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これのつづきです
ぱらぱら、とこまかな土砂が耳のそばをおちていって、わずかばかりが肩や頭のうえにのった。しかしのこりは足元のもっとしたへとこぼれていき、とおざかる土砂のゆくえは、見えない。
「……い」
いたた、と、腕のなかで声がする。ライトニングはしばし呆けていた意識を瞬時に覚醒させ、思わず腕にこめる力をゆるめた。が、すぐにまずいと思いなおす。
「まった、わるい、うごくな」
反射的にはなれていきそうになったから、うしろからもういちどかかえこんだ。すると結果的に唇が耳元によせられることになる。そんなことなど気にしないでライトニングがささやくと、彼女のすぐそばにある肩がちいさく反応する。
「わ、わ。え?」
ヴァニラの困惑気味な横顔、のぞきこみながら、ちょいとしたのほうを指さした。すなおに視線をうごかしたヴァニラは、こんどはからだをこわばらせる。
「え……」
「よかったな、したまでおちてたらしんでたかもしれない」
ヴァニラが見たのは、ふかいふかい渓谷だった。ほそい線に見えるほどとおい川がいちばん底をながれ、耳をこらすと水の音が聞こえる。かなりの高さにからだの芯がすっとひえた。が、瞬時に熱はもどってくる。なぜなら、いったいなにがおきたのかヴァニラはライトニングのひざのうえにのり、うしろからだきかかえられていたのだ。せまくるしいが、我慢してくれ。この体勢がいちばんおさまりがいい。また耳元でライトニングがささやき、ヴァニラはうなずくしかない。
がり、と頭上で音がして、ぱらぱらと土の屑がこぼれた。その原因はライトニングが絶壁につきたてていた軍刀をぬきとったこと。ヴァニラが見あげると、土の壁にはそれのつけたふかい縦の傷がついていた。
「運がいいよ、いい具合にでっぱってた」
極度に混乱するヴァニラに気づいているのかいないのか、ライトニングはとんとんとすわりこんでいる場所を指でたたいた。うえのほうにもしたのほうにもひろがっている絶壁のなかで、ふたりがおちた場所は人間がひとりおさまるほどの平らなでっぱりだった。たしかにこのせまい足場では、こうやって密着する以外に手はなかった。混乱して下手にあばれなくてよかった、ひょっとしたら谷底へところがりおちていたかもしれない。
「えっと…、うえからおちたの?」
「ああ、おぼえてないか。ふっとばされたときに一瞬気をうしなったみたいだな」
説明する気のないライトニングのことばをきいて、ヴァニラはそれでもぼやけた記憶をわずかばかり整頓することに成功した。天をあおぎ、途端ばさっとおおきな羽音がなる。崖の天辺のむこう側に垣間見えたのは、巨大な怪鳥だった。徐々に、衝撃でばらばらになっていた認識能力がもとにもどっていく。
絶壁にはほそい木がよこにのびていたり、ぼこぼこと足場になりそうなでっぱりがある。そのむこうでは怪鳥の翼が羽ばたき、空からふる光を断続的にさえぎっていた。そうだ、ふたり組にわかれての行動中にやつとでくわしたのだ。見るからにふたりでは太刀打ちできそうにない風体だったその魔物は、しかしにがしてくれる気もないらしかった。強制的に戦闘へと突入し、そして気づけばここにいる。
「あ…、わたし、あいつにやられて」
そういえば、やつの翼にふきとばされたような覚えがあった。とんだ失敗をしたものだ。おまけにそれは、谷底へとおちていこうとするところをたすけてくれたライトニングまでまきこんでいる。思わず頭をかかえたくなり、反射的に謝罪するところだった。
「しかし、おまえがふきとばされてくれてよかった」
