大学の構内はうきあしだっていた。今年の前期授業を修了した学生が、そこかしこできたる長期夏季休業へむけてあれこれうかれた予定をたてている。そのなかで、ひとりだけぽっかりしずんだような顔をした学生がいた。
 クリストフはひたいの汗をぬぐいながら、校門へとつづく並木道の、できるだけ木陰になっているところをえらんであるいていた。それでも、あついものはあつい。蝉の声もうるさくてかなわない。夏なんてきらいだ。それでも、彼女とならたのしい夏休みになると思っていたのに。未練がましい思考がうかんできえる。
 うすぐらい喫茶店のなかでおきたあのおぞましい事件から、もうひと月ほどたとうとしていた。あれ以来、クリストフはアナと顔をあわせていない。はあ、とたまらないため息がもれる。それをふりきるように、まえを見る。とにかくバイトだ、せっかくの長期休暇をむだにはできない。そう気合いをいれたクリストフだが、校門付近にいやなものを見つけて足をとめてしまった。するとむこうもこちらに気づく。げえ、と思っているうちに、女子学生とたのしげに話をしていた同期生が彼にむかって手をあげた。クリストフはもちろん無視した。
 しかし、さっさと女子学生との会話をきりあげたその男がわざわざこちらによってきたので、そうともいかなくなる。どうしよう、このまま逆戻りしてたちさってしまおうか、だがやつのために進行方向をかえるのは癪だ、そういうくだらないことになやんでいるうちに、ついには声をかけられてしまう。

「やあ、ひさしぶり」

 夏のあつさなんて感じさせないやたらとさわやかな笑みをうかべて、ハンスは白い歯をひからせた。いったいどういう神経をしているのだろう、もし自分がやつの立場なら、こんなあつかましい顔はできはしないだろう。それというのはもちろん、とかんがえようと思ってやめにした。きょうもあついね。前期の単位はどうだろうね、きみはおとした単位をかぞえるより、もらえた単位をかぞえてほうがはやそうだけど。夏休み、なにか予定はあるのかい。クリストフはやたらとからんでくるハンスをやっぱり無視して、げんなりしたままあるきだす。

「最近、アナとはどう?」

 しかしながら、彼が先程思考を破棄したことがらについて直球でなげつけられて、結局歩はとまる。愕然とした顔でハンスを見ると、彼はあいかわらずのうすら笑いを顔にはりつけていた。

「……なんでそんなことききたがるんだよ」
「あのあと、うまくやったんだろ」
「うるせえな、おまえがアナの話をするな」
「なんだ、いやに機嫌がわるいじゃないか。ひょっとして彼女にふられた?」

 ああもう、このくされ野郎は! クリストフはたまらずハンスをにらみつけた。その顔は、ことばにせずともしっかり彼のといかけを肯定していた。ハンスはぱちぱちとまばたきをしてから、肩をすくめる。

「それはまた、どうして」
「……」

 ぼんやりと、クリストフの頭にあの日のことがめぐった。ふるえた声で、アナはだれかをかばっていた、こちらを見もしないで、話をきこうともしないで。あのときの脱力感がよみがえる。クリストフはうつむいて、ぼそりとつぶやくことしかできない。アナは、おれよりエルサをえらんだんだ。彼はこんどこそあるきだす。もうハンスがなにを言おうと足をとめる気はなかった。

「おい」

 しかし、やたらとひくい声がしておどろいた。反射的にふりむく。ハンスが、ぎっと目をひらいて、クリストフを見ている。

「いま、なんて言った」

 しらないだれかのような、真剣な声だった。必死なようにもきこえるほどだった。なんだ、いまやつは、いったいどこに反応した。思いあたることはたったひとつだ。クリストフのなかで、急激になにかがつながった気がした。しかしその輪郭はあまりにぼやけていて、もたらされたのはたんなる混乱だ。じわじわと、あつさのせいではない汗がてのひらにうかぶ。ごくりとつばをのみ、クリストフはハンスにむきなおった。

