「……でね、すっごくすてきなひとだったの! まるで絵画のなかからでてきたみたいにきれいで、声なんて鈴みたいにかわいくて……ねえ、クリストフ、ちゃんときいてる?」
「きいてるさ、きいてはいるけどさ……」
「あ、そう。それならいいの。それでね、それから、エルサってね」
「……」

 きいてはいるけど、べつにおれがきいていなくたってきみは話しつづけるだろうね。クリストフはゲームのコントローラをかちゃかちゃやるまま、背後で黄色い声でさわいでいるアナに気づかれぬようため息をついた。風邪をひいたときかされて、お見舞いにいこうか、いやだいじょうぶ、というメールのやりとりをしてから数日。回復したからひさびさにあおうとアナからさそわれ、うかれていられたのは顔をあわせるまでだった。病気をした痕跡などまったくのこさぬ元気のいい顔をして、彼女は開口一番に言った。あたし、運命のひとにであっちゃったかも!

「なあ、アナ」
「え、なに?」
「きみ、わかってるのか?」
「なにがよ」
「……」

 クリストフは、テレビの画面にゲームオーバーの文字がうつったのを確認してから、ゲームの電源をおとした。それからやっとアナにむきあい、わが部屋ながらちらかり放題の、なかでもますますちらかっているローテーブルのうえのあれこれをわきにどかした。あらたまった顔でそこに身をのりだして、そのむこうにちょこんとすわっているアナをのぞきこむ。

「自分がいまどんな顔をしてるのかだよ」
「顔? かわいい顔?」
「はは……いや、かわいい、かわいい顔はたしかにそうなんだけど」

 ジョークを笑ったつもりだったが、アナは本気だったらしい。彼女の眉の片方がつりあがったのを見てとったクリストフは、あわててとりつくろう。まったく、彼女のほめられたがりにはこまったものだ。……まあ、そこがかわいくもあるのだが。彼はふんと鼻をならして気合いをいれなおしてから、おもくなりそうな口をなんとかひらく。

「いまのきみは、すごく幸先のわるい顔をしてる」
「なあに、それ」
「つまりは、ハンスの話をしてるときのこないだまでのきみの顔とうりふたつってことさ」

 アナの表情がこわばった。冷や水をあびせられる、というのはこのことだろう。クリストフはそれ以上に顔をしかめながら、がしがしと頭をかいた。

「アナ、きみの運命のひとってのはこれでふたり目なわけだけど」
「なによそれ」

 アナがたちあがろうとする。肩をつかんでなんとかそれを阻止しながら、クリストフはつづけた。

「おれは心配してるんだ」
「なにそれ、わからない」
「たのむよ、きいてくれアナ」

 きけば、あってすこし話をしただけだというではないか。それだけで、運命のひとだなんだとこのいれこみよう。アナには警戒心というものがたりなさすぎる。クリストフは両手をアナの肩にそえながら、じっと目を見る。

「ハンスだって、最初は耳ざわりのいいことばかり言ってただろ? 運命的なであいってのも、あいつがそうしむけただけのことだった」
「やめて、エルサをハンスといっしょにしないで。だいたいエルサは女のひとよ」
「それはそうだが、アナ、きみは自分がどういう立場なのか理解したほうがいい」
「立場?」
「……」

 怪訝そうな目に見かえされ、クリストフは気まずそうに手をはなす。アナにはもう、いまにもたちあがってとびだそうという気はないようでほっとする。しかし、きっとこれからする話は彼女をますます激昂させるだろう。彼はたちあがって、アナのとなりに移動した。おちつかせるように腰に手をまわしてだきよせた。いやがられなくてよかった。

「きみみたいに、なんの後ろ盾もないのに金ばっかりはたくさんもってるこどもってのは、悪党にいくらでもねらわれるってことだ」

 一瞬、場の空気がかたまった気がした。そのつぎには、はじかれたようにアナの手があがる。クリストフはあわてて目をとじた。彼女がいやな現実を理解してくれるならば、平手のひとつやふたつやすいものだ。しかし、予想した衝撃はいっこうにおとずれず、おそるおそるとまぶたをもちあげると、アナがうつむいてうなだれていた。クリストフの胸が、ぎりぎりといたくなる。

「アナ……きみをこどもあつかいしたことはあやまる。でもな」
「エルサのこと悪党なんて言わないで」

 ぎょっとした。しばらく彼女の言った意味がわからず、しかしすぐに腹のおくからふつふつといかりがわいてきた。この期におよんで、彼女がいちばん腹をたてたのはエルサを侮辱したことだった。

「アナ、このわからずや」
「わからずやでけっこうよ、だいたい、お金が目あてだっていうなら、クリストフはちがうって言えるの?」
「……!」

 こんどは、クリストフが手をふりあげる番だった。しかしアナは、彼とはちがってぎっとこちらをにらみつけていた。反射的ににぎられた拳がぶるぶるふるえて、それは結局テーブルにたたきつけられておちついた。衝撃に、アナの肩がびくつく。それでも彼女は目をそらさなかった。