でもライトニングがふしぎなことを言って、ヴァニラの出鼻をくじいてしまう。ふりむくようにして右肩のうしろを見ると、彼女は先程絶壁に傷をつけた軍刀を角度をかえつつじろじろと見ていた。落下を極力ふせぐべく岩石のまじった土の壁につきたてたせいで、刃こぼれでもしていないか気になっていた。とはいえコクーンの技術で改造をくりかえしたそれは、そう簡単になまくらになったりしないらしい。うつくしい形状をたもった刀身、ヴァニラも思わずいっしょにながめ、やっとはっとする。
「よかったって?」
「おちるのが唯一の逃げ場だったってことだ。本当に運がいい。やつはここまでおりてくる気はないらしい」
ライトニングが視線をうえにもちあげたから、ヴァニラもつられた。あいかわらずその場からはなれることのない怪鳥は、それでも確かに崖のしたのほうまではやってこない。だが、すこしだけ不安に思った。ライトニングの考えていることをヴァニラは見当すらつけられないから、いまのも本当は足をひぱった自分に気をつかっているだけかもしれない。なんて卑屈なんだろうと思う。すねるように唇がとがって、それをふりはらうようにあのねと言った。
「あのね。ありがとう、たすけてくれて」
「ん……」
ライトニングの面食らったようなすに、すこし唐突だったかなと思った。ああ、べつに。ややあってからライトニングはヴァニラの言わんとしていることに思いあたり、うなずく。てれかくしのような簡素な返事、ヴァニラは気づいていないが、彼女がこういう場面でごめんでなくありがとうと言ったのは実はこれがはじめてだった。咳払いでもしたいくらいの気持ちのライトニングのとなりで、ヴァニラはというと、ライトニングってすぐにべつにって言うなあ、とぼんやりと考えている。
「しかし……どうするかな」
ひとりで勝手に気まずくなっていたライトニングが、空気を一変するべくつぶやく。とはいえそれは現在もっとも重要な議題だった。たしかに一時的に難をのがれはしたが、現状からの根本的な脱却はかなりむずかしい。
「このへん、あいつのなわばりみたいね」
「だな。下手にうごけない。のぼろうと思えばなんとかなるだろうが、その途中でやられるか、のぼりきってからやられるかだ」
会議は早々にいきづまる。むしろ、結論がでる。口にはださずとも、双方おなじことを考えているにきまっていた。すなわち、仲間たちのたすけをまつのが最善策だった。しかし、そのたすけがいつくるかの見当などはつけられるはずもない。すこしのあいだの沈黙、しばらくしてどちらともなくため息がもれた。
「まいったー」
「まいったなあ」
ヴァニラの気のぬけた声に同調して、ライトニングもお手上げのポーズをした。すると思いがけずヴァニラをかかえていた腕がとけてしまい、となるとその手の行方がためらわれた。もともとあった場所にもどすのがおそらくもっとも自然なはずだが、そうするタイミングはすっかり逃してしまったように思われた。ライトニングはじつにちいさなことで身動きがとれなくなっている己に呆れつつ、しかし幸運にも即座に視界のはしに突破口を見つける。
「それ」
そもそも、手は考えるよりもさきにうごいていた。指先で目のまえの耳たぶにふれる。かすかにヴァニラは息をのみ、その感触の違和感におどろいた。
「血が」
ライトニングは簡潔に報告する。耳たぶからにじむ血、ヴァニラも思わず手をのばし傷口を確認する。ぬるりとした感触をおぼえた指先を目のまえにもってくると、かすれる赤色を見つけた。
「あ…、ピアス、どっかにひっかけちゃったのかな」
気づかなかった。落下するとき輪になった耳飾りがどこかにひっかかり、そのせいでピアスホールがわずかにさけたらしい。いざ思い知ると急にじんじんとした痛みを感じはじめた。
「とりあえず、ピアスはずせ。ケアルかけるから」
「や、そんな。大丈夫だよこれくらい」
意外と過保護なことを言うライトニングにおどろきながら、ヴァニラは首をふった。
「ばい菌でもはいったらどうする」
「そんなやわじゃないってば」
「でも……」
