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これのつづきです
目をあけたところで見つけたのは、おどろいた顔をしたヴァニラだった。
「あ…ご、ごめん」
あわてたようすの謝罪に、ライトニングは首をかしげる。薄暗い視界、しんとしずまった景色のなかで、ヴァニラがまばたきをしていた。おおきな目がいつもよりもすこしおおきくなって、動揺の色を見えかくれさせる。どうした、とたずねようとしてうまく声がでなくて、ライトニングはそこでやっと状況を把握する。つめたい空気にうすい霧、それは夜明け特有のものだ。
「おこしちゃった、ごめんね」
身をおこした。すると視線のたかさがほぼおなじところにきて、しかしそれはヴァニラのほうが若干ひくい。先程まで見おろされていたのが、わずかに逆転した。まだぼんやりとする頭をかるくふって、ライトニングはこんどこそたずねることにする。
「私がおきるようなことをしたのか」
「え? えーっと……」
ヴァニラは、わかりやすく目をおよがせた。朝とはいえ、まだあたりはあかるくなりきっていないほどの時刻だった。いつもよりもすこしだけはやい起床は、たしかにヴァニラが主張するように他人からもたらされたものと考えるほうが自然だ。
言いよどんでいるヴァニラの返答を一瞬だけまったが、彼女はすぐに思いなおしてすっとたちあがる。唐突な行動におどろいたのか、きょとんとした視線がうえのほうへともちあがる。それを見おろして、ライトニングはヴァニラのうしろでいまだねむりについている仲間のひとりも一瞥した。むこうをむいて自分の腕をまくらにしているファング、彼女はぴくりともうごかず寝息すらとどいてこない。
(枕元でぼそぼそ話されちゃ、聞きたくなくても聞こえちまうさ)
きのうの、屈辱的なやつのことばを思いだす。ライトニングにとって、あれはおおきなひめごとだった。ヴァニラとの会話である以前に、妹とのふれあいだった。だれにもしられたくないことだった。真剣にそうと考えている自分が不気味だと思ったが、事実なのだからしかたがない。そしてライトニングは、おなじ失敗をくりかえすほど間がぬけてはいなかった。
「……散歩だな」
「え?」
「朝の散歩」
ついでにすっと視線をめぐらせて、ファングと同様寝入っている仲間たちを観察する。ライトニングはおこさぬように気をつけながらあるきだした。ヴァニラはあいかわらずすわりこんでぼけっとしている。しかしライトニングがちらりと視線をむけると、はっとしたようにまばたきをして、彼女のあとにつづいた。
「ライトニングは、散歩がすきなの?」
「べつに。気がむいただけだ」
仲間たちからはなれすぎないように、周囲をぐるりとまわるようにしてゆっくりとあるいた。魔物たちもまだ寝静まっているのか、おだやかな空気がそこにあった。
さいしょのうちは一歩さがってつづいていたヴァニラだったが、いつのまにかライトニングのとなりにおいついている。きょろきょろと視線はおちつかず、それがまわりの景色をたのしんでいるだけではないと気づいたのは意外と最近だ。過酷なこの地でうまれそだった少女はきっと、コクーンをはなれてほんのわずかしかたたないライトニングには想像もつかないようなくらしをしてきたのだ。少女のあいしてやまないグラン=パルス、ライトニングが地獄と信じて疑わなかった世界。
あるくたび、靴のしたでかさりと植物が音をたてる。コクーンにだって緑がないわけではなかったのに、ここでは目にうつるすべてがはじめて見るような力強さをもっていた。そしてそれは、ヴァニラだって例外ではない。
「……ライトニング?」
思いがけずたちどまっていた。反応がおくれたヴァニラはすこしだけさきにすすんでしまい、ふしぎそうなよびかけとともにふりかえる。ライトニングは、広大な見晴らしを背景にたたずむ少女をながめた。きれいだと思う、とても似合っていると思う。
ぼんやりと、われわれはすむ世界がちがうのだときめつけられた気がした。
「私は」
