「まったく……トロール特製の香まで準備しているなんて根まわしがいいったら」
「……」
ラプンツェルのあきれた声を、エルサはまわりの喧噪のせいできこえなかったとでも言うように無視した。それに気をわるくしたふうでもないラプンツェルは、エルサのまえにおかれたかき氷をひょいとすくって自分の口にはこぶ。あ、レモン味もおいし。文句も言えない彼女は、はあっとため息をついて視線をながす。
きょうは、まさに海にうってつけの猛暑だった。たいへんけっこうな客いりの海の家の見はらしのいい座席からは、浜辺でこどもみたいに砂あそびをしている女の子がよく見えた。おおきなからだの男を砂のなかにうめて、おおよろこびで笑っている。エルサは思わず口元をほころばせたが、となりからのにやけた視線に気づいてあわててそしらぬふりをした。
「ね、きょうはわたしたちまでいっしょにくっついてきちゃってよかったの?」
「アナがそうしたいって言ったんだもの」
海にいきたい、というアナのねがいはそうそうにかなえられた。エルサとアナがたがいの思いを確認したあの日から、まだ一週間とたっていない。そうあせらなくてもよかったかな、とエルサは思う。だって彼女たちには、たくさんの時間がある。これからはずっと、いっしょにいるのだから。
「ねえ、エルサ。ところでひとつ気になってたんだけど」
「なに?」
「あのあと、もしかりにあなたの計画していたとおりになってたとして、そのときあの喫茶店どうするつもりだったの?」
「ああ……ちゃんとあの店をひきはらう手続きはしてあったし、父のとった写真や母のだいじにしていたコーヒーメイカーはちゃんとアナの家にとどけられる手はずになってたし……」
「あら、そう。本当にぬかりがないのね、あなたって」
あっけらかんとした声には、もちろんいやみがふくまれていた。エルサはだまるしかない。ラプンツェルはあれからずっとこの調子だ。とはいえ随分迷惑をかけてしまったのだからしかたあるまい。
「あの……ラプンツェル。今回の件は、本当にもうしわけなかったわ。いろいろたいへんな目にあわせてしまったみたいだし」
「べつに、そんなことはどうだっていいのよ。ただ、心配はしぬほどさせられたけど」
「……」
「ああ、いいって」
あらたまった謝罪を口にしかけたところを、ラプンツェルが手で制する。そのことばは、アナにこそちゃんと言ってあげるべきものだわ。そのとおりだな、とエルサは思った。
もちろんあれから、アナとはいろんな話をした。つまりたくさんあやまった。アナの髪の色をかえてしまったこと、記憶をうばってしまったこと、両親とひきはなしてしまったこと、ずっとひとりきりにしてしまったこと、あんなばかげたことをしでかそうとしたこと、……いくらあやまってもたりなかったが、アナのほうがさきに根をあげてそのことはおわりになった。もういいってば、あたし、そんなことがききたいんじゃないの、もっと、これからの話がしたい。そう言われて手をとられ、不覚にもないてしまったことは記憶にあたらしい。そもそも、泣き顔なんてすでにいやというほど見せてしまってはいたのだが。
「……アナは、本当につよくていい子にそだってくれたわ」
「ふうん、わたしの見たては、すこしちがうけど」
「え?」
「まあ、つよいはつよいのかな。そう、つまりは……」
あなたへの愛がね。ぱちんと片目をとじて、ラプンツェルはきめ台詞のように言った。エルサは唖然とし、すぐになにか言いかけたが、結局だまってかき氷をさくさくやりはじめた。そのようすを見て、ラプンツェルは声をあげて笑った。
「ああ、おもしろい」
「ラプンツェル、あなたね……」
「ま、あの子がどんな子かは、これからいくらでもしっていけばいいのよね。なんたって愛のつよさなら、あなたからアナにたいするものもまけないくらい……」
「え、あたしがなに?」
びくっとエルサの肩がはねる。おっと、とでも言うようにラプンツェルが口に手をあてる。ふたりがそろって顔をあげると、彼女たちとおなじようにかき氷をもったアナがいた。
「いや、なんでもないのよ」
「ふうん……ねえ、あたしもいい?」
