「きえた?」

 アナが背後から肩をたたこうとしたところで、むこうが電話中だと気づいた。そんなまさか……いやでも……、ええ、わかってるわ。ひそめられた声をききながら、クリストフはアナをちらりと見おろす。すると彼女も目をぱちぱちさせてこちらを見ていたので、顔のまえでひとさし指をたててみせた。アナはわかってるわとでも言いたげにほほをふくらませ、しずかにまちあわせの相手のつくテーブルのむかいの席へと移動した。そこでやっと、むこうもこちらに気づいたようだ。

「はい、ええ。できるだけはやく」

 そしてアナがひらりと手をふってあいさつしたところで、彼女はあわてて通話をきってしまう。まったく、むこうの話がおわってからにすればいいものを。とはいえ、きょうのことを随分たのしみにしていたことはクリストフもよくしっていたので、彼女のせっかちもかわいく見えた。

「ごめん、邪魔しちゃった」
「いいのいいの、たいした話じゃなかったもの。ひさしぶりねアナ」
「うん」

 ぱん、と両の手と手をあわせあって、ふたりはひさびさの再会に感動しあう。するとちょうどそこにウェイトレスがやってきた。昼さがりのカフェテラスはそれなりにこんでいて、耳ざわりのいい喧噪をかなでていた。

「どうもはじめまして。ラプンツェルです」

 適当に注文をすませたところで、初対面の相手が自己紹介をする。クリストフはなれないおしゃれな場所で身をちぢこませていたので、あわてたようにどうもと返事をしてしまった。なまえはきいていた。アナによると、おさないころからの親友らしい。ふしぎといそがしい彼女とは中学にあがったころからなかなかあえなくなったそうだが、あるときをさかいに、そう、彼女がうつくしくながい髪をばっさりときってしまってからは随分あいやすくなったらしい。なるほどたしかに、いまの彼女はみじかい茶髪をやわらかそうにはねさせている。ながい金髪もきれいだったけど、いまのラプンツェルもとってもかわいいの。そう説明をうけたとき、おれにとってはきみの赤髪がいちばんかわいいよ、と言ってしまおうかと思ったが、なんとなくよした。けっして言えなかったのではない、言わずにおいたのだ。彼女は自分の髪のことをすこし気にしている。なぜだかひとふさだけちがう色をさせている、自分のかわった髪のことを。

「ちょっと、どうもじゃなくてちゃんとあいさつして」
「え、ああ、ええっと。おれはクリストフ。アナとは……アナさんとは清い交際関係を」
「ねえねえ、そんなことよりラプンツェルの相手は?」
「……」

 ちゃんとあいさつしろと言ったのはどこのどいつだったろうか。クリストフはきゃいきゃいとふたりでもりあがりはじめた女の子たちを横目に、せめてはやく注文したアイスコーヒーがとどかないだろうかと思った。
 ことのはじまりはこういうことだ。つい先日、友人関係から一歩さきにすすむことに成功した子から、あってほしいひとがいると言われた。随分意味深なもの言いだったので、クリストフはもちろん緊張する羽目になる。でもおれ、ちゃんとした服なんてもってない、買う金もない。そういうことをあわてて言うと、アナは声をあげて大笑いをした。いわく、そんなたいした話ではない、ともだちにあわせたいだけだ、とのこと。からかわれたのだと気づいてクリストフは顔をしかめたが、つぎにつづいたことばにそんな気持ちもふきとんでしまった。

(そもそも、ちゃんとした服をきたクリストフをあわせるべきひとなんて、あたしにはいないもの)

 心底おかしそうにアナが言う。この話をジョークにつかうのは、彼女のわるいくせだった。
 アナは天涯孤独の身だった。彼女がもっている家族の記憶は、うんとおさないころに事故でなくなったらしい両親のものだけだった。もうすっかり色がはげおちてうすらぼやけてしまったそのあたたかな日々は、しかしアナがまっすぐそだつことをちゃんと手助けしたように思う。はじめてあったときは、あかるくて快活な彼女がそんな身の上だとは思いもよらなかった。そもそも彼女はもっているものも身につけているものも上等なものばかりで、苦学生であるクリストフにはすむ世界のちがう子なのだとすら感じられた。きくところによると、彼女の両親は随分な資産家だったらしく、遺産だけはありあまるほどにあるらしい。いちどだけ招待されたアナの自宅は目がさめるほどの豪邸だったし、何人かの使用人までいた。どこか現実離れしたそのさまに気持ちがあとずさるような気がしたことを、クリストフはよくおぼえている。

(ねえ、すてきなおうちでしょう?)