「アナ! そりゃあねえだろ!」
「どならないでよ!」

 クリストフなんかよりもよっぽどおおきな声でさけんで、アナは彼の肩をおしのける。アナ! クリストフはなんとかつかまえようとするが、彼女は器用にのびてくる腕をすりぬけた。その拍子にバランスをくずした彼は、まぬけにも床のうえにたおれこむ。そのすきをつき、アナは自分の荷物をひっつかんでかけだした。アナ、まってくれ。声にもならなかった懇願を、アナが一蹴した。

「この部屋、なんかくさい!」

 ……ひどすぎる捨て台詞をそえて。ばたん、とおおげさなほどおおきな音でクリストフの部屋の扉がしめられ、ばたばたとさわがしい足音がとおざかっていく。

「……」

 クリストフは彼女をつかみそこねた腕をのばし、床にころがったまま硬直していた。しかしそのうちにがくりと脱力し、寝がえりをしてあおむけになる。ほこりっぽい天井が目にはいって、ほうりなげられた手のさきには、そのへんにころがっているごみ袋があたっている。なさけない、なさけなくてたまらない。クリストフはぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。

(……ちくしょう、わかってる。こんなのただの嫉妬だ)

 だって、おれ、アナに運命のひとだなんて言われたことない。彼はゆっくりたちあがって、しょぼくれた背中のまま、換気をするために部屋の窓をあけた。

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 アナは、必死にはしっていた。なにかをふりきるようにまえだけ見ていた。わかっていた、クリストフにわざわざ言われなくたって、ちゃんと。
 ハンスなんて、まだかわいいものだった。不届きな輩がアナの財産に目をつけることなんていままでだっていくらでもあった。そのたびいやな思いもこわい思いもした。けれど、そのたびたすけてくれた。ラプンツェルがたすけてくれた。ほとんど年なんてかわらないのに、おとなびた彼女はいつもやさしく助言してくれる。

(アナ、あなたは、ひとりじゃないの。だいじょうぶよ)

 ひとりじゃない? 本当だろうか。アナはいつもひとりきりだった。おおきな屋敷のなかで、いつもひとりであそんでいた。使用人は何人もいたが、彼らはいつも事務的だった。なぜだか定期的に彼らの顔はかわっていて、きのうまでアナに料理をだしてくれたやさしい女性が、おかえりなさいませと学校からの帰りをむかえてくれた男性が、急にもう二度とあらわれなかったことなんてめずらしくない。そのうちに、彼らのなまえをおぼえることもあきらめていた。

(ひとりじゃない? だったら、あたしのそばにはだれがいてくれるって言うの、ねえ、ラプンツェル)

 ずっといっしょにいようよ。彼女にそう言いかけたことは数しれない。けれど、こまらせることはわかっていたからそのことばが口からとびだしかけるたびにのみこんだ。それはとてもつらかった、からだのおくに、いやなものがたまっていく感じがした。
 反抗心だったのかもしれない。ハンスのことは、ラプンツェルにはだまっていた。ひとりじゃないと言われても、アナはひとりなのだ。だから、ひとりでなんとかするしかない。自分で感じたとおりに、したいようにした。その結果がどうだろう。あまったるい彼のことばをうのみにして、結局うらぎられた。アナはひとりなのに、ひとりではどうにもできないこどもだった。そう自覚した途端脳裏をよぎったのは、だれかの顔と声。

(……エルサ)

 ねえ、どうしてあなたは、こんなにあたしのこころにはいりこんでくるの、あったばかりなのに、あなたのことなにもしらないのに、あたし、おかしくなっちゃったの。

「……っ」

 乱暴に扉をあけた。途端、からん、と最近きいたばかりの音がなる。ぜえぜえと肩で息をして、アナは呆然とたちすくむ。ここはどこだろう、いったいなにをしているのだろう? 漫然とした思考がはっきりするよりさきに、くらい視界のはしのほうでなにかがうごいてどきりとした。

「ごめんなさい、うちはまだ準備中で……あら」

 つぎには、ぞくりとする。ききたかった声がした。数日前におとずれたばかりの喫茶店、そのおくから店主が顔をだしていた。見たかった顔が、うれしそうな表情でアナを見ていた。

「エルサ……」
「いらっしゃい、まってたわ。またきたいって言ってたから、あなた、つぎの日にはもうきてくれるんじゃないかって私そわそわしちゃってた」

 気づかぬうちに、かけだしていた。一瞬、おどろいたエルサの顔が見えた気がした。かまわずにすがりつくと、エルサはそっとうけいれてくれた。

「アナ?」
「……、あ、ごめ、ごめんなさい、あたし」

 彼女のほそい腕に指をはわせて、胸のあたりにうつむいた顔をよせる。ふわり、といいにおいがした。なぜだかなつかしかった。エルサの指先が、なりふりかまわずはしったせいでみだれてしまったアナの髪をなでる。ふと、クリストフのことばがよみがえる。ちがう、エルサは悪党なんかじゃない。ちがう、絶対に、ちがう。けれど。

