「まえから思ってたんですけど」
唐突な前置き、しかしつづきを言うこともなく、その後輩はとんとんとあゆみよってきた。声をかけられたジェニーはなにと返事をしながら身をかがめる。それというのも、不覚にも束になったいくつもの資料を床にぶちまけてしまったから。
「てつだいます」
「ありがとう」
「や、あたしがたのんだことだし」
ヨット部の部室のおくにしまわれていた、この時代錯誤気味な大量の紙の資料はなかなかの重量を有していた。厚みのある束をひとつずつひろいあげながら、ジェニーはちらりと視線をあげる。思った以上の量だったのか、これを見たいと申し出た彼女は少々うんざりした顔をしている。ヨット部に代々うけつがれている練習帆船オデット二世のあれやこれやが記された書物たち、ジェニーもいちど目をとおしたことがあった。
「オデット二世のなかの探索にいきづまっちゃった?」
「……」
机のうえに堂々とつみあげられた資料をぼんやり見おろしていたその後輩、リンはぱちくりとまばたきをしてから顔をあげた。それから頬をかいて、はあ、と曖昧な返事をした。
リン・ランブレッタといえば、名うてのハッカーだ。そして、目のまえにあるのが骨董品たる時代おくれな練習帆船とあっては、そのなかをのぞいてみたいと思わない彼女ではないのだろう。だがしかし相手はなかなかの強者だったようで、できるかぎり手札をふやしたい彼女の苦肉の策がこれと言ったところか。しかし残念ながら、非効率そうに見える大量の紙の束は、見事に彼女の戦意をそいでいるようだ。
「あなたでも、ハッキングがうまくいかないことがあるのね」
「そりゃあ、いくらでもあります」
そのきまりのわるそうな顔は、部の備品であるところのオデット二世の中身をこそこそと盗み見ていたことのうしろめたさからくるものなのか、それともその盗み見があまりうまくいかなかったことを言いあてられた面目のたたなさからくるものなのか。
「まともじゃないですね、あの船。いったいどんな秘密があったらあんなにでたらめで厳重なセキュリティかける必要があるんだか」
どうにも言いわけじみてきこえてしまうその台詞からして、どうやら正解は後者のほうらしい。ジェニーはすこし笑ってから、ぽんと資料のうえに手をおいた。
「じゃ、是非これをオデット二世攻略の役にたててください。ちゃんと役立つかはなんとも言えませんけど」
ハッキングにいきづまったときのことを思いだしていたらしくしぶい顔をしていたリンは、ジェニーのことばをうけて意外そうにまばたきをした。案外百面相らしい。
「あれ、おこんないんだ。あたし勝手に船の中身ぐちゃぐちゃにするかもしれないですけど」
「しないわよ、あなたは」
「……ふうん」
ジェニーがこともなげに言うと、リンは肩をすくめてあらためて机のうえに視線をおとした。正直なところ、ジェニーもオデット二世には興味をそそられている。彼女ならばオデット二世内のさまざまなデータの解析をうまくやってしまうかもしれない、という期待もあるのだ。
「おしつけがましいんですね」
すると、そんな思考をよんだかのようにリンがひくい声をあげた。少々ぎくりとしたが、どうやらいまのはジェニーの先程のあなたはそんなことはしないといった旨の台詞にたいするものらしい。無条件の信頼をよせているとつたえれば、意味もなくそれにこたえたくなってしまうのが人間の心理というものだ。しかし、そうはならない人間も当然いる。ジェニーは自分が失敗したことに気づいた。
「ごめんなさい、気にさわった?」
「いや、全然」
まるで会話をする気がないと言わんばかりの返事をもらってしまった。案外ナイーブなのか、それともまたべつの理由があるのか、リンのわかりやすく唐突な敵意は意外だった。ここは不遜な態度の後輩をしかってもいい場面だが、なんとなくこちらにも落ち度があるとジェニーには思われた。彼女は一瞬かんがえて、ここはいったんひいたほいがいいと結論づける。わざとらしく部屋の時計を見てから、ジェニーはそれじゃと言った。
「それじゃ、部室の鍵はわたしておきます。それから資料は、とりあえずとりだしやすい場所にスペースつくっておいたから、しばらくはそこに保管しておいて。もうつかわなくなったらまたおくのところにもどしておかなくちゃいけないけど、そのときは私もてつだいます。ちなみに、これの持ち出しは厳禁なので気をつけて。ちゃんと下校時刻はまもってね」
事務的な伝達をして、ジェニーはきびすをかえそうとした。すると、思いがけぬよびとめがあった。
「まえから思ってたんですけど」
それは、先程中途半端になっていた前置きだった。ジェニーは反射的に足をとめ、リンへとふりかえる。彼女はじっとこちらの目を見ていた。そしてこんどこそつづいたのは、まったくもって思いもよらなかった台詞だ。先輩って、右目見えてないんですか?
