ぽつ、ぽつ、と断続的な音がする。ぼんやりとそれをきいたのち、アナは板書途中だったシャープペンのさきをそのままぐりぐりとノートにおしつけた。
(雨、あんまりすきじゃない)
ちらり、と教室の窓際の席からそとを見た。ガラスのむこうに、ゆっくりと透明なすじがいくつもかさなっていく。
「だから、うん、そう。きょうはやっぱりいい。だってクリストフあれでしょ、うん、そうでしょ。だいじょうぶ、傘もってるもの。そうよ、ちゃんと天気予報見たの」
生徒玄関の軒先にたってどんよりとした空を見あげながら、アナは携帯電話にむかってしゃべっていた。それをもつ手の反対側は、てもちぶさたそうに橙色の傘をゆらゆらさせている。電話の相手はまだなにか言っていたようだが、彼女はそうそうに空からしたたるたくさんのしずくに見とれはじめる。きょうの最後の授業中にふりはじめた雨は、いっそうつよくなっていた。
「ねえ、あしたはちゃんとはれるかな」
唐突にそんなことをつぶやくと、むこうは一瞬だまってから、天気予報をちゃんと見るんだろ、とあっさり言った。会話の内容がアナの一存であちらこちらへとんでしまうことになんて、クリストフはなれっこだった。
じゃあ、あしたね。一日のびてしまったデートの約束をとりつけて、アナは通話をきった。
(あした…あしたにしようかな)
とはいえ、もとからあった予定もたいしたものではなかった。学校帰りにクリストフにバイクでむかえにきてもらって、本屋につれていってもらう、それだけだ。しかし雨のなかでバイクをはしらせてもらうのはわるいし、むこうだってうしろにのせたアナが雨にぬれることは気がすすまないようすだった。アナは傘をひろげて、足元にあった水たまりをひょいととびこえてからあるきだす。いいや、きょういっちゃお。彼女はそうきめて、校門をでてから自宅があるほうとは逆の方向へとすすんだ。
「……やっぱりあしたにすればよかった」
アナは本屋をでたところで、先程よりすっかりおもくなってしまった学生鞄を肩にかけなおす。雨はまだふっていた。このなかをおもい荷物をもって帰るのかと思うと気がめいる。そういえば、先日梅雨いりの宣言があったのではなかったか。となると、きっとあしたも雨だ。むう、と悪天候をにらみつけ、しかしアナはさっさと気をとりなおして出入り口のところにおいてある傘立てから自分のものをとりだした。瞬間、なにかが視界のはしにひっかかる。え、と思って、こんどは明確にそちらを見た。雨だからか、商店街にはほぼひとかげはない。どの店もちゃんと客をむかえる準備はしているはずなのに、随分ひっそりしているように見えた。なんだかみょうな感じ。そしてそのまんなかには、ますますみょうな情景がうかんでいる。
「……」
率直に、きれいだな、と思った。しばらく見とれた、雨音すらきえたかのように感じられた。
ひとがたっていたのだ。傘もささずに。うすいカーディガンをはおった背中が、しずかにどこかをながめていた。なぜだか見おぼえがあるような髪の色、華奢な肩が雨のむこうにたたずんで、まるでそこだけ世界がきりとられているかのように鮮明だった。
肩から鞄がずりおちそうになったところでやっとはっとする。アナはあわてて空を見あげ、それからもういちどそのひとを見た。
(……だ、だいじょうぶなのかな)
もうそろそろ夏が到来する季節とはいえ、この天候ではもちろん肌寒い。アナは逡巡して、しかしすぐにかけだした。雨のしずくが鼻先におちて、あわてて傘をひろげた。
「……っあの!」
声がうらがえってしまった。はずかしい。しかし二歩ほどさきのむこうからの反応はなくて、声がおおきい自信はあったはずのアナは、しりごみしたようなよびかけが雨音にかきけされたことを自覚する。思いきって、傘をつきだした。
「え?」
「あ」
すると、むこうもやっとアナに気づく。ふりかえったその女性は、おどろきに目をしばたかせる。うつくしいひとだった。白金の前髪をうしろになでつけて、すきとおるような碧眼がアナを見ていた。こくりとのどがなった。思いがけぬ見つめあいは、アナからまた雨音をけしさる。しかし、女性が困惑をしめすように小首をかしげたところではっとする。
「あ、あ。ごめんなさいえっと」
「あの……」
「か、傘! ぬれちゃいます、風邪、ひいちゃう」
それだけなんとか言って、ずいっと腕をおしだした。しかしさしだしたものがうけとられることはなく、うつむいたせいでむこうの顔色もうかがえず、いたたまれなくなったアナはどうしようもなく彼女の手をとった。ひやりとしていた、やはり雨でひえてしまっているのだと思った。
「これ、つかってください」
無理やりに、傘をその手ににぎらせた。それから機械人形みたいなぎこちないうごきで方向転換し、脱兎のごとくかけだした。なにやってんだろ、なに、でしゃばっちゃってるんだろ。アナは一所懸命はしった。しかしながら、退路はいとも簡単にたたれてしまう。赤信号はとまれの合図。わー、とアナが混乱しながら足踏みしているうちに、視界がおおわれる。よくしっている橙色だ。
「まって」
さらにはしずかによびとめられては、もうどうしようもない。がくりとアナは肩をおとして、観念したようにふりかえる。するとそこには、もちろんあのひとがいる。彼女がほほえんでいたことがせめてものすくいだ。
「あの、ごめんなさい。あたし、さしでがましいこと」
「そんなことないわ」
上品そうな声がすこし笑う。どきっとして、ふせていた目があがってしまう。しかし目があうと、すぐに視線がおよいだ。
「でも、あなたのほうがぬれてしまうでしょう?」
「や、あの、あたしはだいじょうぶだから」
「いいえ、だいじょうぶじゃないわ」
ふわりとのびてきたてのひらが、アナの肩についた水滴をはらう。わ、と思って、あわててもう片方は自分でやった。雨のつめたさなんて感じなかったから、自分の体温があがっているのだと思った。ちいさな傘のなかで、アナは見しらぬ女性と身をよせあっている。
(……あれ?)