なにが言いたいのかもわからないまま、ライトニングはすこしだけおおきな声をだす。ふみだしてヴァニラの手首をとった。反射的にひかれる手、それでもはなすまいとわずかなちからをこめると、ヴァニラはすぐにおとなしくなる。ぐいとよせればいまにもだきしめられそうなほどに距離がちぢまった。でもそんなことをする必要はない。だってもうたしかめられた、たとえすむ世界がちがっても、こうやってふれることができる。息づかいをしることができる。
(私は、たとえおまえが私の手におえないような、それくらいつよいやつだったとしても)
ライトニングよりも背のひくいヴァニラだから、うつむかれてはつむじしか見えない。それくらい彼女はちいさい。ふしぎだと思った。グラン=パルスをいきぬく少女が、こんなにもたよりなかった。
ぎっとてのひらにちからがこもる。いたいのか、ヴァニラの肩がこわばる。ふりはらってほしかった。あなたなんていらないよ、と、つきはなしてほしかった。そのくせ、彼女のなかにはヴァニラがそうすることはないというふしぎな確信がゆらめいている。それは、とてもおろかなことだった。
「きのうの」
ふと、感触を覚える。ヴァニラの手首につながる右腕が、すこしひやりとした。ライトニングは一歩ひいて力んだてのひらをすこしゆるめて、自分たちのあいだでおこっていることを確認する。簡単なことだった、ヴァニラのもう片方てのひらが、きのう血をながした場所をなでていた。
「さっきね。たしかめようと思ったの。そしたら、さわるまえにライトニングはおきちゃった」
ぼんやりとする思考のはしで、なるほど、とライトニングは納得した。不本意な目覚めは、ちかづく気配を感じたことによっていたのだ。先程なげかけすっかりわすれていた質問のこたえをいまさらきかされ、ライトニングはどうこたえたらいいのかわからなくなる。そもそも、なにをたしかめようとしたのだろうか。ふせた表情は見えなくて、奇妙な焦燥をもたらした。
「……わたしって、本当にばかなのね。ごめんね」
「なんの話だ」
「きず、のこってなくてよかった」
ライトニングの質問にはこたえないで、ヴァニラはおかしなことを言った。ライトニングはまゆをひそめて不審がる。
「きのう、おまえが治療してくれた。そのときちゃんとなおしてくれただろ。傷なんてのこってるはずがない」
「うん……でも、たしかめたかった」
髪の隙間からちらりとのぞいたライトニングの腕を見つめる瞳には、わずかな自責の念がやどっていた。どうしたものか、と思う。不用意なライトニングの行動は、思ったとおりにこの子に余計な気をつかわせるだけの結果をもたらしていた。
「ヴァニラ、きのうのことは全然おまえのせいじゃない。あれは私がでしゃばっただけだろ。本当はおまえひとりでやれていたのに、私が勝手に」
「ちがうよ。そうじゃないの、そういうことじゃない」
すこしつよい調子の声が、ライトニングをさえぎった。彼女がおどろいているうちに、ヴァニラは首をふる。
「……わたしは、うれしかったの。守ってくれたと思って、ライトニングはけがをしちゃったのに、わたしはうれしかった」
ひどいでしょ、こんなの。つぶやく彼女に、思いしらされる。ヴァニラの自責の理由を、ライトニングはすっかりとりちがえていたのだ。自分のせいでけがをさせたことではない、ライトニングがまるで自分を守るようにして傷をおったのをよろこんでいることが、ヴァニラをふかくしずませていたのだ。まるで違和感ののこる真実だった、ライトニングには、ヴァニラの言いたいことが理解できなかった。
「どうしてだ、なにがひどいんだ。私がしたいことをして、それでよろこばれたならそれにこしたことはない」
ライトニングは言いきる。すると一瞬の間、しかしすぐにぱっとヴァニラの面があがる。おどろきに見開かれた目が、おおきくまるくなっていた。ライトニングがヴァニラを理解しかねたように、ヴァニラにとっても彼女のその返答は予想外だった。
「……ライトニングって」
「なんだ」