「……」
沈黙は金。ジェニーは無言でとんでくる視線をうけとめていた。味気ない見つめあいは一瞬にも何分にも感じられたが、結局さきにおれることになったのはジェニーだった。胸のしたのほうで腕をくみ、すこし首をかしげてから息をつく。
「おもしろいこと言うのね。どうしてそう思ったの?」
「なんとなくですけど」
「ふうん……そう」
ふと、当て推量がうかぶ。彼女の指摘は、残念ながら明確だった。ジェニーの右目は現在光を感受していない。ふむ、と一考してジェニーは大仰なしぐさで自分の顔の右半分をてのひらでおおった。
「まあ、たいした話ではないんだけど。たまに見えなくなるのよね、これ」
「たまに?」
「そう、医者が言うには、ストレスが原因じゃないかってことらしいけど、たしかなことはよくわからない」
「へえ、先輩って図太そうなのに、案外繊細なんだ。不便じゃない、それ」
「それがね、なれちゃえばどうってことないのよね」
そう、彼女にとってこれはなれたことなのだ。だからこそ、他人に感づかれるようなふるまいをしているはずもなかった。それでも気づかれてしまったとなれば、やはりそれなりに理由が存在するだろう。それをさぐるべくじっと彼女を見てみるが、むこうもおなじような視線をかえしてくるばかりでどうにも無為な時間がながれてしまった。なかなか警戒心がつよいらしく、へたなことを言わぬよう黙ることは心得ているようだ。沈黙は金、どうやらリンのほうがよく理解しているらしい。ジェニーはついつい口をうごかす。
「だから、気づかれるなんて思いもよらなかった。ねえ、よく見てるのね、私のこと」
「なんかうぬぼれたことかんがえてない?」
「あら、それってたとえばどんな?」
「さあ、しりません」
そもそも、彼女が所望したこの資料に関することだって、本来ならば部長あたりにまずたずねるのが道理だろう。しかしリンは、まっすぐジェニーのところへとやってきた。そこにもまた、理由は存在するはずだ。愛想笑いをうかべながらこりずに見つめつづけていると、こんどはリンがにやりと笑う。相手の気分をわざと害するための笑いかたに見えた。おやと思っているうちに、むこうもやっと話をしだす。
「でもま、気になってたってのは、否定しないです」
「あら、そうなの」
「いや、ちょっとちがうな」
リンはわざとらしくもったいぶって、腕をくむ。鋭い視線がとんでくる。にやけた口元がういてみえるような、きつい表情だった。あんた、あたしがいちばん気にさわるやつの顔してるんだもん。
「ひとのこと利用するのが、得意なやつの顔だ」
こんどこそ、遠慮のない敵意がとばされてくる。ジェニーはぱちぱちまばたきをして、その顔にすこしは満足したらしいリンはふんと鼻をならしてあるきだす。すみません、きょうのところは、その資料はいいです。あしたからでも、拝見させてもらいます。すいっとよこをすりぬけて、リンはさようならと言いのこしてたちさった。
「……あらまあ」
ぱたん、としめられた部室のドアをながめながら、ジェニーは頬に手をあてた。すこしからかうつもりが、随分手ひどい反撃をうけてしまったものだ。おまけに、資料のかたづけまでおしつけられてしまった。さすがにこれについては、あした小言を言ってやらねばなるまい。ジェニーは先程リンに説明したとおりにそれをしまった。そうしているうちに、冷静になってくる。思いがけず図星をつかれて、ひょっとしたらすこし動揺していたのかもしれない。ちょっとなさけない気持ちになって、ため息がもれる。
(ひとのこと利用するのが、得意なやつの顔だ)
ふとよみがえったきいたばかりの台詞、ジェニーの手がふととまる。また、ため息がもれる。
(さすがにすこし、傷つくわね)
ジェニーは、自分の頬をかるくつねった。わずかに右目のおくが痛んだ気がした。