思いがけぬ人影を見つけたアナは、あわてて傘をひくくして顔をかくした。しかし、目があったあとにそんなことをしてもあとの祭りだ。早足で校門をぬけるようとするが、そのそばにたっていた人物にあえなく腕をつかまれた。

「……学校のまえでまちぶせって、ちょっとまずくない?」
「おれだってこんなことしたくなかったさ」

 ばたばたと雨が傘にあたる音がいやにおおきくきこえる。アナは観念してふりむいて、苦虫をかみつぶしたような顔をしているクリストフを見た。彼はおおきな黒い傘をさしていたが、腕をのばしているせいでアナの傘からしたたる水滴に服をぬらしていた。もうにげない、という意志をしめすように腕をゆすると、クリストフはやっと手をはなす。

「何日も、きみの家のちかくでまってた。でも、いちどだって顔をあわせられなかった」
「家のまえでまちぶせっていうのもどうかと……」
「アナ」
「……うん、ごめんなさい」

 ふたりがけんかわかれをしてから、数日がすぎていた。アナがゆっくりあるきだして、クリストフがそれにつづく。そのうちに彼はとなりにおいつき、傘のせいでうかがえないアナの顔色にじれったくなる。

「電話くらい、でてくれよ」
「それは……ごめんなさい、本当に」
「そんなに、あやまらなくてもいいけど……」

 クリストフは、なんだかとてもいやな気持ちがしていた。たしかにアナにはひどいことをされたと思う。電話もメールも無視されて、あの日だってこちらの誠心誠意をけとばされた。けれど、クリストフだってひどいことを言った自覚があった。クリストフがあやまるまであやまらない、と言われる覚悟だってしていた。彼女のそういう態度はあまえだと思っていた。あかるいのにいつもどこかさみしそうな彼女のわがままをきくことは、なんだかうけいれてもらえている気がしてうれしかった。それなのに。

(これじゃあ、まるで)

 クリストフは、脳裏によぎった疑念を頭をふってけしさった。そこであれっと思う。

「アナ? どこへいくんだ?」

 この道は、彼女の下校路とは真逆の方向だ。ふと、アナの足がとまる。思わず橙の色の傘のなかをのぞきこむと、彼女がわかりやすくしまったという顔をしていてぎくりとした。彼女はそれからすぐにあるきだそうとしたが、結局あきらめたようにたちすくむ。いったいどうしたのかときくこともはばかられ、ふたりはしばらく雨のなかでただならんでいた。けれどそのうち、アナが急に方向転換して早足であるきだす。あわてておいかけた。

「アナ?」
「クリストフ、きょうはもう帰って」
「なんだよ、ひさしぶりなのに随分じゃないか」
「また連絡するから」

 ただならぬようすに気おくれしたが、ここでひくのはまずいという直感があった。しつこくつきまとうことにした。これではストーカーだ、と思ったが、なぜだかわるいのはアナだという気がしてならなかった。
 気づけば商店街のなかをつっきろうとしていた。ふと、本屋が目にはいる。そういえば、ここにつれてきてやるちっぽけな約束をしていた。アナは、その用事をどうしたのだろうか。まるで現実逃避をするようにそんなことをかんがえていると、辛抱できなくなったらしいアナがふりかえる。クリストフは憮然とそれを見かえして、ひらきかける彼女の唇をながめていた。

「アナ?」

 その瞬間、見当違いなところからよびかけがある。えっと思っているうちに、アナのしかめっ面がはじけるようにあかるくなってぎょっとした。

「エルサ!」

 そして、まるで無意識のようによばれたなまえにも。アナが声のしたほうへとかけだす。クリストフは、唖然としたままそれを見おくった。

「おかえり、アナ」
「うん、ただいま。なにしてたの?」
「すこし、買い物。それから」

 アナによりそう女性が手にさげた袋をすこしもちあげてから、こんどは視線をおとす。それにあわせて、彼女がさしている透明な傘もすこしさげられる。なにかを雨からかばうように。アナがそのさきを見ると、商店街の道ばたにいくつか設置された植木鉢のひとつがあった。うすい色をした花が、雨にうたれてはじけていた。

「これを見てたの」

 まるでめずらしいものをながめるかのような、いつくしむような。そんな視線がそれを見おろす。すこしゆるんだ口元からは、いまにもちいさな花をほめたたえるようなことばがこぼれてきそうだった。そうなんだ、とあいづちをうったアナは、彼女にあわせてすこし腰をかがめながらも、となりのひとばかりを見ているようだった。

(……彼女が、エルサ。ていうか、え、いまなんて言った? おかえり、ただいま?)