 そしてそう言ってふりかえったあふれるような笑顔にぎゅっと胸がしめつけられたことも、事実だった。
 おれも孤児なんだ、と告白したのは彼女の家からかえる間際だった。アナは、そうなの、とだけ言って、クリストフの手をとった。彼女はひとよりすこし体温がたかい。けれどそのときのてのひらばかりは、なぜだかひやりとつめたく感じられた。

「やーやー。おそくなりました」

 はっとした。すっかりもの思いにふけっていたクリストフは、いつのまにかラプンツェルのとなりに男がたっているのに気づいてぎょっとする。

「本当よ、おそすぎ。何分遅刻したか言ってみて」
「まあそう言うなよ」

 軽薄そうなその男がクリストフたちのテーブルにつく。ちらりととなりのアナに視線をおくると、彼女は目をかがやかせて彼を見ていた。あまりいい気持ちはしなかったが、それがただの好奇心であることはわかっているのでおちつくことにする。

「こんにちは、はじめまして。あたしアナって言います。ユージーンさんですよね?」
「おやおや、こんなかわいいおじょうさんになまえをしってもらえてるなんて、光栄のいたり」

 ユージーンと言うらしいその男はながれるようなうごきでアナの手をとる。思わず手がでるかと思った。しかしそれよりさきに、ユージーンがぐえっと声をあげる。

「ユージーン?」
「た、ただの社交辞令じゃないの……」

 男が身をまるめてもだえた。どうやらテーブルのしたでわき腹あたりにいいのをもらったらしい。それを横目に、ラプンツェルがかわって男の紹介をする。そう、彼はユージーン。まあプータローとも言うけどね。うめき声をだしているだけでもなさけないのに、そんな身も蓋もない説明をされては。クリストフが思わずくっと笑うと、やつがこちらを見る。ああ、もうひとりいたのね、とでも言いたげな目だ。どうやら男はものの数にいれられないたぐいの人種らしい。

「どうも。おたくさんは?」
「……ども。クリストフっす」

 なんとなくひくい声になるまま言うと、ユージーンはひとを小馬鹿にしたような顔で笑ってからさっさとアナに視線をもどした。むかっとしたが、クリストフは紳士だった。すくなくともそのつもりだった。アナの友人のまえで失礼なふるまいはけっしてしない。

「おふたりのなれそめは?」
「あ、それわたしも気になってた」
「えー。あたしはあなたたちのなれそめのほうがさきにききたい」
「俺たちのは最高にロマンチックさ。とらわれのお姫さまをつよくてこころやさしいヒーローがすくいだしたんだ」
「適当言うのやめてよ」
「そう? うまいこと言えたと思ったんだけど」
「なになに? もっとくわしく」
「残念ながら、このさきは有料なんだよなあ」
「ごめんね、彼の言うことは適当にながしていいから」
「おいおいそりゃないぜラプンツェル」

 しかし、もりあがる三人にどうにもついていけなくなってきたクリストフは、ついついむかむかした気持ちをおおきくしてしまう。で、あなたたちはどうなの、ねえクリストフ? そうやってしずかにしている彼を気づかったのか、ラプンツェルが水をむけてくれた。しかしながら彼は、それにまったく最悪のかえしかたをしてしまうのだった。

「アナが顔だけでえらんだ男にひどい目にあわされて、それをなぐさめてるうちになんとなく」

 ぴき、と空気がかたまる。しまったと思ったころには、もちろん手おくれだった。まちがえた、と無茶な言いわけをするよりさきに、アナに顎をがしりとつかまれる。無理やりに彼女のほうをむかせられ、すると彼女は、笑っていた。しかしもちろん、目はしっかりとすわっているのだった。

「クリストフ? いまなんて言ったの?」
「……おれがきみに恋しちゃって、一所懸命口説きおとしたんだって言った」
「ちょっとアナ、どういうこと。きいてないわよそんな話」
「やだー! その話は思いだしたくないの!」
「おいおい、そいつは顔のいい男の風上にもおけないやつだな。俺がこらしめてやろうか」

