アナには、だれをおいかけるつもりもなかった。クリストフがわすれていった傘をかかえながら、雨のなかを呆然とあるいていた。エルサはいったいどうしろと言いたかったのだろう。彼をおいかけて、いったいなにを話せというのだろう。

(傘、邪魔だな)

 自分の頭のうえでひらかれているそれを、ほうりなげてしまおうかと思った。けれど、雨にぬれて帰ってはエルサに心配されるだろうからやめにした。クリストフはだいじょうぶだろうか、きっとつめたい雨にぬれて、薄情なアナのことをうらんでいるだろう。

(……あれ)

 ふと、見しったひとがいた気がした。商店街のうらのほうへとつづく路地。そのおくのほうのものかげに、背のたかい男のひとがいた。ユージーンだ。ぼんやりと、就職活動はしているのだろうかと思う。ラプンツェルは、いまどこにいるのかなと思う。なんとなくながめていると、彼がだれかと話をしていることに気づく。アナはなんとなく身をかくしながらのぞきこむ。まるい眼鏡をかけた老人、それから、そのうしろにいかつい男がふたりひかえている。ユージーンはにやけ顔で老人を見て、やせほそった背のひくいひとは憤慨したようになにか言っている。うしろの男たちが身がまえて、するとユージーンはもっと笑った。

(……、ばかみたい。なにやってんだろ)

 いつものアナならば興味津々とぬすみぎきに精をだすところだろうが、いまばかりはそんな元気はない。ふとあるきだしたアナの足は、自然とエルサとアナの喫茶店へともどろうとしていた。そこでまっているであろうひとと、いったいどんな話をすればいいのかわからないまま。

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 店先には、エルサはいなかった。がらんとしたフロアのなかに、雨の音と振り子時計の音、それからかたづけられないままのよごれたカウンター席から、つめたい液体がしたたる音。それだけがひびいて、アナの気持ちをゆっくりとしずませていった。入り口のそばにはアナがおとしてしまった買い物袋が放置されて、それをひろう気にもなれないまま、そばのテーブルに腰かける。無意識に、店のなかを見まわした。

(これは、私の父がとった写真なの)

 ぼんやりと、エルサからきいた話が思いだされる。壁にかけられたすてきな写真は、エルサの父親が手がけたものだった。とても厳格で誠実なひとだったとおしえてくれた。エルサのおとうさんは、きっと雪がすきだったのね。アナがそう言うと、彼女は曖昧に笑った。よかったら、この写真をあなたにもらってほしいの。いますぐじゃないわ、いつかそうするべきときがくる。歌うように、エルサはよくわからないことを言う。
 彼女は母親の話もしてくれた。とてもやさしくてあたたかいひとだったとおしえてくれた。コーヒーのいれかたは母にならったのだと言って、アナのために一杯いれてくれた。そのままひとくちいただいてもにがいばかりで、すこし笑ったエルサがもってきてくれた角砂糖とミルクをたくさんいれた。あなたには、私がいれかたをおしえてあげる。あなたなら、きっとすぐにおぼえちゃうわ。ちゃんといれられるようになったら、エルサにいちばんにコーヒーをだしてあげたいと思った。それは結局、かなわなかったけれど。

「梅雨、そろそろあけるのかな」

 なんとなくつぶやいても、そとの雨模様はあいかわらずだ。アナはたちあがって、ゆっくりと店内をあるく。そのはしのほうには、ちょっとおかしな置物がある。だれもふれてはいけないとでもいうように、透明なケースにいれられた雪だるまのつくりものだ。愛嬌のある表情をした彼を、エルサからオラフだと紹介してもらった。それはまるで、本物の雪でできているようだった。ふしぎなちからがはたらいて、けっしてとけてしまわないような、まるでいまにもうごきだしそうな。アナは、彼からなつかしさを感じる理由がわからない。

「ね、あなたをつくったのはだれ? あたしね、こんどこそエルサなんじゃないかと思うんだけど」

 つんつん、とケースを指でつついてみる。オラフはにこやかな表情のまま、じっとアナを見ていた。あなた、なんだかだきしめてあげたくなっちゃう顔してるね。ふざけてケースごとだきしめると、それはびっくりするほどつめたかった。ふしぎと、ここちよく感じた。
 アナはしばらくそうしていたが、ふっと息をついてからたちあがる。よごれたテーブルをかたづけて、おきっぱなしの買い物袋を手にとる。それから、例の一件で床にころがってしまったらしい自分の学生鞄も。なかからはぶあつい参考書がはみだしていた。
 そうだ、これはエルサとあった日に買ったものだ。これでも受験生なの、とおどけると、エルサは勉強もおしえてくれた。彼女はとても聡明で、解説のしかたもじょうずだった。勉強は全部独学でしたから、いったいどこでどうつまずくかも、ひとりの勉強のしかたも、よくわかる。それが彼女の言い分で、大学にいくためにがんばらなくちゃねと応援してくれた。だったらひとりの勉強のしかたなんておしえてほしくない、ずっとエルサにおそわりたい。そう言いたかったが、あきらめた。エルサはなんとなく、いつまでもここにいる気はないように思えるのだ。