 アナ? しばしのあいだふたりの仲むつまじいようすを観察する羽目になっていたクリストフは、やっとのことで恋人のなまえをよんだ。すると、彼女の背中がはっとする。あわてたようにふりかえる。アナは、顔いっぱいにやってしまったという色をひろげていた。

「あ、えっと……」
「アナ? おしりあい?」

 おしりあいどころか。クリストフはむきになったが、ふんと鼻をならして冷静になるようにつとめた。ふたりにずかずかとあゆみよる。

「どうも、クリストフです。あんた、エルサさんですよね」
「ちょっとクリストフ、失礼な態度とらないでよ」
「べつにふつうだろ」
「どこがよ!」

 言いあいがもりあがりかけたところで、ふふ、と笑い声がして水をさされる。途端にぱっとアナの顔に赤みがさす。ちくしょう、なにをもじもじしてるんだよ。クリストフはむかむかしながら、笑い声の主へとむきなおる。それからとりあえずなにかを言ってやろうかと思ったが、あなたがクリストフさんね、と微笑まれて出端をくじかれた。

「アナからよくきいてる」
「うそ、べつになんにも言ってないでしょ」
「そう?」
「そうよ」

 しかも、すきあらばふたりで顔を見あわせて笑いあいはじめる。なんだ、なんの罰ゲームだこれは。おいてけぼりをくった気分のクリストフは、すっかり毒気をぬかれてたちすくんでいた。

「ね、あなた」

 急に声をかけられてはっとする。こんなところで立ち話もなんだから、うちにこない? のぞむところの申し出だ。気がすすまなそうな顔をしているアナは見えないふりをして、クリストフはおおきくうなずいてみせた。

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「おい、どういうことだよ、ひょっとしていっしょにくらしてるのか」
「くらしてるっていうか……」

 つれられてきた喫茶店のなかで、アナはとにかく歯切れがわるかった。エルサは、買ったものをかたづけてくるといっておくのほうへとひっこんでしまっていた。それをいいことに、クリストフはといつめることに必死だ。どうにかわかったことはというと、アナの家から急に使用人がいなくなってしまった、これでは生活できないとなげいていたところ、ちょうどいあわせたエルサに身のまわりの世話をかってでられた、ということだった。彼女の家のそばではっていてもいっこうに顔をあわせられないのも道理だったというわけだ。

(わけがわからない、雇い主のはずのアナがしらないうちに使用人がみんな休暇にはいるか? そもそも、そこにちょうどいあわせるってどんな偶然だ)

 クリストフは、事態の異常さを認識せざるをえない。彼女も、こころのどこかでそのことを理解しているように思えた。この店があったのは、先程アナとおいかけっこみたいにあるきながらとおりすぎたほそい路地のおくにあった。すなわち、アナは帰り道をごまかしたのだ。クリストフをここにつれてきたくなかったということにちがいあるまい。頭をかかえたくなる。
 エルサ、たしかにうつくしいひとだった。もちあわせる雰囲気もまた、こころをみょうにひきつけるものがある。アナが夢中になってしまうのもわかる気がするが……。

(いやいや、わかっちゃだめだろおれ)

 思わず頭をふると、アナが怪訝そうな顔をした。とにかく、いまはアナを説得すべきだ。いったいなにから話せばいいのやら。クリストフは、カウンター席にすわっているアナのとなりに腰かける。