「もちろん、おいでおいで」
鼻のさきに砂をくっつけたままのアナは、水着のうえからパーカーをはおっているふたりとは対照的に肩も腕もすっかりむきだしにして日にやけていた。
「ふたりはあそばないの?」
「私は、たのしそうなあなたを見てるだけで充分」
「とまあ、このひとはこんな調子なので、わたしくらいはつきあってあげないとね」
「あ……やっぱり、エルサ、海いやだった? あついのとか苦手そうだもんね」
アナがしゅんとしてしまったので、エルサはあせった。本音を言っただけだったのだが。あわててなにか言いつくろうかと思うが、ことばがうまくでてこない。そのようすを観察していたラプンツェルが、見かねて助け舟をだす。
「そんなの、だいじょうぶよ。ね、アナ。エルサの手、さわってみて」
「え?」
きょとんとするアナに、ぎょっとするエルサ。あなたね、とにやにやするラプンツェルにくってかかろうとしたエルサだったが、アナのほうから期待のまなざしがとんできていることに気づいてしぶしぶおれた。そっと手をさしだすと、おずおずとアナのそれがふれる。ひやりとした温度が、アナのてのひらにひろがった。わ、と思う。
「気持ちいい……」
「そうそう、夏のあつさなんて、このひとにはかなわないのよ」
「うん、すごいね」
ここちよい体温を堪能するために、アナがエルサの手をますますにぎる。つぎにはそれをほほにあて、気持ちよさそうに目をほそめてほうっとため息をつく。そのなかむつまじいようすを見てうんうんうなずいていたラプンツェルだったが、そのうちにはっとする。
「……ごめん、アナ。たしかに夏のあつさなんかどうってことないみたいだけど。エルサのほうがかなわないものもあったみたい」
「え、あっ」
アナがあわてて手をはなす。それというのも、エルサが真っ赤な顔で視線をおよがせてしまっていたからだ。
「ごめんなさい、あたしあつくるしかったね」
「いや……ちがうの、いいの、だいじょうぶ」
エルサが顔を手であおぎながらぼそぼそ言う。それから笑いをこらえるラプンツェルをじとりと見た。
「ラプンツェル……あなたいい加減にしてもらえる?」
「いやごめんごめん……それにしても、そんな気はしてたけど、エルサってやっぱりむっつり……」
「勘弁して」
ひたいに手をあて、エルサがうなだれる。こんどこそラプンツェルは、こらえきれず笑ってしまった。そこでやっと、ふたりはそのようすをじっと見ているアナに気づく。なあに、とエルサがたずねると、はっとしたアナがむずがゆそうに首をかしげる。
「や、あのね。エルサとラプンツェルが話してるのって、なんだかへんな感じだなって」
「ああ、そうかもね。わたしからしてみると、アナとエルサがいっしょにいるだけで感無量だけど」
「私は……」
言いかけたエルサが、ふたりを交互に見やる。それから複雑そうな顔をしてだまってしまった。にえきらないその態度にアナがきょとんとしていると、ラプンツェルが耳元に口をよせる。あなたのおねえさん、わたしたちがなかよしなものだからやきもちやいちゃってるみたい。えー、と思っているうちに、もちろん目のまえの内緒話なんてすっかりきこえていたエルサがひらきなおったようなため息をついた。やきもちを肯定されたような気になったアナが、はずかしそうに唇をとがらせる。そのもじもししたようすを見て、ラプンツェルがふうんと鼻をならした。
「……なんだか、ちょっと思ってたんだけど。アナって、エルサのまえだとおとなしいわよね」
「え、そう? そうかな?」
「うん」
となりからは、まだ遠慮されていてわるかったな、とでも言いたげな視線がとんでくる。まったく、もっと都合のいい解釈をしてもいいだろうに。ラプンツェルがあきれているうちに、話をそらすようにアナがあれっと言った。
「そういえばユージーンは? さっきから全然見ないけど」
「ああうん、あのひと、いまいそがしいから」
「なにそれ」
「こんなふうに魅力的な乙女があつまってると、不埒な輩の標的になっちゃうってこと」
