あのときって、なんだ」
「……」

 ライトニングがとぼけると、目に見えてヴァニラが元気をなくした。もともとライトニングに対してはどこか遠慮がちだったのが、完全にしぼんでしまった。それはそうだ、数日前にそっとほほをなでられて、思わせぶりな台詞をきかされて彼女はきっと動揺していた。いままで仲間のなかのひとりでしかなかったのに、急激に彼女の意識のなかにライトニングははいってきた。
 しかし、思いしらされた。まいあがっていたのはこちらだけだった、ライトニングにとってあのできごとは、とっさには思いつけないような、とるにたらないことだった。

「……そっか、そうだよね。寝ぼけてたのかな、あれ」

 とりつくろったかのようなあかるい声で言って、ヴァニラが笑った。相手をからかう調子で冗談を言って、ライトニングも笑ってくれればいいと思った。しかし、彼女がヴァニラの気持ちをくんでくれることはない。

「そうだな、そうかもしれない。私はもうおぼえてないから、おまえもわすれたらいい」

 つめたい台詞だった。本当はヴァニラの言いたいことがわかっていて、わざとなかったことにしたいような言い方だった。寝ぼけていたのはわたしだ、とヴァニラは思う。どきどきといやな感じに心臓がなって、不本意に赤面することを自覚した。羞恥心からじわりと目のおくまであつくなった。ライトニングのただの気まぐれを本気にしていた自分が、はずかしくてしかたなかった。

「うん、そうね。そうだね……」

 ヴァニラの声はふるえていた。まるで泣き声だった。思いついた瞬間、ほほになにかつたった。涙だ、と自覚する一瞬前、それとはまたちがうものがほほにふれる。

「……なんで泣く」

 あいかわらずの、ぶっきらぼうな言い方だった。守りたいとうそぶいた彼女は、やさしかったことなんてない。あの夜があけたら、ライトニングはささやいたことばなんて覚えていないかのように以前のままだった。気にしていたのは本当にこっちだけで、たまに目があってもすぐにそらされてばかりだった。

「ごめ、なんでもない。わたしが、ばかだから……」
「ヴァニラ」

 発言をさえぎるように、ライトニングが名をよんだ。涙のあとをなぞるように、親指がほほのうえをすべる。あのときのことを髣髴とさせるふれ方で、ライトニングが無表情でヴァニラを見おろす。

「…や、やめて」

 手をはらおうと思った。でも、手首をよわよわしくつかむにとどまった。それでもせめてことばだけでも拒否したかった。やめてとくりかえし、首だってふった。ライトニングは、やめない。

「どうして、おかしい、こんなのおかしい」
「そうだ、……たぶん、私はおかしい」

 無責任な断定、意図が読めなくて、ヴァニラは思わず顔をあげた。瞬間、極度にそばでライトニングの瞳を見つけて驚愕した。か、とほほが熱くなる。なにも言えなくて、まばたきすらわすれた。やめて、と言わなくてはいけないと思った。しかしそれよりもさきに、ライトニングが目をほそめる。

「……っ」

 キスをされたのだ、と気づくのにたいした時間はかからなかった。しかし、問題はそこではない。ライトニングはヴァニラのあごをきつくつかんだ。ほほには、つめがくいこむ。あまりの衝撃にきゅっと目をとじるが、そんなことを気にするライトニングではなく、乱暴なうごきが唇をわりにかかる。ヴァニラは目のまえの人物をつきとばそうとした、肩をおした、しかしびくともしなかった。

「はっ……」

 無理やりなくせに、息継ぎのための合間はあたえてくれた。こんなキスの仕方なんてしらないから、ヴァニラはライトニングにされるがまま息をあらくする。他人の舌の味を思いしらされた、こんなにこわいものならしりたくなかった。そう思った瞬間に、かっと胸のおくが熱くなった。その原因が怒りだと気づいたころには、ヴァニラは行動にでていた。

「ぐ…っ」

 ライトニングがうめく。反射的にヴァニラをつきとばした。口元をおさえる、指のさきに見つけたぬるりとした感触、唇のはしのほうからわずかに出血していた。かまれたのだ、と思ってやっと、ライトニングは我にかえる。