(そんなのいやなのに……ずっとあたしのそばにいてほしいのに)

 アナはふと、せかされるように店のおくへとかけだした。
 エルサは、いつものところにいた。彼女はよく、木造の家の二階にある書斎でぼんやりしていた。窓際においたやわらかな椅子に腰かけながら、窓のそとを、とおくの空をながめていた。背もたれがすこしたおれぎみになったそれはきっと寝心地がいいんだろうな、とアナはいつも思っていた。けれどそこに自分も腰かけたいと言えば彼女は遠慮なくどいて、そしてそのままどこかへといなくなってしまいそうだからおねがいなんてなにもできなかった。

「……エルサ」

 ひきつる声で、よびかける。返事はない。ぎくりとした。窓際のほうをむきぎみの椅子に身をゆだねたエルサの表情は、部屋の入り口からはうかがえない。はじかれるようにかけだす、手すりにそえられた彼女の手をとる。手袋をしたエルサの手をにぎる。ふと、先程のことを思いだす。あのとき彼女は、手袋をしていなかった気がする。はじめてあったあの日以来、仕事や家事をするときなどのやむをえないとき以外にこれをはずしているのを、アナは見たことがない。

「エルサ」

 よびかけても、彼女はひっそりと目をとじたままでいた。ねてるの、ねえ、エルサ。ぎゅっとちからをこめると、うすい布にしわがよる。どうしていつも手袋をしているの、とたずねたことがある。すると彼女は、おまじないのようなものだと言っていた。こんなのは、きっとなんの役にもたたないの、けれど、すこしの気やすめにはなる。エルサの話はいつも要領をえなくて、アナのしりたいことなんてひとつだっておしえてくれない。

「……アナ?」

 はっとした。エルサの手に自分の手をかさねて、いのるようにそれに額をおしつけていたアナはあわてて顔をあげた。エルサが笑っていた。いつものやさしい顔で笑っていた。ほっとする、ずっとこころのなかにうずまいていた不安が、すべてふきとんでしまう。

「ごめんなさい、寝てた? おこしちゃった?」
「ううん、すこし話をしていただけだから」
「え?」
「……いえ、なんでもないの。寝ぼけているみたいね、私」

 ほら、まただ。エルサはアナにはなにもおしえてくれない。けれど、きゅっと手をにぎるとにぎりかえしてくれる。それだけでいい、そう思おうとした。アナは、はじめてあった日のエルサを思いだす。雨のなかでぼんやりたちつくし、どこかを見ていた。エルサはきっと、あのときもだれかと話していたのだ。根拠のない確信が胸のなかにすとんとおちる。雨にぬれないふしぎなエルサ、いったいどこをながめて、だれと話をしているのだろう。

「クリストフとは、ちゃんと話ができた?」
「……あ、えっと」
「……」

 エルサはそれ以上、なにもきかなかった。きっと、すべてお見とおしなのだろうと思った。ねえ、あなたは、本当はだれがわるいのか、わかっているんでしょう? しずかな声がさとしてくれる。アナは、必死になって首をふる。そんなのわかりたくない、どうしてあんなことがあったのかなんて、しりたくない。エルサはどうせおしえてくれない。

「それなのに、もどってきてくれるのね。私、それがうれしいの」

 そっと、エルサが手をひいた。ゆっくりと手袋をはずして、そのままの指先でアナにふれる。腰かけるエルサの足元にすがりつくようにすわりこんだアナの、ほほをなでる。それはこんどは髪にふれ、エルサとおなじ色をしているひとすじを丁寧になぞった。

「ねえ、私ね、夏うまれなの」
「……じゃあ、梅雨があけたら、誕生日がくるのね」
「そう、きっと今年の誕生日は特別なものになるから、私ね、そのときアナにそばにいてほしいの」

 つめたい指先が、アナにふれる。少女はうなずいて、その心地よい温度によいしれていた。
第四話 第六話
14.04.11