しかもしつこい。ファングみたいだな、と思った。いつも余計なくらいに心配してくれた。それはさりげないこともあったしおしつけがましいほどのこともあった。どちらにしても、ヴァニラにとっては大切な思い出だった。ヴァニラにとってはついこのあいだの、実際は数百年もまえの思い出。急に、むかしのあることが頭にうかんだ。
それを尻目に、まえにセラがピアスホールをあけた際に、そこが化膿して彼女がかなり痛がっていたことを思いだしたライトニングは、まだぐだぐだと説教のようなことばをならべてばい菌のおそろしさを語っていた。
「それにね」
が、ヴァニラがさえぎるようにつぶやいた。はたりと口をとめ、ライトニングはまばたきした。しかしヴァニラのそれは無意識のつぶやきだったらしく、すぐにはっとしてわずかにうつむく。
「……ね、ピアスとってケアルかけたら、傷口といっしょにピアスホールもふさがっちゃうかな」
唐突な質問だったので、ライトニングはこたえかねる。さあ、どうかな。適当な返答をし、ヴァニラの言わんとしていることを読もうとした。
「ファングって、左の肩に刺青してるでしょ」
しかし話はさらに思いがけぬ方向にとんでいくので、ライトニングはさっそくお手上げしたい気分になる。しかもふられた話題は先日わけのわからない言いあいをしたばかりのファングのことときたものだから、彼女はすっかりひるんでしまった。
「あれね、むかしわたしもおなじ刺青したいって言ったの。でもファングにだめって言われちゃった」
「……あれは、おまえにはにあわないだろ」
「あはは、ファングとおなじこと言ってる」
それからも、だめだとつっぱねるファングにぐずぐずとわがままを言ってすごく痛いんだぞとおどされたことや、これは戦士の証だからおまえには必要ないんだと説得されたことをぽつぽつと話した。ヴァニラの語り口は、こどもに対するようなやさしさにあふれている感じにもひとりごとのようにそっけない感じにもきこえた。どちらにしても、ライトニングにはこの子のこういう話し方は苦手に思われた。いや、ひょっとしたら、じりじりと胸のおくが痛むのはこの声のせいでなく、彼女の話している内容のせいかもしれない。
「それでね、そのかわりにって、これ。ファングがあけてくれたんだ」
耳からさがる飾りをほそい指のさきでなでる。おなじ刺青をしたかったわけではないす、痛いこともわかっていた。それをとりのぞいてあげることなんてできないから、だからせめて、それを共有したかった。あのときうまくつたえられなかった気持ちを、ヴァニラはいまさら思いかえす。
「……ファングにあけてもらったものだから、ふさがるのはいやなのか」
「うん」
こく、とライトニングの腕のなかの少女がうなずいた。まるで健気なしぐさだった。わかりきっていたことだ、ヴァニラにとってファングは大切な家族で、彼女のことを語る声がライトニングにとってずっととおくにあることは当然なのだ。
「でもね、わたし、ピアスあけるだけでもすごく痛くてないちゃって」
「うん、想像できるな」
「えー」
からかうと、ぷくっとほほがふくらむ。かわいらしい表情、こんなにそばにあるのに、なぜだかふれられないような錯覚がおきる。私は、これにふれたいのか。ためらいは、そんな気持ちをライトニングに思い知らせた。
「でも、そのときってほんのこどもだったから、ないちゃってもしかたなかったんだよ」
すねた声で言い訳しながら、ヴァニラは首だけでふりかえった。すると目があってしまい、しかも彼女は一瞬かたまる。しまった、変な目で見ていたかもしれない。見かえしながらのライトニングの危惧は、しかし杞憂におわる。
「ねえ、ライトニングも怪我してるよ」
せめて上半身だけでも背後のひととむきあえるように身をよじる。そっと手をのばしてほほにふれた。それをおいかけるようにライトニングも手をうごかす。すでにほほによせられたものにかさねるようにして、すると指先にかすかな血がついた。ほとんどかわいて、量だってほんのすこしだ。原因は、ヴァニラのそれとおなじようなものだろう。