「……」

 三歩ほどあとずさったヴァニラはなにか言いたげだった。しかし肩で息をするばかりで唇はことばをつづらない。思いのほかいたむ傷口をおさえながら、ライトニングはヴァニラの非難めいた視線をうけとめた。ごく、とつばをのみ自分のしでかしたことに思いをはせて、血の気がひいていくことを感じていた。ライトニングは相手の出方をさぐるほかない。しかし、せめてののしってくれたらいいのに、ヴァニラはやはりなにも言わない。ただにげるように、その場をさっていくのみだった。
 のこされたライトニングは、そばに見つけた岩場にこしかけた。ひんやりとしたそれにてのひらをはわせ、冷静さをとりもどそうとした。彼女は基本的に冷静でない。つめたい言動にそう思われがちだが、彼女が自覚するとおり、行動はいつも感情におしながされてばかりだ。

(……いかれてる、本当に)

 ずきずきと唇がいたむ。かまれる感触、決して気持ちのよいものではない。なにがしたいのかわからなくなった。ヴァニラにあんな目で見られてつらく思った自分に驚愕するのだ、もう自分にちかづくなと牽制するためにあんなことをしたつもりだったのに、ライトニングはこの唇のいたみをしばらくわすれられそうにない。
 ふと、気配がする。まさかと思った。そんなはずはなかった。しかし顔をあげると、そこにはヴァニラがいた。すこしこわい顔をして、ひょっとしたらライトニングをおそれる顔をして、少女がはなれたところにたっていた。呆然と彼女を見る、ヴァニラは、まっすぐな瞳でライトニングを見る。どれほど見つめあったのかライトニングにもヴァニラにもわからず、ただ、自分をおそれているはずの少女が急にこちらに歩みよってきたことにライトニングはおどろいた。

「ヴァニラ」

 なにを言いたいのか自分でもわからないまま、よびかける。ヴァニラは岩場にすわりこんだライトニングを見おろす。なぐりにでもきたのか、そうだな、それだけのことを私はした。ライトニングは思いついて、目をとじた。くるべく衝撃にそなえた。あの夜のヴァニラもこんな心境だったのだろうか、妙におちついていた。
 しかし、つぎに覚えた感触は思わぬものだった。ふわりと、あたたかいなにかがほほをおおう。目をあけ、見あげた。ヴァニラは眉をゆがめて、かなしいようなおこったような顔をしていた。

「……おまえは、ばかなのか」

 ケアルの青白い光が、ライトニングの唇にふれていた。ほほにあてがわれたてのひら、やわらかな刺激。彼女の治療の矛先は、自らがかみついた傷口だった。相応の理由をもってつけた傷を、ヴァニラは自らなおそうとしていた。いたかった、と、まるで自分が加害者のような口調で、あやまるような口調でたずねられる。やめてほしいと思った。

「便利なもんだな、魔法ってのは」

 思いがけず、つめたい声がでる。皮肉めいたそのことばに、ヴァニラはこたえることもできずに唇をかむ。ヴァニラはみんなをまきこんだと思っている。魔法をつかえるような特殊な存在、ルシへと変容させたのは自分だと思っている。そんな彼女にとって、ライトニングのことばはききすぎるほどだった。そしてそれは、もどってきてくれたこと、もう彼女の瞳が自分を非難していないことにわずかでも安心してしまった己に対する牽制でもあった。もうやめておけ、ちかづくのも、ちかづかれるのも。しかしそれがまったく意味をなさなかったことをライトニングはすぐに思いしることになる。

「……わたしは、ばかだけど」

 ヴァニラが言う。わたしはばかだけど、でもそんなの、ライトニングだっていっしょだよ。それは、まったくそのとおりだった。

「ねえ、だってこんなのおかしいよ、ライトニングはあんなにひどいことを言うのに、どうしてあんなことをするの、……こんなこと、するの」

 こんなこと。ヴァニラの声を、ライトニングは聞いていた。そう、まるで彼女にすがるようにしながら聞いていた。気づかぬうちに傍らにたつ少女の腰に片手をまわしだきよせて、あまえるように額を彼女の露出した素肌におしつけていた。そうだ、もうやめておけとせっかく忠告したというのに、すでに思考と行動がまったくちぐはぐなのだ。もう手のほどこしようがないのかもしれない、とライトニングは思う。

「……おまえにかまれて、いたかった」

 そえられていただけの手が、ついにはほほにふれた。あやまれないことがとてもなさけなかったが、そうしないほうが正しいような気がして、ライトニングは、ただヴァニラにすがりついていた。
10.01.04 ほとり