「どうしよう、あたし、クリストフにひどいこと言っちゃった」
「アナ?」
「わかってたのに、心配してくれてるって、ちゃんと」

 きっと、いまのアナはないていた。エルサは、なにも言わずにただそばにいてくれた。たったひとりきりのアナの、そばにいてくれた。

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「おちついた?」
「……うん、ごめんなさい」

 手にもっていたカップに口をつける。はじめてあった日にエルサにいれてもらったホットミルクと寸分かわらぬ味がした。あのときとおなじ席につきながら、やはりおなじようにとなりにいてくれるエルサを見る。

「あたしなんていうか、感情のコントロールってあんまりうまくないみたいで」
「そんなの、だれだってそうよ。私だってそう」
「うそ? エルサってそんなに冷静そうなのに」
「そんなの、そう気どってるだけよ」

 かちこちと、時計の音がする。視線をあげると、壁にたてかけられた写真のあいだに振り子時計が設置されていた。ほかにも、花瓶や置物などが店内にはふえていて、そろそろお店をはじめるんだな、となんとなく思う。

「ね、彼氏とけんかでもした?」

 そんなふうにぼんやりしていたところで核心をつかれて、手にもっていたカップをおとすところだった。あわててエルサを見ると、彼女はからかう目でアナを見ている。彼氏なんて、と言いかけて、なにをごまかそうとしているんだろうとあきらめた。

「けんかっていうか……あたしがわかんないこと言ってとびだしてきちゃって、それで、……気づいたらエルサにあいにきてた」
「そう、無意識のうちに私にあいにきてくれたの。とっても光栄ね」
「もう、エルサ……」

 はっとする。また、クリストフのことばがよみがえる。最初は、耳ざわりのいいことばかり。アナは首をふった。エルサはそんなひとじゃない。そんなひとじゃ、ないでしょ? 胸がざわついて、おちつかなくなる。思わずたちあがった。

「あ、あたし、もう帰るね」
「あら、もう?」
「うん、エルサ、お店の準備とかあるでしょ?」
「そんなのは、全然かまわないんだけど……」

 さみしそうに困惑する彼女にうしろ髪をひかれたが、アナはふりきるようにかけだした。けれど、ふわりとしたうごきに手をとられて阻止される。

「じゃあ、あなたのおうちまでおくらせて。傷心中の女の子をほうりだすなんていやだわ」
「……」

 アナはとまどって、しかしひとつ思いついてしまう。そうだ、じゃあ、こうすればいい。あの立派な屋敷を見せて、エルサがどんな反応をするのか、ためせばいい。こんな意地のわるいかんがえがうかんでしまう自分がいやになったが、この不安な気持ちをどうにかする方法を、彼女はほかに思いつけない。
 しかし、エルサを自宅に案内したころには、それどころではなくなってしまった。

「え、え? ど、どういうこと?」
「ですから、きょうからみな二ヶ月ほど暇をいただいております」

 帰宅した途端、家のなかがいやにがらんとしていることが気になった、そのうちに使用人の長の初老の男があらわれて、それでは失礼します、と頭をさげて屋敷をでていこうとしてあわてた。しかもわけのわからないことまで言いだした。混乱しているうちに彼はさっさといなくなり、すると、なかにはもうだれもいなくなったみたいだった。

「は? え? なに、どういうこと?」
「アナ?」

 計画では、エルサをまねいてお茶でものんでもらうはずだった。それからなかを案内して、反応を見るはずだった。それなのに、ここにはもうお茶をいれられるものなどいない。それどころかひとっこひとりいない。使用人の顔がいれかわることはつねだったが、だれもかれもがいなくなってしまうなんて前代未聞だ。水をうったかのようにしずまりかえる見なれた場所に、じわじわと、ことの重大さが身にしみてくる。

「ど、どうしよう、あたし、掃除も洗濯もやったことないのに、ごはんだってつくれない!」

 エルサがいることもすっかりわすれて、アナはさけんだ。すると、ひろい屋敷のなかでそれがむなしくこだました。がくり、とうなだれる。

「……ねえ、アナ? 事情はわからないけれど」

 おずおずと、背後から声。あわててふりむくと、わけのわからない状況につれてこられたはずの彼女のほうがよっぽど冷静そうに笑っていた。それから、あまりに思いがけない申し出をするのだ。よかったら、うちにくる? 耳をうたがった。

「え? それってつまり……エルサのうちにとまっていいってこと?」
「そういうことね、私ならたぶん、あなたよりも掃除も洗濯も、料理だってできると思うわ」

 それに、ね、お店のこと手つだってくれる子、さがしてたの。おまけに、遠慮しないでいられるような条件までだしてくれる。アナは、おさまらぬ混乱に、さらに興奮までおおいかぶさってきて卒倒しそうだった。

(そしたら、朝おきたときにエルサがおはようって言ってくれるの? いっしょにごはんをたべてくれるの? 学校からかえってきたら、ちゃんと笑顔でおかえりって言ってくれるの?)

 アナは、ほとんど無意識のうちにうなずく。そのころには、彼女の頭のなかからエルサへの疑念なんてふきとんでしまっていた。
第二話 第四話
14.04.09