ラプンツェルが冗談めかす。つまりは、ユージーンは彼女たちをねらう軟派男どもを牽制するのにてんてこまいというわけだ。なるほどなと合点したアナは、ふたりともすごくもてそうだもんね、と他人ごとのようにしみじみ言う。エルサとラプンツェルは顔を見あわせた。
「いやいや、あなたね……」
それからなにかを言いかけたエルサだったが、アナはなにもわかっていない顔できょとんとしているわラプンツェルがおもしろそうに傍観しているわで、すぐにあきらめた。
「……この話はうちに帰ってからゆっくりね」
「えー、あたしなんかおこられるようなこと言った?」
アナが唇をとがらせて不服をならべ、エルサはのらりくらりとそれをいなす。ラプンツェルは、そんなふたりをながめながらかしみじみしてしまっていた。ふたりがおなじ家に帰る。ただそれだけのことが、こんなにすてきなことなのだ。ふふ、と思わず笑みがこぼれる。するとふたりの視線があつまってはずかしくなってしまった。あわてて話をそらす。
「そういえばさ、あなたたちのおうち。あの喫茶店、まだはじめないの? わたしお客さん第一号ねらってるんだけど」
「あ、それ。あたしも気になってたの。せっかく準備もできてるのにどうするのかなって」
こんどはエルサに視線があつまる番だ。とうの彼女は、思いがけぬところをつつかれたという顔をしている。それからううんとすこしかんがえて、言いにくそうに白状する。
「……じつは、もともと開店させる気なんてなかったから、営業許可の申請とかそういうの、全然しないのよね」
えー、とアナから不満の声があがる。ラプンツェルはまたあきれる。まったく、準備にぬかりがないうえに無駄を極力はぶきたい主義は徹底しているらしい。アナから不満をぶつけられているエルサは、こんどこそもうしわけなさそうに苦笑している。
「……いいじゃない。お店、ふたりでやったら?」
アナ、やってみたいんでしょ? 水をむけてやると、アナはぱたりとだまってしまった。エルサとのことになるといざというときはしりごみしてしまうあたりがアナらしい。それからしばらく彼女はてれたように首をかしげていたが、ついにはうんとうなずいた。それに満足して、つぎにエルサを見た。彼女は目をぱちぱちさせていたが、そのうちに口元をゆるませる。
「そうね、アナがそう言うなら……」
「まってまって、それはずるいでしょ」
ラプンツェルにさえぎられ、エルサはまた目をしばたかせる。しかしすぐになにを言われているのか理解したらしく、あなたって本当におせっかね、とこまった顔で笑った。それからそっと、アナの手をとる。
「……私も、あなたといっしょにお店をしてみたいわ」
アナがいよいよ顔を赤くしてうつむいた。エルサはうれしそうににこにこ笑っている。なかむつまじいそのようすを、美人姉妹の経営する喫茶店なんてなかなかおしゃれじゃない、とラプンツェルが茶化した。
「ちょっとラプンツェル、エルサはともかくあたしにそれは荷がおもいって〜…」
「あら、そんなことないでしょうに。ね、エルサ」
「まったくそのとおりだわ」
さらにはエルサにまでさらりと言われ、アナは愕然とした。どうやらいつのまにか話が自分をからかう方向にシフトしていたらしい。この際だから言いますけど、とかあなたはもうすこし自覚をもって、だとかエルサがお説教みたいにせつせつとかたりはじめてあせった。となりのラプンツェルは随分たのしそうにしているし、これ以上はずかしめられるわけにはいかない。アナはどうにか話をそらせないかと視線をめぐらせる。そして、見つけてしまう。
浜辺にたっているとある貸しパラソル、そのしたには彼女たちの荷物がおかれていて、その番をしているひとがふたり。先程アナに砂のなかにうめられていたクリストフがつかれきった背中をさせて、そのとなりにではずっと荷物番をしていたハンスが退屈そうに海をながめていた。彼らはなにか言いあいをしているようだ。あのふたり、いつのまにあんなになかよくなったんだろう。ぼんやりと思っているうちに、アナは無意識のうちにつぶやいていた。
「……エルサって、クリストフのことすきなの?」