「……あんたは、金目当てでアナにちかづいたんだと思ってた。けど、なあ、ちょっとしらべてみたけど、ハンスおまえ、随分いいところの坊々みたいじゃないか」

 本当は、いったいなんのために、アナにとりいろうとしたんだ。蝉の声ばかりがうるさかった。彼らのまわりをいきかう学生たちの笑い声が、とおくにきこえた。ハンスはにがにがしそうに口元をゆがめて、クリストフから目をそらした。

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「それ、なにしてるんだ」
「ハッキング」
「はっき……?」

 頭のうえに疑問符をうかべたクリストフに、ハンスはいいからおまえはだまってみていろと言いたげな一瞥をくれる。いきなりやたらとたかそうな車におしこまれ、ハンスが運転するそれにつれられてきたのは彼の自宅だった。アナの家にまけずおとらずの豪邸はもちろんクリストフを気おくれさせたが、ハンスはかまわずになかへとすすんだ。あわててついていった彼がとおされたのはとある一室で、整頓されたそこはハンスの私室のようだ。それからなんの説明もなく、やつはパソコンの電源をいれてかちゃかちゃやりはじめた。よくわからないその画面をしばらくは真剣な顔でながめていたが、クリストフはそのうちにあきてしまった。

「雪の女王って、しってるかい」

 しかし、そのタイミングを見はからったかのように、ハンスがぼそりとつぶやいた。整理された本棚にそろそろと手をのばしていたところのクリストフはぎくりとする。あわてて部屋の主を見るが、彼はあいかわらずパソコンにかかりっきりだ。

「……なんか、そんな童話があったような」
「まあ、それからとったんだろうけどね。すこしまえに、一部のメディアがさわいだんだ」

 ハンスがいったん手をとめて、息をつく。それから一枚の新聞記事の画像を画面にうつしだした。あごでしめされて、クリストフはそれをのぞきこむ。その記事の内容はこういうことだった。数年前に、事故でとある資産家の夫婦がなくなった。彼らの莫大な遺産は、ひとり娘につがれることになった。

「彼女はそれからすぐに、なにを思ったかずっと北のほうにある雪におおわれた山をまるまる買いとって、その頂きに時代錯誤な城をたてた。そして、そこにひきこもってしまったのさ。メディアはこぞって、彼女を雪の女王と揶揄した」

 記事をよむクリストフのさきまわりをするように、ハンスが説明する。しかし、みょうなのはここからさ。興奮をおさえこんだふるえた声で、彼はさらにつづけた。

「けれど、あるときをさかいにメディアはその件について沈黙した。雪の女王なんてもとからいなかったようにね。それというのも……彼女はもともと、あるすじの人間にはたいそうな有名人だった。わかりやすく、なにかの圧力がかかったわけだ。わかるか、クリストフ」

 残念ながら、全然わからなかった。こどものように目をひからせているハンスを、怪訝な目でねめつける。すると彼はわれにかえったように顔をしかめて、画面にむきなおった。

「彼女はね、ふしぎなちからをもっていたのさ。金にきたない連中がこのむようなね。雪の女王か、ふふ、あながちまちがっちゃいない」

 そろそろ、ついていけなくなってきた。ふしぎなちから? 突拍子もなさすぎる。ハンスはなにかにとりつかれたような目をしていた。しかし、なぜだかこの話が眉唾物だとは思えなかった。脳裏によぎるのはつめたい瞳、ひやりとしたてのひら。あの、言いようのない不気味な雰囲気……。ちからの片鱗と言えるほどのものではないいくつかの事象は、それでもふしぎとハンスの暴論をうけいれる手助けをした。クリストフには、そろそろ理解できはじめていた。ハンスがいったいだれの話をしているのか、雪の女王とは、だれのあだ名なのか。