平坦な調子の返事、ヴァニラはなにか言いたげに唇をうごかしたが、結局視線をそらした。はずかしそうに口元をとがらせて、ライトニングって、ともういちど言った。しかし、あとはもうつづかない。ライトニングはすっきりしなかったが、無理やり言わせることでもないと判断したのかふうと息をついてからするりとヴァニラから手をはなした。するとヴァニラもあわてたようすで彼女からはなれる。あたりはそろそろうすい霧もはれ、朝の光にみたされようとしていた。
「そろそろ、もどろう。みんなもおきてるころだ」
「あ…うん」
ライトニングはあるきだす。なんのためらいもなくあっさりと、ふたりの散歩はおわりかけた。ヴァニラはだめだと思った。いちばん大切なことを言いそこねている。とっさに手がのび、また先程とおなじところにふれていた。やっぱりだめだよ、とライトニングがふりむいてしまうまえに言いきった。
「きのうみたいなことは、だめ」
「ヴァニラ」
「だって」
だって、女の子がきずなんてのこしたら、だめだもの。きゅ、とてのひらにすこしちからをこめて、痛々しい傷口があったやわらかな皮膚をつかんだ。そのしたにはたしかな筋肉が感じられて、ほそいのにとてもしなやかなうつくしさをもつそれにかすかな羨望を覚える。ずっとふれていたいとまで思われたが、思いついたところではずかしくなったので手をはなす。途端、うえのほうからふっとふきだす声がした。
「ふっ…はは」
「え…なに?」
顔をあげれば、くっくと声をころしてライトニングが笑っていた。あんまりおかしそうで、状況の把握できないヴァニラはなぜだかはずかしくなる。まるで自分が笑われているような気になった。なになに、となんどもたずねるがライトニングはくくくと声をもらすことをやめず、ヴァニラはいっそうはずかしく、むしろいかりすらわいてきた。すねた顔をして唇をとがらせ、するとやっとおちついたライトニングがすまないとごまかそうとする。
「いや…、女の子、なんて。ずいぶんひさしぶりに言われたから」
「そうなの?」
「私は軍人だから、…軍人だったから。だったら、男も女もないからな。それに、女の子なんてとしでもない」
「ふうん……ライトニングっていくつ?」
「こないだ、二十一になった」
「えっ、意外」
ヴァニラが口元に手をやっておおげさにおどろいた。釈然としない反応だったので、ふけてみえるかとからかうと、彼女はえっと声をあげる。
「や、そうじゃなくて、でもべつにおさなく見えるってわけでもなくて、えーっとなんていうのかな。ライトニングってなんとなく年齢不詳って感じだったから、たぶんどんなとしでもおどろいてたと思う、わたし」
ヴァニラの言いわけめいた解説に、ライトニングはまた笑った。ひそやかなその笑い方は、しゃべりすぎたとヴァニラをはずかしくさせ、しかしそれ以上にてれくさくさせた。ひょっとしたらうれしいくらいなのかもしれなくて、ヴァニラの唇はわずかにゆるんだ。こんなふうなやわらかな表情が彼女たちのあいだにこぼれることははじめてだった。しかし、ふたりがそれを自覚することはない。なぜならば。
ふと、ヴァニラ、とライトニングがなまえをよぶ。よばれた少女は、まばたきをして声の主を見あげた。しかし彼女は、すでにどこかとおくをながめている。さっきのつづき。そう前置きされた話は、とてもライトニングらしい言い分だった。
「だから、私のことなんてほうっておいていい。けがをしたって、きずがのこったとしたって、おまえには関係のないことだ。……私が、勝手にやってるだけのことだ」
なぜならば、それはたった一瞬のまやかしでふたりにとってただの偶然で、全然必要のないものだからだ。そうと結論をだしているのはライトニングなのかヴァニラなのかはわからない。しかしライトニングはふわりと軽々しくつきはなすことばを口にするし、ヴァニラはうかびかけた気持ちを簡単にひやりとつめたくする。そのことはたしかだった。
「……そっか。うん、わかった」
ライトニングはもうとなりの表情をうかがおうとはしなくて、ヴァニラもすっかり言わなくてはいけないことをなくしていた。それでもふたりはならんであるいた。かさり、と靴のうらでは植物が音をならす。すこしずつすこしずつ、仲間たちの声が耳にとどきはじめていた。