アナ、あなたは本当にかわいいんだから。そんなことを言っていたところだったエルサがぴきりとかたまる。はっとした、人前でする話ではなかった。ラプンツェルを見ると、彼女はぎょっとしたようにエルサを凝視していた。なにをしているんだろうと思う。
「あ、ごめん、急にこんな……でもあたし気になってて」
「ないないないないないないないない」
絶句していたエルサが、われにかえったように首をふる。気をつかわなくていいのに、とアナは思った。
「や、あのね、だいじょうぶ、あたしなんていうかその、クリストフとはちゃんとおわりにしたから。ちゃんと話、したから」
「ないないないないないないないないないない」
「いやおちつきなってエルサ」
ラプンツェルに肩をたたかれて、エルサはやっとはっとしたようだ。それでもさらにありえないと言いつのり、まるでアナの誤解をとこうと必死なようだった。アナはすこし混乱した。
「え……でもだって、あのとき、エルサ、クリストフと……」
「エルサ、あなたなにやったのよ」
ラプンツェルのあきれた声がする。エルサはひたいに手をあててうなだれている。それから自分のてのひらをながめて、はあっとおおきなため息をついた。
「あれはなんていうか、その、時間がなかったからあせってたというか、すこしおどすだけのつもりだったというか……」
エルサがよくわからないことを言う。しかし首をかしげるアナとは対照的に、ラプンツェルはだいたいの事情を察したらしく、同情的な目をエルサにおくっていた。そしてそのうちに、エルサがぼそりとつぶやいた。でも、嫉妬の気持ちがあったのも、きっとまちがいないのね。どきりとした。嫉妬。やはりエルサは、クリストフのことを。原因もわからないまま、アナは胸のおくにはしったいたみにまゆをひそめる。だが、直後のエルサの耳をうたがうような台詞に、そんなものはふきとばされてしまった。
「つまりは、頭がおかしくなったようなことをしでかしちゃうくらい、私はあなたのことをあいしてるということよ」
「あははは!」
「……、い、いま、そんな話してた?」
「してたみたいねえ、あっはははは!」
ラプンツェルが目尻に涙をためて笑う。エルサがついにはテーブルにつっぷしてああううとうめき声をあげはじめてしまう。アナは混乱しながらも、顔を赤くすることはしっかりわすれないでいたのだった。
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がたん、ごとん、と電車がゆれる。車窓からはしずむ夕日がよく見えた。あの日に見た夕日とかわらないそれだった。通路をはさんだむこうのながい椅子のまんなかあたりで、クリストフとハンスがつかれた顔でねむっている。とはいえそのさまは個性的だ。おおきな口をあけてよだれをたらしそうなクリストフ、そんな彼に肩を枕にされているせいで寝苦しそうに顔をしかめているハンス。本当になかよくなっちゃったんだなあ、とアナはふしぎな気分だった。とはいえ、ふたりにそう言えば即座に否定がとんでくるであろうことは、彼女のしるところではない。
車内はそれなりにこんでいたから、ラプンツェルとユージーンはどこかはなれた席にならんですわっているはずだ。そういえば帰りの電車にのるまでずっと、ラプンツェルを自分たちのほうにひきとめてしまっていた。ユージーンにはわるいことをしたかな、とすこしだけ思う。でもたのしかった、たくさん話ができた。ラプンツェルと、それから。
「きょうは、きてよかったわね」
ふと、こころに思いえがいたひとの声がしてどきりとした。みな海から家路にむかっているのだろう、車内はぼやけた倦怠感がただよって、そのなかでアナとエルサはならんですわっていた。なんとなく遠慮しながらとなりを見ると、エルサが微笑んでいる。うん、とうなずいた。
「もう帰るんだなって思うと、すこしさみしい」
「じゃあ、また来年もきましょう。来年は、そうね……よければふたりで」
エルサがなにか話すたび、胸のおくがぽかぽかしてくる。ちらり、と視線をおとす。彼女のひざのうえでおとなしくしている手をとってしまいたいな、と思ったが、結局実行できなかった。そうやってもたもたしているうちに、そういえば、とエルサが言う。