「なにかのむ?」

 瞬間、おくから顔をだしたエルサに声をかけられてぎくりとする。彼女は目をほそめてクリストフを見ていた。それがみょうに意味深に思えたのは、先入観があるからだろうか。

「あ、いいってば。クリストフ、すぐ帰るもの」
「おい、アナ」
「アナ、あなたがコーヒーをいれてあげたら?」
「え、あたし?」

 とまどうアナに、やりかたはおしえてあげたでしょう、とエルサが微笑む。アナがむずがゆそうに唇をとがらせて、おずおずとたちあがる。それからカウンターのむこうのさらにおくのほうへいって、ごそごそと作業しはじめた。クリストフはそれをやや不安な面もちで見やる。なにかへんなものがでてきたりはしないだろうな。まったく、まいったことを言いだすものだ。彼はじとりとエルサを横目でねめつけた。そこではっとする。彼女は、見おぼえのある表情でアナを見ていた、そうだ、先程植木鉢のなかのちいさな花をながめているときと、寸分たがわぬ瞳をしていた。いつくしむような、いまにもほめたたえはじめそうな。それはいったいどういう意味だ、あんたにとって、アナってなんなんだ。

「アナ、うんと濃いやつ!」

 急にかられたおかしな不安をふりきりたくて、クリストフはおおきな声をだす。すると、気がちるから話かけないで、とおしかりをうけた。

「……あれ、うまいな」

 おそるおそると口にふくんだ液体は、ゆたかな風味とともにクリストフののどをすべりおちた。アナのことだから、コーヒーをいれるだけでどうしてこんなものがつくれるのかと言いたくなるようなものがだされると思った。ほんとに?とうれしそうな声がする。クリストフはうなずいて、もっとほめてやろうとアナを見た。しかし彼女はすでにエルサに自慢げに笑いかけていて、すぐにもふた口目をたのしもうとしていたクリストフの気分をなえさせた。思わずコーヒーカップをソーサーにもどした。そうだ、いまはそれどころではないのだ。

「あれ、もういいの?」
「いや、それよりも」
「アナ、ごめんなさい、ちょっとおねがいがあるの」

 クリストフが言いかけたところで、エルサが手袋をした手をすっとさしだす。それはメモ用紙で、財布もそえられていた。

「買い物、いってきてくれない?」
「え、でも……」

 アナがまばたきする。困惑をかくせぬ顔で、エルサとクリストフを交互に見る。しかし有無を言わせぬエルサの微笑みにおしまけて、さしだされたものをうけとった。クリストフは、そうくるか、と思っていた。

「さっきまで買い物をしてたんじゃなかったか? 買いもらしたものでも?」
「……」

 不安そうな少女がいなくなった途端、クリストフは剣呑な声でといかけをした。エルサはそれにまったくひるむことなく、カウンターのむこうでほおづえをついている。

「私に、ききたいことがありそうだったから」
「ああ、あるけどね。おれはべつにアナのまえできいてもよかったんだが、あんたはそれじゃこまるわけだ」

 反論もなにもなかった。まるでいなされているようで腹がたった。いったいどうやって魂胆を白状させてやろうか。なれない腹芸の相手にしては手強さがすぎるであろうエルサをにらみつける。おもむろに、エルサが身をひく。それからこちらへやってきて、クリストフのとなりにすわった。先程までアナがいた席だ。

「あなた、アナのことがとてもだいじなのね」

 思わず、顔があかくなる。わるいかよ、とこどもみたいなことしか言いかえせない。こうなったらしかたがない、クリストフは単刀直入にきりだした。

「あんた、何者だ?」
「自己紹介はしなくても、私のなまえはしってるみたいだったけど」
「それくらいならね。でもおれがしりたいのはもっとちがうことだ、それくらいわかってるだろ? あんた、アナをどうしたいんだ、なんなんだよあんた」
「……そうね、……」

 もったいぶった視線がおよぐ。かんがえごとをするように、エルサは手袋をした指先を口元にあてた。せかすようにとんとんと指をテーブルにうちつけると、彼女はちらりとこちらを見た。

「……たとえば、あなたとおなじ気持ちだって言えば納得できる?」
「は?」
「私もあの子がだいじなの」
「そんなの、納得できるはずがない。あんたら、こないだあったばかりなんだろ、それなのに家にまですまわせてやるなんて、はっきり言って異常だ。なにがねらいだ?」

 エルサはまたこたえなかった。しかしかわりに、なぜだか手袋をぬいだ。ずっとうすい布にかくされていた、ほそくて白い指があらわになる。彼女は自分の指先をぼんやりとながめた。どこか異様なその雰囲気は、クリストフをひるませる。そのすきをつくように、なにを思ったかエルサはクリストフの手に自分のそれをかさねた。ぎょっとする。