「ああ、ほんとだ。かすり傷だな」
「なおさなきゃ」
「いい、このくらい」
面倒くさくて自分にふれる手をおしやると、ばい菌がはいったらあぶないんでしょ、と先程の説教を揶揄された。もちろん無視した。
そもそも、治癒魔法なんてつかえるせいで、我々はちょっとした怪我に過敏すぎだ。ヴァニラの怪我を見つけたときの自分のことなど棚にあげて、ライトニングはいまはそんなことより体力温存が最優先だと言いつける。しかしヴァニラはけっこうしつこく食い下がってくるので、せまい足場でのじゃれあいのような攻防がながびきかけた。
これはまずい、とさきに我にかえったのはライトニングである。
「いいから、おとなしくしろっ」
あ、という悲鳴。からだのむきをもとにもどさせ、ヴァニラの視界をてのひらでおおってだきよせた。ふと思いだした最後の手段だ。軍にはいりたてのころ、傷をつくって帰ってはセラに説教まじりの心配をされた。あんまりうるさいから、わかったとうなずきながらうしろからこうやって目をおおいひきよせた。儀式のようなものだ、意外と我のつよい妹は、なぜだかそうするとおとなしくなる。おねえちゃんのてのひらって、なんだか安心する。そんなことを言っていたような気もした。
すると、ヴァニラもすっかりおとなしくなってしまった。これはセラ以外にも効果があるのか。おどろいていると、ふたつの目をおおう手に、ヴァニラのてのひらもかさなる。
「あったかいね」
ぽつりと、つぶやきがこぼれる。それが自分のてのひらのことであるとすこしおくれて気づいたライトニングは、妙な罪悪感を覚えた。さっきはふれられないと思った、でも、簡単にこうすることができてしまう。彼女の髪にほほをよせ、なにか言おうと思った。しかし、結局なにも言えない。
「いつも、セラにこういうふうにしてあげるの?」
だって、思わぬ名が登場してしまったのだ。瞬間、ファングのことばが思いだされる。ヴァニラのことを、あんまりなめないほうがいい。まったくそのとおりだった、気づかれていた、彼女に妹の影をかさねていること。目をおおっているせいで表情はよめない、そんななかで、ヴァニラは淡々と話をした。
「ライトニングって、たまにすごくやさしい目になったり、いまみたいに大事そうなさわり方するでしょ、そのときって、きっとセラのこと考えてるんだろうなって」
ヴァニラは、さも当然のことを話している口調だった。それどころか、セラを溺愛しているライトニングをからかっているかのようでもあった。だって、彼女にとってライトニングのやさしさは自分にむけられるはずがないものなのだ。それを疑おうとも思わないで、ともすれば代わりにされているかもしれないことを、おこりもしない。ライトニングはそんなヴァニラの気持ちを推し測り、衝撃をうける。だってそれは、確かに真実なのだ。
「ヴァニラ、私は…」
それなのに、反論は口からでかけた。しかしその瞬間、目のまえをおおきな影が落下した。ぎょっとして目でおえば、先程まで羽ばたいていた魔物が谷の底へとすいこまれていこうとしていた。
「……おーい、大丈夫か!」
そのつぎには、頭上からふってくる声。どうやら、救出は思いのほかはやかったらしい。見あげればファングがいて、ほかの面子もこちらをのぞきこみ口々にふたりを心配している。まるで現実にもどってきたかのような感覚だ、それは、いままでの会話が夢であってほしいと思う気持ちの裏がえしのようだった。
「大丈夫だ!」
声をはりあげライトニングは彼らにこたえる。ヴァニラも手をふって無事をつたえた。たすかったね。腕のなかでこぼれたヴァニラのほっとしたようなつぶやきは、それでもライトニングには、言いのがれできそうになかったことにむけられたように感じられた。