「そういえば、あなたに生徒手帳をかえさないとね」
「え? なにそれ」
きょとんとしていると、エルサがまばたきをしてからしまったという顔をした。
「気づいてなかったの?」
「なんのこと?」
それから彼女はだまってしまって、よけいなことを言わなければよかったという顔をした。といつめるつもりでじっと見つめると、むこうはついにはおれた。
「……はじめてあった日にね、ちょっと、あなたの鞄からかりてたのよ。ああ、気づいてないならだまってかえしておけばよかった」
「えー、なんでそんなこと」
「……」
しぶしぶと、エルサが説明する。あなたの屋敷からだれもいなくなる日にね、とどけにいくつもりだったのよ。そうすれば、こまってるあなたを私のうちにつれていけると思ったから。
「へー…、手がこんでらっしゃいますこと」
「そう言わないで、必死だったのよ、私。……でも結局」
アナのほうが、私にあいにきてくれたわ。しずかなのに、どこかうれしそうな声。アナはどきりとする。
「ねえ、そもそも、最初だって私のほうから偶然みたいな顔をしてあなたとしりあいになるつもりだったのよ。でも、そのときだって、あなたがさきに私を見つけてくれた……」
ね、あなたにとっては全部つくりものの偶然かもしれないけど、それでも私にとっては、全部運命だったの。そう言ってエルサがあんまりきれいに微笑むから、アナは顔をあかくするしかなかった。あんまり的確に、アナのこころをくすぐってくるからこまった。なんと言えばいいのだろう、初対面のときからすらすらと歯のうくようなことを言ってくれたエルサ、あれはこちらをさっさと自分のとりこにするための方便なのかと思っていたのだが。
(これが素なんだあ……)
私は本気で思ってることしか言わないわ。はじめてあった日に彼女が言ったことばを思いだして、アナはなんだかむずがゆい気持ちになってしまった。正体をかくしているあいだにエルサからもらったことばもすべて、きっと彼女の本音だったのだ。急にはずかしくなる。もじもじとうつむいても、きっとエルサは笑っている。うれしそうに、笑っているのだ。うーん、と思う。あたしもなにか、はずかしいこと言わないと。エルサのことをてれさせたくてかんがえてみるが、なにもうかばない。
「ねえ、そういえば、どうして喫茶店だったの?」
だから結局、話をそらすようにまえから気になっていたことをきくしかできなかった。開店させる気もないようだったのに、どうしてわざわざ喫茶店をえらんだのだろう。首をかしげるアナを見ながらエルサはすこしかんがえて、あのねと言った。
「あなたのおかあさんはね、むかし喫茶店につとめていたのね」
「じゃあ、エルサのおかあさんってことでしょ」
「うん、そうね。そして、そこで私たちのおとうさんとであったのだそうよ」
エルサは、ぽつぽつとおしえてくれた。母にひとめぼれした父は、その喫茶店の常連になった。それからゆっくりなかよくなって、写真が趣味だった父は、店のなかに自分のとった写真をかざってもらうようになった。プロポーズをしたのも、その店先だったらしい。
「私きっと、父と母の思い出を共有したかったのね。……あなたと、アナといっしょに」
そっと、エルサがアナに身をよせる。どきどきしながら、アナもエルサの肩に頭をあずけた。ねえ、じゃあやっぱり、あの喫茶店ちゃんとやらなきゃだめだよ。あたしたちふたりで、お店、しようよ。アナは、あたりまえのことを言った。そのつもりだった。けれど、エルサはすぐにはうなずかなかった。
「ねえ、アナ」
「なに?」
「……まだ、きこえる?」
端的な言いかただったが、エルサがなにをたずねているのかはわかった。彼女は、このことをひどく気にしているようだった。けれど、これはきっとエルサの杞憂なのだろうとぼんやり思う。あの日、アナにすべてをおしえてくれた。それは、アナがそれをきくことができたからではない、ほかのだれでもない、エルサ自身がそうのぞんだからなのではないだろうか。
(そう思うのは、うぬぼれかな)