「雪の女王は、自然を自分のちからのようにふるえるのさ。とりわけ、雪や氷にすかれているようだった。それだけじゃない、彼女は自然の声がきこえた。自然と会話ができた。わかるか、人間みたいなちっぽけなものとはくらべものにならない、おおくをしっている強大な存在だ。それにあやかりたい政治家や起業家は、あとをたたない。たとえば……僕の親父とかね」

 キーボードをはじく音はとまらない。クリストフは、夢中な男の背中をながめることしかできない。 
 ハンスは、父親の会社をつげるような存在ではなかった。優秀な兄が何人もいて、いつも家族たちから蚊帳のそとにほうりなげられていた。そんなやつらから盗みぎいたことがある。ふしぎなちからをもつ奇妙な存在。それは数年前に、だれの目にもふれぬところへきえてしまった。年中雪がふきあれるおそろしい山のなか、なにもかもをこばむ、だれもがこがれる強大なちから。もしそれを、やつらをだしぬいて自分が手にいれられたなら。

「……おわった」

 たん、と最後のキーをたたき、ハンスは椅子の背もたれに身をあずけた。ちらりとクリストフを見れば、なにもわかっていない顔でパソコンの画面をのぞきこんでいた。なんとなく嫌気をおぼえながら、彼はそこにうつしだされた文章を指さす。

「自宅の親父のパソコンをハッキングした。まあ、事態はしばらく変化はないみたいだ」
「はあ……英文……」

 クリストフは目を白黒させている。ハンスは片眉をつりあげてから、要点だけを言ってやる。

「ひきこもりの雪の女王が、あとかたもなくきえちまったんだそうだ。立派な城もろともにね」
「はあ?」
「これは二ヶ月ほどまえのメールだ。それよりあとにメールはとどいていない。事態はこう着状態、雪の女王は行方不明。だが、僕にとっては、行方不明じゃない……」

 ひくい声にぞくりとする。クリストフはハンスを見やる。彼はかんがえごとをするように、あごに手をあてている。

「でも……、しかしだ。なんで、エ……雪の女王は、その」
「……」

 口ごもるクリストフ、ハンスは彼のことばをひきつぐように、またキーボードをたたきはじめる。それから、ある資料を提示する。

「これには、例の資産家のことが書いてある。たとえば、家族構成。父と母、それから、娘。そう、ひとり娘だ。けれどね」

 つぎに、ハンスはまたにたようなものを画面にうつす。これは親父のもってた資料の、うんとおくにあったものだ。あわててぬすみだしたね。やつのパソコンからはさっさとデリートしてやった。たぶん、比較的かなりふるいものだ。なにかにとりつかれた男が、画面をゆっくりとスクロールさせる。

「そうさ、どこをしらべたってアレンデール夫妻には娘はひとりしかないと書かれていた」
「……アレンデール?」

 クリストフの心臓が、ぎくりとおおきくなった。それにはかまわず、やっとあらわれた該当の場所をほこらしげに指さした。

「けれど、それは欺瞞だ。けしさられた事実は、ここにある。……雪の女王には、妹がいる」

 クリストフのなかで、やっとのことですべてがつながった。どうして彼女が、アナにちかづいたのか、どうしてアナが、またたくまに彼女に心酔したのか。そこにあったのは、まぎれもない、本物の絆。姉妹という名のゆるぎないつながり。絶句している彼のかわりに、ハンスが画面のなかの、姉の名のとなりにならぶ、ふたりのよくしっただれかのなまえを丁寧になぞる。

「アナ・アレンデールは、エルサ・アレンデールの実の妹だ……」

 しんじられない、しんじられないはずなのに、やっとのことで真実にふれた気がする。たとえば、あなたとおなじ気持ちだって言えば納得できる? 私もあの子がだいじなの。いつかのエルサのことばが脳裏にうかぶ。納得、納得だって。そんなもの、これでは、するしかない。クリストフはうかんだ結論をけとばすようにかぶりをふった。