そこで、ふしぎなことに気づく。彼女はいつのまにか手袋をしていた。たしかに先程、ぶしつけにも素手にふれたはずなのに。さらには。
「え?」
「なあに?」
アナは目をうたがった。思わず凝視してしまった。彼女はぬれてなんていなかった。まるでずっと傘をさしていたかのように、それどころか雨なんてふっていなかったかのように、足元すらきれいなままだった。
「え、あれ?」
混乱しているアナの心中をさっしたのかそうでもないのか、女性はふっと笑う。それから、そうね、雨のときは傘をささなきゃいけないのよね、とひとり言みたいにつぶやいた。アナの頭のうえにうかぶ疑問符が、さらにふえる。
「この傘はあなたのものでしょう? だからあなたがつかって」
そのすきをつき、女性がアナに傘をかえす。それからひらりと手をふって、身をひるがえした。反射的に腕をつかんでいた。彼女が、またふりかえる。
「あの、ぬれちゃいますよ……?」
疑問系になってしまうのもいたしかたあるまい。アナは、ここにきてひとつの仮説を思いついていた。そうだ、容姿も雰囲気も、なにもかもが常軌を逸している、むしろそうであったほうがしっくりくる。彼女はひょっとして、超常現象的な、人間とはまたちがうなにかなのではなかろうか、そう、幽霊的な、なにかなのでは……。
(でも幽霊ってさわれないよね?!)
アナは思わず、つかんだその手をにぎにぎしてしまった。すると、あの?と困惑したよびかけがあってはっとする。なんて失礼なことを! おおあわてで手をはなすが、しかしそうすると彼女がさっさといなくなってしまう気がして結局つかみなおす。すると、あはは、と笑い声がした。
「あなた、おもしろい子ね」
くすくすと、口元に手をやって女性が笑う。思わず顔があかくなる。それからおずおずと手をはなすと、彼女はもうたちさろうとはしなかった。
「じゃあ、ね。こうしましょ。私の家、すぐちかくなのね。そこまでおくってくださる?」
「あ、うん、はい! もちろん!」
いきなり元気な声がでてしまう。また笑われてしまった。
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「 ……喫茶店?」
「そう、私、ついこないだここに越してきたの。だから開店はまださきだけど」
からん、と音をたてる扉をひらき、女性がアナをなかへとうながした。気おくれしながら、扉をくぐる。幽霊屋敷みたいなところに案内されたらどうしよう、などとかんがえていたことを反省する。そこはこぢんまりとしたおしゃれなお店で、すこしくらい店内はしずかな雰囲気をもっていた。きょろきょろと内装を観察していると、彼女がカウンターのおくへまわりこむ。
「なにかごちそうするわ」
「あ、や、でも」
「お金なんてとらないわよ」
カウンターの席をすすめられ、アナはおずおずとまるい椅子にこしかける。じゃあ、あの、ホットミルク。なんとなくてれながらそういうと、かしこまりました、と女性は喫茶店の店主の顔をした。
彼女がおくへひっこんでから、アナはゆっくりと店内を見まわす。骨董めいたつくりの、しかしふるめかしさは感じさせない内装だった。壁にはいくつものおおきな写真がかけられて、それは統一感のある情景で店内をかざっている。どれもが雪景色だった。しろくておおきな山だったり、屋根に雪をたくわえた古城だったりした。目うつりするほどたくさんあるそれを、アナは順をおってながめていた。
「おまたせいたしました」
そのうちに、やはり接客めいた態度の彼女がやってくる。湯気をたたせた白いカップをアナのまえにおいて、ありがとうございます、とアナが言うと、やっと彼女はさっきみたいに笑った。
「ね、となりいい?」
「あ、はい、もちろん」
すると、自分のぶんのコーヒーも準備していたらしい彼女が、アナのとなりの椅子にすわった。なんとなく緊張して、視線がおよいでしまった。
「あの、えっと……」
「ああ、自己紹介がまだだったわね。私はエルサって言います。あなたは?」
「あ、あたしはアナって言います。あの、エルサさんは」
「まって、さんはいらない。それから敬語もね」