「っなにするんだよ」

 反射的に手をひくと、その拍子にコーヒーカップがたおれた。あっと思っている間に、こぼれた液体がクリストフのひざにかかる。あつさにとびあがってしまった。するとエルサが布巾を手にとり、よごれた服をふこうとする。いい、いいって! 混乱した彼は、エルサをおしやろうとする。瞬間、バランスをくずした。しまった、と思う間もなくたおれこむ。

「……」

 それは最悪にも、エルサのうえにだった。カウンターに彼女をおしつけるようなかたちで、クリストフはテーブルのうえに手をついていた。その指先にはこぼれたコーヒーが、アナがいれてくれたコーヒーがあたっていた。

「あ、わるい、その」

 身うごきひとつとれなかった。いますぐどけばいいのはわかっているのに、急な動揺で彼のからだはかたまっていた。目下にはつめたい瞳をした女がいる。まるで別人のようなその表情、動揺に拍車がかかる。彼女の手がのびてきた、ほほにふれる。ぞくりとするほどつめたくて、クリストフはやっとのことでからだの自由をとりもどす。あわてて身をひいた。しかしそれを阻止するように、もう片方の彼女のてのひらが背中にまわる。ぺたりとはりついたそれは、ほほにふれるものとはくらべものにならないほどに、つめたい。瞬間、からんという音。

「……なにしてるの?」

 つぎには声がした。背後から声がした。クリストフから血の気がひく。はじかれるように身をおこした。アナがいた。いそいで買い物をすませてきたという風情で、息をはずませている。すこし上気したほほにはにつかわしからぬうつろな目が、クリストフとエルサをみていた。ばさり、と買い物袋のおちる音。

「ちが、ちがうんだ。いまのはその、おれがバランスくずしちまって」

 事実を言っているはずなのに、声がひっくりかえる。そもそも、彼女には確実にクリストフの言い分とはくいちがったものが見えていたはずだ。だって、エルサの腕はクリストフの背中にまわっていた。なんで、どうして。混乱するままエルサを見るが、さっさと身をおこしていた彼女はなにごともなかったかのようにアナをながめるばかりだ。なぜそんな冷静なんだ、あんたいま、アナをうらぎるようなことをしたんじゃないのか、なにをかんがえているんだ、いったい、なにがしたいんだ。
 アナがゆっくりとこちらにちかづく。いやな汗が背中をつたって、のどがいたいほどにかわいていく。アナ、ちがう、ちがうんだ。エルサはなにもわるくない、おれが、バランスをくずして、それで。言いわけが口のなかでからまわってらちがあかない。そして結局、クリストフはふかい絶望につきおとされる羽目になる。

「エルサに、さわらないで」

 ふたりのあいだにわりこんだアナは、動揺でぐらぐらしている視線を足元におとしたまま、その背にエルサをかばっていた。この場の悪者は、クリストフになった。
 理解せざるをえなかった、アナは、エルサをえらんだのだ。

「……そうかよ!」

 いかりにふるえた声が、くらい店内にひびいた。がたん、と椅子のたおれる音がする、だれかの乱暴な足音がどこかへいく。ぽた、ぽた、と、テーブルのはしから黒い液体がしたたっている。

「アナ」

 名をよばれた子の肩が、びくりとふるえた。しずかな声だった。少女はふりかえることができない。ただ、あやまるしかできない。

「どうして、アナがあやまるの?」
「だって、クリストフが、エルサにひどいこと」
「……ちがうわ」
「ちがわない、ちがわないの」

 まるで自分に言いきかせるような口調。ふるえたそれは、まるで泣き声のよう。

「アナ、クリストフをおいかけて」

 エルサがなにを言っているのかわからなかった。ちゃんと目を見て話したかった。それなのに、ふりかえることができなかった。

「エルサ、あたし」
「おいかけるの」

 有無を言わせぬ声がした。アナは、堰をきったように、にげだすようにかけだす。からん、と扉が音をたてる。瞬間、ざあっと雨の音が屋内にしのびこんだ。ぴくり、とエルサの指先がゆれる。

「……」

 彼女はその指先を額にあてて、くるしそうに目をとじた。
第三話 第五話
14.04.11