「ま、まてよ。でも、アナは身寄りがないって言っていた。唯一の肉親だった両親をうんとちいさいころになくして、それからずっとひとりだったと」
「ああ、僕もそうきいた。最初はエルサのことを秘密にしているのかと思っていたが……おそらく彼女は本当になにもしらない。もしくは、記憶がいじられてる」
「まさか……」
「べつに、おかしな話でもないさ。エルサみたいなのがいるんだ、なにがあったてもうおどろけない。なあ、きみ、アナの家にはいったことがあるかい?」
「あ、ああ」
「おかしいと思わなかったか? あの屋敷を、あの世間知らずのアナがひとりで管理しているだなんてしんじられない。うらで糸をひいてるやつがちゃんといたのさ」

 エルサが、ずっとアナをまもっていたのさ。ハンスのことばに、クリストフはもう反論できなかった。そうかんがえればすべてが納得できる。できてしまう。

「……でも、なんでエルサは、アナのそばにいてやらなかったんだ。こんなにながいあいだ」
「いくらでも推論はたつさ。彼女がそばにいたんじゃ、きたない欲がだいじな妹にまで害をおよぼすかもしれない。もしくは、彼女自身のちからが、アナをあぶない目にあわせる可能性だってある」
「……」

 クリストフは、思わずその場にすわりこむ。なんだかみょうな気分だった。この脱力感の原因は、きっと敗北感だろう。けれど、それ以上に、ふしぎとすっきりしてもいた。

「……なあ、ひとつだけきいていいか?」
「ああ、かまわないけど」
「ハンス、おまえは雪の女王にたいして不気味なくらいの情念をもってるみたいだ。それなのに、あのぽやっとしたアナをだましきらなかった。それは、なんでだ?」
「……。まあ、だいだい言いたことはわかるけどね。きみ、ひょっとして物語はハッピーエンドしかうけいれられないタイプ? 随分おめでたい。わるいけど、それはこっちにぬかりがあっただけの話さ。期待にそえなくてもうしわけないけど」
「ふん……おまえだって、こっぴどい目にあわせたやつのことを気にしてわざわざおれに話しかけてきたり、こんなにだいじなおまえだけの秘密をぺろりとおれなんかにしゃべっちまう程度にはおめでたいみたいだけどな」
「……」

 ハンスはしばらく沈黙してから、パソコンの電源をおとす。そして椅子からたちあがり、クリストフのとなりにどかっとあぐらをかいて、おまけみたいにふかいふかいため息をついた。

「家業のっとりの道はながいなあ……酒でものみたい気分」
「へえ、そりゃあいい。つきあうぜ。おまえんち、いい酒がたんまりありそうだ」
「あーあ……」

 ひざのうえにほおづえをついたハンスが、くたびれた顔でクリストフを見る。しかしね、きみ、そんな得意げになってるひまがあるのかい。そして、そんなことを言うのだ。

「なんだそれ」
「僕がなんで、わざわざこんな極秘事項をおしえてやったのかって話さ。おい、間のぬけた顔をするなよ、察しのわるい男だ」
「……」

 クリストフはまばたきをする。しかしそのうち、はっとした。かんがえをめぐらすようにおよがせていた視線を、ハンスにつきもどす。彼は、真剣な表情でクリストフを見ていた。

「そうさ、なぜ雪の女王……エルサは、アナにあいにきた?」
「なぜって……」
「これも推論になるが、彼女にはなにかの覚悟がある」
「覚悟?」
「何年も城にこもって山からおりてもこなかったやつが、どうして急に、ずっと距離をとっていたはずの妹にあいにきたんだ? 彼女は、自分がアナにちかづくことでだいじな妹に危害がおよぶことをきっとだれより理解してる。それをさしおいてでも、アナにあわなくちゃいけない理由ができてしまった……」

 それはいったい、なんだろうな。雪の女王は、アナをいったいどうする気なんだ? ハンスの、ひくい声がする。愕然としたクリストフは、あのつめたい瞳を思いだしていた。
第五話 第七話
14.04.12 / 14.04.14修正