エルサののぞみは、アナにすべてをわすれてもらって、自分はきえてなくなってしまうことだった。ふしぎなちからをもつ彼女は、きっとすべてをなしとげられるはずだったのだろう。けれど、こころのどこかでは、アナにすべてをうちあけて、いつまでもともにありたいと思ってくれたのではないだろうか。
「だいじょうぶよ、あたし、ふっつーの凡人だもの。あれ以来なにもきこえない。ね、そういえばさ、あのときのなんとかっていうおじいさん、ハンスがうまいことしてくれたみたいよ。なんかよくわかんないけど、彼のおとうさんとあのひと、しりあいらしくて」
だから、もうあのひとはエルサのことねらったりしないわ。アナは、えいっと気合いをいれてエルサの手をとった。ぴくりとふるえた指先におじけづいたが、彼女はすぐににぎりかえしてくれた。どきどきした。
「……けれど、いつだれが私のちからをもとめてやってくるかしれない。私、そんなことになったら」
安心させようと思ってえらんだ話題だったが、エルサはよけいに声をひくくしてしまった。アナはあわてた、こういうとき、なんと言えばいいのだろう。なにもうかばなくて、自分はエルサのことをすこしもわかっていないのだと思いしらされた。
「けれどきっと、あなたがそばにいてくれるなら、だいじょうぶよね」
しかし、エルサがやさしい声で言ってくれる。きゅ、と手をにぎってくれる。絶対にエルサのほうがつらいはずなのに、アナのほうがなきそうになった。
「……そ、そうよ。あたしが、エルサのことまもってあげるからね」
「うん、うれしい」
結局、こちらが気をつかわれた気がしてならなかった。なんだかなさけなくなる。ねえ、エルサ。あたしね、あなたのこともっとしりたいの、そしたらきっと、あたしも、ちゃんとエルサのこと安心させてあげられるから。そう言いたいのに、うまくいかなかった。
「エルサ」
「なあに?」
あたしも、エルサのこと、あいしてるからね。先程よくわからないままきいたエルサのことばにこたえたかったが、これも結局声にならなかった。自分がこんなにいくじなしだなんてしらなかった、いつも、エルサばかりがすてきなことばをつたえてくれる。声をかけておいてだまってしまったアナを、ただ見つめてくれる。ちゃんと、つたえなければいけないと思った。
「……エルサ、あたしね、いまきっと、エルサといっしょにいられてすごくしあわせなの。あたし、エルサの妹でよかった。エルサがあたしのねえさんで、よかった……」
はずかしくてうつむきそうだったが、がんばってエルサの目を見ていた。すると彼女の瞳がふるえて、むこうがさきに目をそらしてしまう。
「アナ、あなたね、こんなところでそういうことを言うものじゃないわ……」
うつむいたエルサがてのひらで目をおおう。しばらくそうしていた彼女が、ふるえているのにたしかに凛とした声で言う。私、あなたのことも、あの喫茶店も、ずっとずっとまもるわ。かならず、まもりぬいてみせる。それは、先程のアナのことばへの返事だった。これからも手をとりあって、父と母の思い出をまもり、アナとエルサの思い出をつくっていく。
「……エルサって、あたしより年上なのになきむしよね」
アナは、エルサの台詞をそっくりそのままかえすつもりで、やさしく彼女の肩をだく。ねえ、あたしのねえさん。いとしいいとしい、あたしだけの。なにがあったって、あたしたち、これからずっといっしょよね。そんなアナ自身だってそのときすこしないてしまっていたのを、車窓からのぞくきれいな夕日だけが見ていた。
ねえ、喫茶店のなまえはなにがいいかな、あたしね、あんまりそういうセンスに自信がないから、エルサがきめてほしいな。そしたらね、あたし、看板をつくるの。エルサって力仕事は苦手そうだから、そういうのはまかせてね。きっと、きっとね、すてきなお店になると思う、ううんそうじゃないわね、あたしたちで、すてきなお店にするの。ね、あたしたちなら、きっとできるよね。
がたん、ごとん、と電車はゆれる。アナとエルサを、彼女たちふたりの家へとつれていく。ただいまとおかえりを言いあう、ふたりのだいじな帰るべき場所へと、つれていく。
おわり