 わーん!とアナがテーブルにつっぷしてしまう、ラプンツェルがそれも気にせずさらにといつめる、ユージーンは、あーあ、なんてにやけ顔でクリストフを見ている。おまけにあたりがざわつき、ひそひそとした話し声やぶしつけな視線がとんでくる。ああ、いま、おれたちものすごい注目にさらされてないか。その原因をつくりだした彼は、しおしおと、おおきなからだをちぢこませることしかできなかった。
 やっとのことでさわぎがおさまるまで、なかなかの時間をようした気がする。結局ラプンツェルがやさしくアナをなぐさめていた。アナはべつに本気ですきだったわけじゃないとかいまはせいせいしてるとかぶつぶつ言っていた。顔のいい男にだまされて、つぎはきみをえらんだってわけ。そりゃ納得。そんなふたりをながめながらユージーンにそう耳うちされたことは、まあこういう事態をひきおこしたことへの罰ということであまんじてうけておくことにする。とにかく、最終的にクリストフがアナに誠心誠意の謝罪をしたことで、この話はおわりになった。

「それじゃ、ごめんね。わたしたちそろそろ」
「え、そうなの? もう?」
「うん、ごめんね」

 そしてラプンツェルが時計を見たところで、アナがけろりとした顔をあげた。おいおい、傷ついてたんじゃないのかよ。クリストフはげんなりしながらつられたようにカフェテラスのおくに設置された時計を見る。まだ全員がそろってから一時間とたっていない。

「用事ができちゃって。それから、つぎの日曜にいこうって言ってた映画、あれもだめになっちゃった」
「そうなの……」
「うん、本当にごめんなさい。しばらくここをはなれることになって」
「それって俺もついてかなきゃいけないやつ?」
「もちろんよ、……と言いたいところだけど、あなたはお留守番」
「へえ、そうなの。そりゃいいね、はねをのばせそう……って冗談だろこわい顔すんなよ」
「あなたにはこっちで仕事があるの」
「あれ、ユージーンって無職なんじゃないの?」
「むしょ……それちょっとことばが鋭利すぎるからプータローってよんでね」
「プータローも充分まぬけだと思うけどな……」
「気楽な学生にゃ現代の世知辛さなんてわかりゃしないだろうなあ」
「んだとてめえ。おれは気楽な学生じゃない、苦労してる学生だ」
「はは、自分で苦労してるとか言っちゃうかねえ」
「ええっと、そう、就職活動って仕事よ、ねえユージーン」
「……うん、就職活動します」

 さりぎわ、こりる気のないらしいユージーンが、きみとはまたあえる気がするな、とアナにウィンクをなげていた。クリストフはそれを手刀でうちおとしながらまたラプンツェルになぐられるぞと思ったが、なぜだか彼女はそのときばかりはそうしなかった。なんとなく腑におちないでいると、アナがかえろっかと言う。さみしそうな声に、どきっとする。

「……せっかくあえたのに、みじかい時間で残念だったな」
「ううん、ラプンツェルがいそがしいのはしってるから。なんでいそがしいのかは、おしえてもらったことないけど」

 たっとアナがかけだす。なんだかそのまま彼女が街の雑踏のなかにきえていってしまうような気がしたから、クリストフはすぐにおいかけて手をとった。するとアナは、ちゃんと指をからめてくれた。
 ラプンツェル。ふしぎな人物だと思った。高校生のアナとおない年ほどに見えるのに、なんだかみょうなものを感じてしまう。しかし、この感覚はよくしっているものにも思えた。

「ねえ、なんでさっき急にハンスの話したの」
「……」
「もー最悪」
「……だって、アナって面食いだろ」
「あ、ユージーンがかっこよかったから、やきもちやいちゃったのね」
「う、うるさいな……。いやそもそも、あいつべつにかっこよくもなんともなかったろ」
「ていうか、あたし面食いじゃないし」
「だったらおれとつきあってないってか?」
「あはは! 言いたいことよくわかったね」

 するり、とアナがとなりからいなくなる。一歩二歩さきにすすんだ彼女に、クリストフは思わず見とれる。そうだ、この感じ。ふしぎな感じ。

(いつか、きえていなくなってしまうような、そんな)

 クリストフはごくりとつばをのんで、あわててアナをおいかけた。
第二話
14.04.04