そうは言うが、むこうはどう見ても年上だ。アナはとまどって、しかしにこにこした顔には有無を言わせる気がないようだ。観念して、うんとうなずくことにする。
「エルサは、雪がすきなの?」
「え?」
「雪の写真がいっぱい」
「ああ……そうね」
「あたしも、雪ってむかしからすきなの。なんとなくだけど」
「……そうなの」
エルサが、しずかにコーヒーに口をつけた。曖昧な反応に、なにかへんなことを言ってしまったのかと心配になる。アナも、ホットミルクをひとくちいただく。あたたかくておいしかった。
「……すきかどうかなんて、そういえばながいことかんがえもしなかったわ」
「そうなの?」
「ええ、雪は、私の一部みたいなものだから」
アナはなんとなく、この写真はエルサが撮影したものなのだろうと思った。被写体を自分の一部と感じるほどに、きっと彼女はそれをあいしているのだろう、自分の気持ちがぼやけてしまうほど、身近なものなのだろう。そう思って感動した。かっこいいな、と思った。
「ねえ、私からも質問いい?」
「はい……じゃなくて、うん」
「その髪、どうしたの?」
あ、と思った。アナは思わず自分の髪にふれた。赤みがかっている彼女の髪、しかし、ひと束だけ、ちがう色をさせているそれ。
「うまれつきで……、ねえ、へんなこと言っていい?」
「なあに?」
「これ、エルサの髪の色とにてるね」
なんとなく、むかしから気になっていたものだった。どうしてこんなふうなんだろうと思っていた。しかし、いまのアナはなんだかこの髪の色がすきだった。先程エルサを見つけたときになんとなくこころひかれたのは、きっとこれのためだ。運命とかそういう話がだいすきなアナは、この髪の色がエルサと自分をひきあわせてくれたのではないかとすら思っていた。
「奇遇ね、私もおなじことをかんがえてた」
「ほんと?」
だから、同意してもらえてまいあがった。そのせいで彼女は、エルサの表情にすこしの影がおちたことを見のがしてしまう。
「ね、もうひとつ。あなたのご家族は? ご両親はなにしてるひと?」
「あ……えっと。両親はしんじゃっていないの」
アナは、ついちいさな声になる。初対面の人間にこの話をするのは苦手だった。いなくなった両親を思いだすからとか、そういうことではない。この身の上の話をすると、大抵の人間はしまったという顔をしてきまりがわるそうになってしまうのだ。そんなふうに気をつかわなくていいのに、とアナはいつも思う。
「そうなの」
だから、あんまりあっさりしたエルサの反応に面くらう。じゃあ、私といっしょね。そしてそうつづいたことばに、まばたきした。
「そうなの?」
「私たち、にてるのかしらね」
「えー、全然ちがうわ」
「あら、そう?」
「あ、や、にてるのがいやとかじゃなくてね、エルサとあたしみたいなのがにてるわけないっていうか」
「ふふ、なにそれ」
エルサの表情がほころぶ。どき、とした。なんだか、心臓がいたくなった気がした。アナはなんとなくあわてて、手にもっていたカップに口をつける。もうぬるくなりはじめていたそれの味が、アナの舌のうえにここちよくひろがる。
「ね、それじゃあ、たとえば、ごきょうだいは? たとえば……おねえさんとか」
「残念ながら、いないの。でもね、むかしからおねえちゃんってほしかったんだ。これもなんとなくだけど」
「そう、それも奇遇ね。私も、妹ってほしかったの。ねえ、きっとあなたみたいな妹がいたら、毎日がたのしいでしょうね」
「あ、あたしもおなじこと思ってた〜、エルサがおねえちゃんだったらって……。ねえ、エルサ、あたしのことからかってる? さっきから言ってほしいこと全部言ってもらってる気がする」
「私は本気で思ってることしか言わないわ」
「えー、それはちょっとうさんくさい」
「あら、失礼ね」
くすくすと、笑いあう声が店内にこぼれる。アナは、雨ってあんまりすきじゃないな、なんて思っていたことをおおきな声であやまりたい気分だった。だって、雨がふっていたから、エルサとであえた。
(やっぱり、運命ってきっとあるんだわ)
またきたい、と言えば、もちろん、とふたつ返事がかえってきた。すっかりうかれたアナは、エルサのまねっこ、なんて言って傘もささずに帰って、つぎの日に風邪をひいた。